第3話 少女、邂逅ス

 楽しげな小鳥の囀りで、花笠花織は眼を覚ました。

 遮光カーテン越しに感じる陽光の暖かみに、うっすらと瞼を開けると、盆に朝食を載せた母が部屋に入って来るところだった。

「あら、起きてたの。今日は調子が良さそうね」

 微少を浮かべた彼女は、花織が寝ているベッドの脇の机に盆を置くと、娘の額に軽くキスをした。

 何時までも子供扱いする母に、反抗心がないでもなかったが、花織は大人しくそれを受け入れた。人に世話を――正確に言うなら介護をしてもらわねば生きていけない己の病身を思えば、たとえ歳が十五であろうと、親にとっては赤ん坊と何ら変わりはないのだから。

 花織は薄紅の桜柄の寝間着を着て、ベッドに横たわっていた。その体は華奢というより痩身と呼ぶ方が正しい。僅かに肉はついているが、殆どが骨と皮である。少女に相応しい胸の膨らみは無いに等しく、肋が浮いて見えた。

 花織が己を少女だと誇れるものは、肩口で切りそろえられた黒髪くらいしかない。

「昨日、変な夢を見たの。誰かがお家に来る夢」

 朝食である流動食を、母の手で口に運んで貰いながら、合間合間に、花織は不思議な夢の話を語った。すると、母は一瞬、キョトンとしてから、クスクスと笑い出し、

「それは正夢ね。本当にお客様が来てるのよ、今。お父さんの仕事の関係の方なんですって。お疲れだからって、離れで休んでいらっしゃるわ」

 夢が当たったことよりも、泊まりの客が来ていることの方が、花織には驚きだった。

 花笠家には滅多に客人が来ない。名家であったのは過去の話だ。鞍馬山の山奥の屋敷にわざわざ訪ねてくる者等、親戚ですら稀である。だが、地理的な問題だけが原因ではない。

 花織は未熟児として生まれてきた。それも心臓に疾患を抱えた状態で。何時死んでもおかしくないと医者に言われ続けて来た。それでも花織はこの歳まで成長することが出来たが、それは彼女の命を守る為に、両親があらゆる努力をしてきたからでもある。

 その努力の中に、他人をなるべく家に入れないというものも含まれていた。常人ならば風邪で済むような病原菌も、花織にとっては命取りになりかねないのだ。だからこそ、花笠家は客人というものを、拒んできた。

 その花笠家に宿泊客がいるというのである。

「珍しいこともあるのね、お母様」

 好奇心を擽られた花織は、身をなんとか起こして、母の顔色を窺った。母は愛おしげに娘の髪を撫でながら、

「最初、私も吃驚したわ。でも、大事なお客様なんですって。今度こそ、花織の体を治せるかもしれない……そう言っていらしたわ」

「そう……それは大事なお客様ね……本当に」

 花織は危うく自虐的になりかけたのを何とか堪えて、小さく微笑んだ。

 最早、聞き飽きてしまった「治るかもしれない」という言葉。その言葉を聞く度に、期待をしては落胆し、希望を持っては絶望してきた。聞かない方が良いくらいだ。

 仮面をつけることを覚えたのが何時頃なのか、もう覚えてはいない。死への諦観と人生への自嘲に心までも蝕まれていることも、今では気にならなくなっていた。

 花織の心に強くある感情は、生への執着ではなく、世界をこんな様にしてしまった人間に対する憤懣である。

 戦前の技術が使えるならば、花織の病を治すことは、そう難しいことではない。だが、現在では、戦争時の《電磁破界》の影響で、電子系の医療機器は満足に使用出来ず、また、高度な科学技術は法律によって利用が制限されてしまっている。

 花織は世界に見放されたも同然であった。時代が違ったならば、普通の少女として、友人を作り、学校に行き、恋人と睦言を交わすことが出来たかも知れないのに。

 花織は只只、諦観し、恨むことしか出来ない。己の蜉蝣(かげろう)のような人生のことを。

「最初は一年保たないって言われていたのに、もう十五ですもの。待っていれば、きっと治療出来る日が来るわ。今回はいつもとは違うみたい。お父さんの張り切り様を見るとね」

 母はもう一度、優しく花織の額にキスをすると、経口薬を飲ませて、部屋を出て行った。

 再びベッドに横になった花織は、額を撫でながらボンヤリと、自分に残された時間について考えていた。一年か、一ヶ月か、一週間か、もしかしたら明日、唐突に今日かもしれない。

 時偶、花織という自分の名が、呪いのように思えてくることがあった。

 花は美しい。しかし、同じ場所から自らの力で動くことは叶わず、その命はあまりにも儚い。

「お客様……どんな人なのかしら」

 治療の話に期待はしていないが、久方ぶりの客に関しては興味があった。身内以外で会う機会のある人間など、医者ぐらいしかいない。

 花織は意を決すると、ベッドから降り、部屋中に通された手摺りに体重を預けた。握る手がブルブルと震えるが、これで歩けないことはない。手摺りは屋敷の殆どの場所にあるので、それを伝って移動することが出来る。

 なるべく部屋を出ないようにと言われている。健康の為の運動という言い訳は難しい。客人に勝手に会えば怒られるのは必定だ。

 それでも、会ってみたかった。少しでも多くの人との出逢いを欲する気持ちはまだ、萎えてはいない。

 花織は部屋を出ると、渾身の力で、離れを目指した。蝸牛の如き鈍さである。一歩足を進めるだけでも汗だくになる重労働だ。心ばかりがはやり、体は一向に進まない。

 それでも、どうにか離れにつくことが出来た。母の言う通り、体調が良いのは本当なのだろう。ただし、乱れた呼吸を整えるのに、かなりの時間を要したが。

 離れは八畳の畳敷きの和室と聞いていたが、実際に入ったことはない。

 花織は障子の向こうにいる客人に向かい、おずおずと、

「あの……花笠の娘で、花織と言います。少し……」

 その後が続かなかった。思えば他人と会話をするのは何時ぶりだろうか。そもそも、ちゃんとした会話が出来るのか、その自信さえ彼女にはなかった。今更ながら、後悔の念が湧き上がってきた。

 幸か不幸か、客人からの反応はなかった。所用で、部屋にはいないのかもしれない。

 花織は道徳心と好奇心を天秤にかけた結果、そろそろと障子を開けてみることにした。

 畳の上に置かれた籐椅子に、少女が座っていた。

 花織は息をするのも忘れて、その美しい少女の貌を見つめていた。そうしている内に、「もっとよく見てみたい」という願望が芽生え、手摺りのない部屋の中を、芋虫のように這いずりながら、少女の下へと近付いた。

 もう少しで手が届くという距離まで来た時だった。

 唐突に、少女の瞼がすっと上がった。まるで機械仕掛けの扉が開くように。


                            つづく

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