第四章
第四章
その日以来、道子は涼さんと一緒に、製鉄所に行くのが公認となった。道子はあの日以来、水曜日が来ることが、前より、もっと待ち遠しく成った。
「道子先生。」
道子が、休憩時間、病院の食堂で食事をしていると、ふいに掃除のおばさんが、そんなことを言った。
「道子先生、良かったじゃないの。もう一人でつんつんしている必要もないんでしょ?」
「は?」
掃除のおばさんに言われて、道子はちょっとびっくりしてしまった。おばさんの顔を見ると、おばさんは、にやにやと自分を見ている。
「もう、隠したって無駄よ。おばさんすぐにわかるわよ。最近さ、道子先生きれいになったし、ここのところ、本当に毎日が楽しいなあっていう顔してる。出来たんでしょ?いい人!」
おばさんはちょっとからかうような感じで、道子に言った。
「ええ?そういう風に見える?」
道子がおどけて言うと、
「見えるみえる。もう、顔に出てるわよ。ね、どんな人?何をしている人なの?道子先生が選ぶんだから、よほどすごい個性的な人でないと、道子先生とはくっつかないわよね。」
そんなことを聞いてくる、掃除のおばちゃん。
「すごい人と言えばすごい人よ。あたしには、出来ないものを持ってるわ。療術師と名乗っている、盲目の人。」
道子がおばちゃんに言うと、おばちゃんは変な顔をした。道子がそんな人とくっついたのは、一寸例外だったらしい。
「どうしたのよ。おばちゃん。言い出しておいて、そんな顔することはないでしょう?」
道子はちょっと語勢を強くして言うと、
「い、いやあねえ。道子先生がそういう人と付き合い始めるって、なんだか、意外だったからさあ。」
と、おばちゃんは言うのだった。その言い方が、まるで道子に対し、単におどろいているというだけではなくて、別の意味も含めているような言いかたであったので、道子は、一寸嫌な気持ちがした。
「まあ、おばちゃんたら失礼ね。あたしが正直に付き合っている人の事を言ったら、そんな風に顔を変えるなんて。」
道子はそう言ったのであるが、
「だ、だってさあ、以前の道子先生だったら、そういう障害のある人っていうの、そういう人に会うと、すごい偏見丸出しの態度で接していたでしょうが。あ、そうか、恋愛と仕事では別なのかあ。仕事じゃなくて、恋愛となると、すっかり変わってしまうものかしら?」
と、おばちゃんは言うのだった。もう、そんなことないわよ!あたしは、以前から、偏見なんか持たないわよ、と道子は言い返すが、おばちゃんは、果たしてこれがいつまで続くかな、なんて首をかしげながら、掃除に戻ってしまった。
そんなわけで、今週の水曜日、道子は変な顔をして、富士駅へ涼を迎えに行くことになった。もし涼が、見える人であったら、道子さんどうしたのとか、態度を変えて尋ねるかも知れなかった。しかし、エレベーターから十三歩歩いてやってきた涼は、そのようなことは全くせず、ただお願いしますと、最敬礼しただけだった。もし、可能であれば、今日はどうしたのとか、なんでそんなに怒っているのとか、聞いてほしいと道子は思ったが、涼は全くそういうことはしなかった。まあ、普通の男とは違って、出来ないんだから仕方ないと、道子は頭の中でそういうのだった。
「じゃあ、行きましょうか。」
涼が、クルマに乗り込んだのを確認して、道子は、クルマのエンジンをかける。製鉄所までは、たいした距離ではない。東京へ行くとか、そういう訳じゃないから。数十分走る事なんて、道子には簡単なことであった。その日も、指定された場所に車をとめて、涼の手を引っ張って、製鉄所の正門をくぐった。玄関ドアをたたくと、ほかの利用者たちに歓迎のあいさつをされて、四畳半へ行く。涼の話によると、四畳半までは、四十三歩あるくことになっている。そんなこと勘定しなくていいと思うけど、盲人特有の癖なのかなと、道子は考え直して、とりあえず量を連れて行った。
四畳半のふすまの前で止まると、
「一時間の間、この間したようなことはしないでくださいよ。決して中をのぞき見なさいませんように。」
と、涼は言った。道子は、その理由を聞きたかったが、涼さんは話したくない様子だった。仕方なく、道子は食堂で待っているからと言った。ふすまを開けるのを手伝おうかと申し出たが、涼は断り、手探りでふすまを開けて中へ入った。
ふすまが閉められると、道子はとりあえず食堂に行って、利用者が用意してくれたお茶を飲みながら、作業が終わるのをまった。その時も椅子に座って、今日は変な日だなあ、嫌なことばっかり起きる、と思いながら、ぼんやりとしていた。たったの一時間の間なのに、莫大な時間のような気がしてしまった。一時間というものは、こんなに長いものだっただろうか?
暫くして。
「道子さん、終わりましたよ。ほら、早く涼さん手助けしてあげないと。」
何て言いながら、利用者に肩をたたかれて、道子はやっと、一時間たったことに気が付いた。
「あ、ごめんなさい、で、涼さんは?」
思わず聞くと、利用者は、四畳半に居ると答えた。これでやっと、四畳半に行ってもいいことになったらしい。道子は、利用者と一緒に、四畳半に行った。
利用者が、四畳半のふすまを開けると、水穂さんは布団に横になっていて、涼さんは、その近くに正座で座っていた。涼さんの目の位置は、水穂さんと合っていなかったが、水穂さんは楽しかったのだろうか、にこやかに笑っていた。という事はつまり、良かったのかなと道子は考え直す。一体水穂さんに何をしたのか、道子は聞いてみたかったが、周りの雰囲気が、それをしてはいけないという感じであったので、言わないでおいた。
「じゃあ、また来週、こちらに来ますから、水穂さんも頑張ってくださいね。宜しくお願いしますよ。」
「はい。わかりました。」
涼がそういうと、水穂さんも静かに言った。
「それじゃあ、今日はこれで。また来ます。」
涼さんが立とうというそぶりを見せたので、道子はすぐにてをだして、立つのを手伝ってやった。涼さんは、道子にすみませんとそっといった。
「二人とも、うまくいってるじゃないですか。」
と、水穂さんが言うと、涼さんは表情一つ変えなかったが、道子は、そういわれてちょっと照れくさい顔をした。もし、杉ちゃんのような人がいたら、あれ、赤く成ったとかそういうことを言って、からかうと思うのだが、今日はそういうことはなかった。
「まあね、あたしたちは、二人そろって、初めて共同作業ができるんですからね。」
道子は、そういうが、水穂さんは、一寸、寂しそうな顔をした。でも、直ぐににこやかな顔に戻った。
「まあ、確かにそうかもしれませんよ。」
涼さんが何も言わない代わりに、水穂さんがそういうことを言う。
「じゃあ、また水曜日に来ますので、宜しくお願いしますね。」
と、道子は、涼さんの手を引っ張って、軽く敬礼して、四畳半を出て行った。それを水穂さんは、一寸名残惜しそうに見つめていた。
廊下を歩いている時も、涼さんは、また一歩二歩と勘定している。道子はその勘定はやめてもらいたいのだが、涼さんの癖は治らないのかも知れなかった。
四十三歩で、玄関にたどりつくと、道子は涼さんの靴を履くのを手伝ってやり、一緒に外へ出た。そして、しずかに道子は玄関の引き戸を閉める。
「今日も無事に終わってよかったわね。ねえ、涼さん、水穂さんと一緒に、何をしゃべっているの?」
道子は、車まで涼さんを誘導しながら、そんなことを聞いた。
「いいえ、たいしたことじゃありませんよ。水穂さんの事です。それだけの事です。」
涼さんはそれだけしか言わなかった。
「へえ、何だろう。身の上相談とかそういうこと?」
道子はもうちょっと聞いてみたかったが、それは返ってこなかった。二人とも黙ったまま、車まで到着した。道子は、涼さんを車に乗せるのを、手伝わなければならなかったので、それ以上の話はしなかった。車の中でも、道子は運転に集中しなければならない。そうしていないと、涼さんがまた、クルマってにがてなんですよね、と嫌味っぽいことをいう可能性があるからだった。道子は、そういう嫌味をいわれるのが嫌いだった。とりあえず、何も言わないで、道子は運転を続ける。駅について、やっと、口を開かれるのが許されるのだった。道子は、ちょっと話をしたいなと言う気になったが、涼はすぐ帰るといった。道子は急いで後部座席のドアを開けて、涼を外へ出してやる。道子が、エレベーターの方角に涼を向けてやると、涼は、有難うございます、とだけ言って、一歩二歩、と勘定しながら、歩いていくのだった。
「涼さん、あたし、もうちょっとお付き合いしたいんだけど、ダメかなあ?」
涼さんは、あたしの気持ちを知ってくれただろうか。道子は、ちょっと悲しげな表情をして、涼の背中を見つめていた。
その翌日の事である。
「道子先生は、本当にどうしちゃったんでしょうね。何だか、今まできつい顔して、この薬を絶対飲まなきゃダメ!なんて言っていた先生が、急に優しくなったよ。なんでかなあ?」
と、患者が不思議そうな顔をして、看護師に言っている。
「何ででしょうね。いつもは、怖い先生で有名だったのにねえ。」
中年の看護師も、首をひねって、彼の話に賛同した。
「ほんとほんと。なんだか、俺たちがこんなにくるしんでいるのが、道子先生に届いたのかなあ?」
「いや、どうかしら?また別の理由があるんでしょうよ。だって、親が死んでも泣かなかったと、大威張りで自慢をしていた道子先生が、急に優しくなれるとは思わないわよ。」
「わかるわかる。俺もその話は、何回も、耳にタコができるほど聞かされたからなあ。」
患者と看護師は、そんな話をした。
「そのくらい冷たい人が、優しくなれるなんて、うーん、何だろう。あんな冷たい顔をしていた道子先生がだよ、大幅に変われるきっかけなんてあるのかなあ?だって、シュバイツァーの伝記を読んでも、泣かなかったとも自慢していた。」
「まあね、同じ女の立場から言わせてもらえば、書物より、もっと効果的なものは、恋しかないわよ。」
患者が疑問を投げかけると、看護師は半分笑いながら言った。
「こ、こい?誰に?あんな冷たい人が?」
思わず素っ頓狂に言う患者。
「そうよ。あんなふうに、泣いたことはほとんどないと、ああして自慢しまくっていた道子先生が、優しくなるっていうのは、恋しかないわね。ほら、佐藤さん、百万回生きた猫の話知らない?あの猫は、俺は百万回も死んだんだ!って、思いっきり自慢をしていたけどさ、結局白い猫に恋をして、彼女を亡くした痛手から、立ち直れなかったじゃないの。道子先生も、そうなんじゃないかな。道子先生の自慢話は、あの猫の自慢話にそっくりじゃない!」
看護師は、思わず笑いながら、そんな話を始めた。
「確かにそうかもしれませんね。あの薬で副作用に悩まされたことはないとか、風邪を引いても、休まずに仕事に出たとか、そういう自慢話ばっかりしていたからなあ。」
佐藤さんは、ウーンと考えこむ。
「そして、無理やり佐藤さんに薬を押し付けていたのにね。それをきっぱりやめるんだから、そういう劇的に変わるというのは、やっぱり恋しかないわよ。」
看護師は、佐藤さんの話に相槌を打って、にやりと笑った。
「ほらあ、何やってるの。佐藤さん、べちゃべちゃしゃべってないで、安静にしてなさいよ!」
不意に病室の廊下で、道子がそういう声が聞こえてきた。
「やっぱり、道子先生は厳しいな。」
「そうねえ。」
佐藤さんと看護師は、道子先生のほうを見て、そしてにやりと笑った。いつもの道子先生なら、ほら!とつかつかと入ってきて、無理やり佐藤さんを寝かせるのだが、最近の道子先生は、何もしないで通り過ぎていく。ふふふ、と、患者と看護師は笑いあった。
そういう訳で、この病院で怖い女医がいるという噂は、いつの間にかなくなってきたようだ。最近は、怖い女医に言い任されていた、高齢の患者さんたちも、平気で愚痴を言いあう様になっている。
特に、水曜日は、道子先生は、特に、明るくなるのだった。患者たちは、その理由を、最愛の恋人に会いに行くんだよ、とか、あんなに硬い先生を虜にした恋人何て、どんな奴だろうとか、うわさしあっていた。
そうこうしている間に、水曜日がやってきた。道子は、急いで仕事を片付けて、口笛を吹きながら病院を後にする。患者の中には、道子が高級車ではなく、軽自動車で通勤するのを、笑う者もいたけれど、道子はそんなことは平気だった。
その軽自動車を走らせて、道子は病院から富士駅へ向かうのだ。そして、直ぐに一般車乗降場に車をつける。そして、カーラジオを楽しんでいると、暫くして一、二、三と勘定しながら、白い杖をもって歩いてくる涼の姿が見えるのである。
「こっちよ!」
道子は、クルマの窓から涼さんに言った。それをわかってくれたかどうかは不明だが、涼さんは、白い杖を振って、歩数を勘定しながら、道子の車の前まで来てくれるのだ。そして、宜しくお願いしますと言って、道子に手伝ってもらいながら、クルマに乗り込むのだ。
「それじゃあ、行きますよ。」
と、道子は、涼さんをのせて、またこれまで以上に慎重になって運転をするのである。その時は、何も口を利かず、運転に集中しなければならない。涼さんが、車が苦手だとまた愚痴を漏らさないようにしなければ。製鉄所には、数十分だか、こんなにのろい運転をするので、何十倍もかかるように見える。
そして、製鉄所の前で、車を止めて、後部座席のドアを開けて、涼さんをおろしてやり、一緒に正門をくぐって、玄関の引き戸を開けて、利用者に挨拶して、中へ入らせてもらうのだ。
でも、道子の逢瀬もここまでであった。涼は、四畳半に入ると、絶対に中を覗くな、と注意をする。そこだけは、道子には許されないことであった。だから道子は、食堂で一人で待たされることになるのだ。その時は、なんだか途方もなく長い時間、ぼんやり待つことを強いられるので、たまらなく苦痛だった。
時折、製鉄所の利用者が道子に気遣って、お茶を出してくれたりする。利用者たちも、なかなか道子のような人を、警戒しているような顔をしている。まあ確かに、傷ついた事のある若い人達なので、しかたないなあと、道子は思うのだが、もうちょっと、誰かが声をかけてくれたらいいのにな、と道子は思う。
「ねえ、」
と、道子は、お茶をだしてくれた、利用者に声をかけた。学校で少し問題を起こしたことのあった利用者は、医者の道子をちょっと、警戒した。
「ねえ、あなた。」
なるべくなら、優しい口調で、道子は利用者にそう話しかけた。
「ちょっと教えてくれる?みんなこの製鉄所で、どうして暮らしているの?」
「あ、はい。何処にも居場所がなかったから。もう、学校ではいじめられるし、親は、もっと強く成らなきゃダメだって、それしか言わないから、もう、どこにも行くとこなくなっちゃって。」
と、利用者はちょっとおびえているような感じで、そう答えた。
「そう。そういう人がたくさん来ているのね。そんなに緊張しないでいいのよ。あたしは別に、変な人ではないから。」
「そうですか。ごめんなさい。周りの大人って、みんな変な人ばっかりだから、まだ私は、信用できなくて。でも、水穂さんだけは別。」
「別?」
その言葉を聞いて、道子はちょっと意外な発言だと彼女を見る。
「そうですよ。だからこそ、涼さんに来てもらって、なんとか治してもらおうと思ってもらわないと。あたしたちは、まだ水穂さんが必要だし。」
「必要って、具体的にあの人が何をしたっていうのよ。」
道子は、そう聞いてみた。
「あたしに、焼きいもくれた。」
という答えが出て、道子はちょっとがっかりする。でも、その焼き芋は、すごく大事なものだというのは、その利用者の顔を見ればわかる。
「い、いやね、あたし、ここに来たばっかりのとき、受験勉強が嫌で大暴れして、部屋に閉じ込められたことがあったんですよ。その時にね、水穂さんが、焼き芋持ってきてくれて。あの時、ああよかったと思ったんですよ。」
と、彼女は言った。その焼き芋は、本当にうまかっただろうな、と道子は思った。
「だから、水穂さんには、あたしだけではなくて、他の子にも、焼き芋を持って行ってあげられるほど、元気になってもらいたいの。それが、あたしたち製鉄所の利用者みんなの願い何ですよ。」
「みんなの願いか、、、。」
「そうですよ。だから、涼さんみたいな人の力が必要なんですよ。水穂さんのような人は。あたしたちも、それに協力しなきゃならないなって、ずっと思っているんですよ。だから、水穂さんが、涼さんに何かしてもらっているときは、あたしたちはそっとしておく。」
と、利用者はやっと警戒心を解いてくれたらしい。そういう話をしてくれるようになってくれたんだから。でも、道子は疑問に思った点が一つある。
「じゃあ、涼さんと水穂さんが何をやっているか、は、誰も知らないという事?」
「そうですよ。」
疑問を言うと、利用者はあっけなく言った。
「でも、知らなくていいと思います。あたしは水穂さんが、元気になってくれれば、それでいいんです。現に水穂さんは、涼さんに話を聞いて貰って、少しですけど、ちょっと元気になってくれて、最近は、縁側で外を眺めていることも多くなってきたみたいですし。」
「知らなくてもいいなんて、そんなことはないんでしょう?あたしは、すべての事をしっていたほうが、いいんじゃないかと思う。だって、水穂さんがそれだけここで大切にされているのに、ここの製鉄所の人たちは、みんな、それを彼に知らせてないような気がするのよ。そこを、気付かせてあげるのも、あなたたちの役目なんじゃないの?」
道子がそういうと、利用者は、落ち着いた顔をしたまま、こういうことを言った。
「そんなこと、本人何も知らないほうがいいんじゃないかしら。そうでないと、あたしたちは、また優しくしてもらえなくなるんじゃないかな。」
道子はちょっと憤慨した。
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