第2話 三船電蔵



 ウィスキーの入ったグラスを揺らしながら、三船電蔵は微笑を浮かべていた。

 照明の抑えられたバーの一番奥の席に、やや猫背気味の姿勢で座っている彼の姿は、お世辞にも上品とは言えなかった。

 三十路はとうに越えていよう、ガッシリとした顎には無精髭を生やし、ボサボサの髪には雲脂が絡み付いている。ワイシャツは皺だらけで、太い首の周りは垢に汚れ、灰色のズボンは色褪せてしまっている。初夏も近いというのに、くたびれた黒革のトレンチコートを着ているのも奇妙だった。

 電蔵は半ば閉じたような眼で、グラスを傾けていたが、飲んでいる時間より、手の中で弄んでいる時間の方が長かった。酒の味になど興味はなく、琥珀色の液体の中でクルクルと踊る氷球の煌めきや、グラスとの衝突で奏でられる澄んだ音色を楽しんでいるかのようである。

 店には電蔵と若いバーテンダー以外に人影はなく、デクスター・ゴードンのサックスが控えめに流れていた。

 しかし、店の外からは複数の男の怒号や何かの破砕音が、盛大に聞こえてきていた。

 電蔵は我関せずと、只只、洋酒の鑑賞に浸っている。

「……三船さん、何してはるんですか! はよ加勢して下さいよ!」

 ドアが勢いよく開けられ、髪を金色に染めた男が飛び込んで来た。スーツの袖は破れ、歯が折れたのか、口からは血を流している。開け放たれたドアから、怒鳴り合う声が、より鮮明に聞こえて来た。

 電蔵は、面倒臭げに男に眼をやり、

「野良犬の喧嘩は仕事の管轄外だよ」

 そう言い捨てて、グラスの中身をちびりと飲んだ。そして、また酒と氷が織り成す箱庭のオペラに意識を戻す。

「せ、せやかて、こういう時の為に三船さんがおるんとちゃうんですか? 頼んますよ」

 自分達のことを野良犬呼ばわりされたことに内心腹が立ったが、男は努めて宥め賺すように、懇願した。

 それでも電蔵は素知らぬ顔をしているので、男は堪りかねたように、

「その酒代もウチの組から出とるんですよ?」

 酒代という言葉に、電蔵は俄に渋面を作った。逡巡の後、酒精混じりの溜息を吐くと、やおら立ち上がった。

「解った。一応は用心棒だ。酒代分の仕事はしてやるよ」

 トレンチコートを開けると、内側にベルトで固定された、小太刀程の白木の木刀を取りだした。

 身長はさして高くない電蔵だが、木刀を片手に持つと、異様な凄みがあった。その佇まいには修羅場を経験した者の落ち着きと剣呑さがあり、鋭い眼光を放つ両の眼は微塵の酔いも感じさせない。

「兎に角、あの喧しいのを黙らせりゃいいんだろ?」

 男の返答を待たず、電蔵はツカツカと外に出ていった。

 店から一歩出ると、ムッとした若草の匂いと熱気が顔を撫でた。すぐ傍を流れる高瀬川はたっぷりと水を湛えているが、涼風を生むほどの力はないらしい。

 殴り合い罵り合うスーツ姿の男達は、ふらりと現れた電蔵の姿に気付きもしなかった。

 電蔵は乱闘の最中に呑気な足取りで入っていくと、いきなり木刀で男達の手首を打ち砕いた。

 骨の折れる鈍い音が続けざまに響き、空気を震わせていた怒声は、忽ち悲鳴と苦悶に変わっていく。

 一見、電蔵は無造作に木刀を振るっているように見える。だが、それは全く無駄のない洗練された技術に裏打ちされた動きだった。実戦を前提とした格闘術のそれである。

 電蔵に助力を求めた男が、その後を追って店外に出た時には、もう事態は終息していた。

 痛む腕を抱え地面に倒れ伏した男達の真ん中で、電蔵は木刀で肩を叩きながら欠伸をしていた。

 残りの男達は電蔵の周囲に壁を作っていたが、手を出すに出せず、歯噛みしていた。

 電蔵は自分を呼び出した男と眼が合うと、肩を竦めて、

「あー……すまん。どっちが味方か解らんから、五月蠅い奴を叩いといた。まあ、酒代分の働きにはなったろう。後は勝手にやってくれ」

 ボリボリと雲脂を散らして頭を掻きながら、自分に向けられる殺気にも頓着せず、店の中へ戻ろうとした。

 だが、ふいにその足がピタリと止まった。

「待てや! 何処行く気や、このダボが!」

 一人が、紫色に腫れ上がった手首を庇いながら、無事な方の手にナイフを持って叫んだ。それに呼応するかのように、彼の身内らしき者達が、銘銘に得物を構えて、電蔵の背中に血走った眼を向けていた。

 電蔵を雇っている側の男達も、殺伐さを増した状況に息を呑んで成り行きを見守っている。そもそも彼をよくは知らないので、どう動けばいいのか迷っていたのだ。

 電蔵はゆっくりと振り返ったが、その眼は凶器を持つ男達の誰をも見てはいなかった。

 彼の視線は、木屋町通りをこちらに歩いてくる、着物姿の少女に向けられていた。

 少女はあまりにも場違いな存在だった。猥雑なこの歓楽街に、着物に番傘の少女は相応しくない。乱闘の現場に導かれるように進んでくるとなれば尚更である。

 殺気立っていた男達も、毒気を抜かれ、魅入られたように、その少女の姿に釘付けになっていた。

 そんな中、電蔵だけは違う意味で少女に眼を奪われていた。不思議な既視感が、彼の脳髄に警鐘を鳴らしていた。記憶の奥底に眠っていた、忘却出来ぬ因縁の気配。

 電蔵は思わず身構えていた。瞬時に行動出来るように。防御の為、或いは逃走の為に。

 少女はしずしずと暴力の輪の中に入ってきた。ネオンに紫陽花柄が浮かび上がり、瞳は玉蟲色に輝いている。

 それを咎める者は誰もいない。変だとは思う。妙だとも思う。それでも身体は動かず、咽喉は塞がったまま、息をするのも忘れていた。

 と、少女は細い人差し指をすっと上に伸ばした。

 それにつられて皆もその指の先を見上げる。奇術師の魔技に誘われるように。

 袖から露わになった白い腕が、くるりと円を描いた。

 もっとも、それを知覚出来た者はいなかった。彼女を中心として突如起こった旋風を理解出来た者も。

 唯一、電蔵だけを除いては。

 彼の体は凄まじい勢いで煉瓦造りの店の外壁に吹き飛ばされていた。そのあまりの衝撃に、外壁は脆くも崩れ、電蔵は店内にまで吹き飛ばされてしまった。

 少女は風が収まるのを待ってから、番傘をパッと開き、何事もなかったかのように木屋町通りを進み始めた。

 自分の傍を擦り抜けていく少女の姿を、一人の男が首を巡らせて追いかけた。

 男はポカンとしてしまった。体は動いているのに、顔はそのまま正面を向いた状態だったからだ。

 その場にいる者全員の恐怖におののいた視線が、彼に突き刺さっていた。彼は意味が解らなかった。何故、そんな眼で見られるのか。いや、そもそも、体は少女の方に向いているのに、何故、自分の顔は元のままなのか。

 次の瞬間、男は理解した。落下していく視線の先に少女の姿を捉えながら。

 それが合図となったかのように、一斉に血の水柱が吹き上がった。

 ゴロゴロと生首が地面に転がり、噴水のように血液を播き散らしながら、十数人の体が崩れ落ちていく。

 深夜の繁華街は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄と化した。

 恐慌を来した者達は意味不明な叫び声を上げながら逃げ惑う。胃の中の物を全て吐き出し、涙と血に顔を濡らしながら。

「……待て、おい……手前……待て……」

 瓦礫の中から、ゴボゴボという濁った音の混じった電蔵の声が漏れ聞こえてきた。口腔に溢れた血液のせいで、その言葉はあまりにも聞き取り辛い。

 電蔵のそれには怨念のようなモノがこもっていた。彼にしか解らない、感情が。

 耳にした少女は少しだけ立ち止まったように見えたが、降りかかる血の雨を番傘で受けながら、やがてネオンの届かぬ闇の中へと消えて行った。


                                  つづく

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