第三章
第三章
その日は雨だった。と言っても台風のような、土砂降りではなく、しとしと降る、しずかな雨であった。今日も、道子が、病院での勤務時間を終えて、さて、家に帰るか、と、更衣室で着替えをして、帰ろうとしたときの事である。落っことした道子のスマートフォンが、勢いよくなった。しかも、道子が普段から使っているラインとか、フェイスブックのようなものではなく、電話アプリであった。
「はい、もしもし。」
使いかたを忘れていた電話アプリをやっとこさで操作して、道子は電話に出る。
「あ、あの、小杉道子さんの電話番号でよろしかったでしょうか。」
随分丁寧な口調だが、道子もすぐにそれが誰なのかわかる。
「あ、涼さん。」
電話の相手は涼だった。
「あの、すみません。ちょっとお願いがあるんですけどね。あの、今日、水穂さんのところへ行く予定だったんですが、影浦先生が大事なようで、行けないそうなんですよ。申し訳ないんですが、お手伝いしていただけないでしょうか?」
涼はそういうことを言っている。
「すみません。僕、どうしても一人では難しいので、、、。七時に製鉄所へ到着すればいいことになっているのですが。」
時計を見ると、まだ五時を過ぎたばかりだった。七時にはまだ二時間近くある。
「ええ、大丈夫ですよ。あたし、喜んでお手伝いします。」
道子は、しっかりと言った。
「其れでは、富士駅に来ていただけますか?電車に乗るところまでは分かるんですが、タクシー乗り場がどこにあるか、見当がつかないので。」
「いいわよ。タクシーなんか使わなくても、あたし、車出すわ。運転できるから。」
道子は、そうしてあげることにした。どうもタクシーは、御金がかかりすぎるような気がするのだ。
「六時半に、富士駅へ来てください。」
と言って、道子は電話を切った。
道子は、急いで、病院からバスに飛び乗って自宅へ帰り、そのまま滅多に運転しない古ぼけた軽自動車を走らせて富士駅へ行く。駅へ着くと、乗降場に車を止めて、急いで切符売り場へ行って、入場券を買い求める。一応、ホームに入るには、入場券なるものが、必要なのである。
数分後。
「まもなく、四番線に、普通列車、熱海行きが、三両編成で到着いたします。危ないですから、黄色い線の内側まで下がってお待ち下さい。」
そんな駅のアナウンスが流れた。道子は、黄色い線というアナウンスは、間違っているのではないかと、ちょっと、憤慨する。
そんなことも知る由もなく、電車はやってきた。電車は、道子の目の前で止まる。電車が止まって、偶然というのはなんとも意外なもので、道子の目の前のドアから、白い杖を持った涼が、後ろ姿で現れたのだった。道子はにこやかに笑って、涼さんと声をかける。ただ涼は、後を振り向くという事はしなかった。
「こっちですよ。あたしに捕まって。右手を出して。」
涼がその通りにすると、道子は彼の手を引っ張って、電車から外へ出してあげた。もう、電車を降りてホームまであと何歩とか、勘定させる事もさせなかった。
「じゃあ、ずっとあたしにつかまってて。もう、改札口まであと何歩とか、そういう勘定はする必要は無いからね。」
道子はにこやかに笑って、そのまま涼の手を引っ張った。そのまま、彼をエレベーターに乗せて、改札階まで連れていき、切符を切ってもら得るように、改札口へ連れていく。駅員さんに障害者用の切符を切ってもらって、そのまま一般車乗り場まで、彼を連れて行った。
「あれ、ここ、タクシー乗り場じゃありませんよね。タクシー乗り場から入り口までは、九歩だったと思うんですが、今までは、十三歩。」
「そんなこと勘定しなくていいのよ。今日は、あたしが、特別に製鉄所まで送ってあげます。こう見ても、あたし、運転は得意なのよ。」
涼がそういうと、道子はにこやかに言った。本当は涼さんが、自分の顔を見てくれれば、自分のことを信じてくれるだろうになと、一寸残念に思った。まあでも、それはしかたないとして、道子は涼の手を引っ張って、車の中に乗せてあげた。
「自動車って、僕は苦手なんですよ。何だか宙に浮いて、寝ているような感じになっちゃって。電車の方が、僕は、まだ安心して乗ってられます。」
確かにそうかもしれない。盲人にとっては、クルマなんて、どのくらい宙に浮いているのか予測ができないし、突然急ブレーキをかけて止まったり、急にスピードを上げて走り出すこともあるし、確かに苦手と言われても仕方ない。そうなると、ちょっと申し訳ない気もしたが、道子は涼にとりあえず乗ってもらう。
「まあ、苦手でも、我慢して頂戴。製鉄所まではそんなに時間はかからないし、ほんのちょっとだけですから。」
とだけ言っておいた。
「ええ、そうですよね。そんなこと気にしないでくださいよ。だって、大体の人は車で移動する筈でしょう。其れはしかたないことですよ。」
と、涼さんは言ってくれるので、その言葉を頼りに、道子は車にエンジンをかける。何だか、運転するにも、慎重になって、今までの運転以上に、安全運転に気を付けたような気がする。今までは、多少の赤信号でもそのまま走っていたことは、何回もあったのに、今回は、すべての赤信号で停車した。
数分後、製鉄所に到着した。急いで、指定された場所に車を止めて、涼さんを下ろしてやった。時計を見ると、丁度七時を指している。
道子は涼の手を引っ張って、製鉄所の正門をくぐらせ、玄関の引き戸の前に立たせた。
「ごめんください。」
と、道子は、ガラッと、玄関の戸を開ける。
「おう、待ってたよ。」
と、応答したのは杉ちゃんであった。
「水穂さんいますか?」
道子が聞くと、杉ちゃんは、道子が涼を連れてきたことは気にしていないようだった。本来は、影浦先生が、一緒に来るはずだったのにとか、文句をいうと予測していたので、道子は、そこはよかったとおもった。
「おう、いるよ。ただ、具合が悪くて、休んでいるけど。」
さらりという杉ちゃんは、そういうところがいい。道子はそう思っている。
「其れでは、頼むぜ。もう、僕たちみたいなバカな素人では、話が通じないので。」
と、杉ちゃんはそういって、道子たちに中に入るように促した。
道子は、涼さんに靴を脱ぐように促し、自分も建物の中に入る。中に入ると、涼は、静かに歩き出して、また一歩、二歩と数え始める。四畳半まではかなりの距離があり、四畳半にたどりつくのに、五十歩近くかかってしまったような気がする。
「水穂さん。」
道子は、四畳半に着くと、ふすまに手をかけた。ふすまを開けると、水穂さんは、いつも通りに、布団で眠っている。
「水穂さん、今日七時から予約して、」
と、道子は、そっと声をかけて、枕元に座った。隣にいた涼も、道子に促されて、隣に座った。道子は、眠っている水穂さんの肩に手をかけてゆすぶり、ちょっと、起きて、声をかけた。
水穂さんは、そっと目を開ける。
「今日は、一日どうだった。ほら、涼さん、来てくれたから。ちょっと、顔を合わせてあげて。」
そう言って、涼を、水穂さんのほうへ無理やり方向転換させた。ここからは、涼さんと水穂さんが主役で、自分が出る幕ではないという事は分かっていたから、終わるまで、どこか別室で待っていることにした。
「じゃあ、お邪魔虫は消えますね。」
と、道子は、涼に言って、四畳半を後にした。
とりあえず、四畳半近くの食堂で、またせてもらうことになったが、何だか待っているのが、非常に疲れてしまうのであった。なんだか自分が、遠くへ飛ばされてしまったような、そんな気がしてしまう。
「涼さん、水穂さんと一緒に何をしてるの?」
と、呟いても無駄なことは分かっていた。
何だろう。待っていると、そういうことは、考えてはいけないようなことまで考えてしまうのである。あたしは、もう一回、涼さんと話したいなあ。なんだか、いけない事だけど、あたし涼さんといつまでもいたい気がする。なんでかなあ。あたしは、涼さんの手助けしたり、クルマに乗せたりしたことが、すごくうれしいの。ただの貴重な体験ではなくて、何だかあたしはもっと重大な体験したような、そんな気がしてるの。そういう事なんだろうな。涼さん。あたしは、ずっと、一緒に居たいんだけどな。
そのまま、ぼっとしたまま、一時間が過ぎた。涼さんが、話す時間は、一時間と決められている。でも、何をしているのだろう。いつまでも帰ってこないのだ。
「何をしているのかしら。」
道子は、ちょっと口に出していってみた。
「本当に、あの二人、何をしているんだろう?もうとっくに一時間は過ぎているはずなのに?」
道子は、今度は本気で心配になってきた。本当に、あの二人、どうしたんだろう?どこかで、製鉄所の柱時計が、ボーンと音を立てて鳴った。もう、三十分経っている。とりあえず、様子だけでも見て来ようと、椅子から立ち上がって、道子は四畳半に行った。
「水穂さんどうしたの?」
そっとふすまを開けると、激しく咳き込んでいる声がした。布団に倒れ込んで、咳き込んでいるのは間違いなく水穂さんであるが、涼さんは、その枕元で、座り込んだままの状態であった。道子は、すぐに薬を飲ませなきゃ!と怒鳴りたくなったが、それはできなかった。だって涼さんには、水穂さんの寝ている位置も、吸い飲みがどこにあるのかも、わからないからだ。道子はそれを頭に入れておいたので、激怒することはせず、
「水穂さん、大変だったね。すぐ薬飲んで休みましょうね。」
と、とりあえず水穂さんの体を抱え起こして、枕元に置いてあった、吸い飲みを取り、中身を口の中に入れて、静かに飲ませた。飲ませると、暫くせき込むことを続けていたが、暫くそれも静かになり、そのうち静かになった。道子は、また眠り始めた水穂をそっと布団に横に寝かせてやり、かけ布団をかけてやる。
「もう大丈夫だと思う。このまま、発作が収まって、眠ってくれれば。」
と、道子は、涼さんに言うが、その顔は引きつっていて、もし、目の表情があれば、多分泣いてしまうだろうなという顔をしていた。
「涼さん。」
道子は、涼さんと、目を合わせた。
「涼さん。気にしないでいいわ。気にしないで。ほんとに気にしないでいいから。其れでいいから。それで。」
道子はそう言ったが、水穂さんの枕には、血痕が見られた。涼さんは、、、これに気が付いたかどうか。そこを考えると、確かに涼さんが水穂さんを助けることが出来たなら、それに越したことはなかった。でも、涼さんにはそれができないんだって、しっかり頭に叩き込んでおかなければ。其れはちゃんとしなければ、と、道子も一生懸命頭の中で考えたけど、医療者としては、水穂さんの事を助けることを、すぐにしてもらいたいという考えがどうしても抜けられなかった。
「いいのよ、いいのよ。気にしないで。涼さん、本当に気にしないで。誰だってできないことだってあるんだから。」
道子は、落ち込み続ける涼に、そういうことを言い聞かせたのだが、
「水穂さん、ごめんなさい。」
と、涼はぽつんとそうつぶやくだけなのであった。
「そして、道子さんにも。」
そんなことをいう涼に対して、道子は、そこだけはしてもらいたくないと思って、
「あたしには、謝らなくたっていいわ!」
と、訂正した。思わず、見えない目を動かして、おどろいた顔をする涼さんであったが、
「そんなことする前に、対策を考えましょうよ!こういう風になるときは、どうしようもないんだから、そうならないようにすればいいでしょう。水穂さんがああなるのは、もうしょうがないんだから、あ、そうだ、こっちに来るときは、あたしもいっしょに行く。それでいいじゃないの。どうせ、携帯の番号も交換してあるんだし。そうよ。そうしましょう。影浦先生が、なかなか一緒に行けないんだったら、あたしを使ってよ!ねえ、あたしを!」
本当は、涼さんが目が見えていたら、道子が自分を指さして、必死で訴えているのに気が付いてくれるだろう。でも、涼さんにはそれができない。そういうことを伝えるのは、声だけでは本当に難しいなと思う道子だった。
「ねえ、そうしましょうよ!それでいいじゃないの!あたしなんて、どうせ、医者は医者でもただの研究医で、研究室から出ない、言ってみれば暇人よ。そんなあたしも、使ってくれれば、一寸は人の役に立てるわ。どうせね、研究医なんて、臨床医と違って、直接患者さんと顔を合わせて、人を救った実感なんて、何もないんですから。ね、これでいいじゃないの。そうすれば、涼さんは安心して仕事できるし、あたしはあたしで、やりがいというものが持てるし!」
そう早口でまくしたてる道子を、涼は、
「どんな顔をしているのか、説明してほしいものですね。」
と、つぶやくのだった。
「どんな顔って、自分の顔は、説明できやしないわ。とにかく、あたしは、あたしなんだから、信用して頂戴よ!」
道子は、そういった。
「そうですね、、、。」
涼は、しずかに言った。
「人間ですもの。助け合わなくちゃならないわ。今の人は、そういう事はしないことが、かっこいいというようだけど、あたしは、そうは思わないわよ。」
道子はまだ迷っている涼に、そういって、にこやかに微笑んだ。涼さんは、まだ不安そうなままであったが、
「もう、あたしは、そう思っているけれど、なかなか信じてもらえないでしょうかね。」
と、道子はきっぱりといい、それ以上そのことは言わないことにした。そのあとは、涼さんの判断に任せる事にする。
「わかりました。道子さん。」
と、涼はまだ焦点の定まらない目で、そういった。その口調は、まだ確定したとはいいがたいが、道子はそれを勝手に肯定したと受け取ってしまう。
「いいわよ。あたしは、何度でも手伝うから。ただの研究医も、こうしてたまには役に立つことがあるかなあ。」
道子は、にこやかに言った。
「ありがとうございます。」
不意に涼が、そういうことを言う。
「道子さんって、変わってますね。なんで、こんな盲人に手を出すんですか。そういう人を世間では、良い人と認めることはないでしょう。少なくとも、あなたの周りの人は、僕みたいな人間に手を出して、いい評価を下すことはないんじゃありませんか?」
「まあ、当たり前のことを、当たり前に行えと言ったのは、どなたかしら?」
道子は、ちょっと素っ頓狂に言った。
「あたしは、その人から教えてもらったことを、実行しているだけなんだけどな。その人は、他人にはそういうことを言っって、慰めてあげられるのに、自分の事になると、ものすごい卑屈になるのね。全く、嫌な人ね。」
「そうですか。でも、こういう障害を持つと違いますよ。そうなると、がらりと手を変えるのが、人間というものですよ。」
「ま、そんなことは無視無視!そんなことはさっさとどこかへ葬り去って、早く次の訪問を決めちゃいましょ。」
道子は、そういって、手帳をパカンと開けた。特に付き合っている人がいるわけでも無いから、道子の予定表はがら空きだった。
「そうですね。影浦先生のお願いでは、週に一度ここへ来るようにと言われているのですが。」
道子は手帳を見て、今日は水曜日かと確認する。
「そうか。水曜日ね。あたしは、別に勤務さえ終われば後は自由だし、水曜にこちらへ訪問するようにしておきましょうか。あ、もし、影浦先生に連絡が必要だったら行って頂戴ね。あたしが、しておくわ。結果報告書が必要なら、あたしが代筆しますから。そういうモノもやるんでしょう?」
道子は勝手に話を進めてしまったが、涼は、そんなところまでしなくてもといった。一応、点字のパソコンも所持しているのだと言う。
「そうよね。涼さんのできるところまで、取っちゃだめよねえ、ごめんなさい。」
そう、それはしてはいけない。できない人だからと言って、何でもかんでも代理でしてしまうのではなく、出来るところはやってもらわなきゃ。其れはちゃんとしなければと言った。
「じゃあ、これからは水曜日に、定期的にこっちへ来るという事でいいわね。時間は、七時があたしも丁度いいわ。あたし、六時半に駅で車で待っているから。あの、一般車乗降場は分かる?」
「ええ、わかりますよ。確か、エレベーターから、タクシー乗り場までは九歩ですが、一般車乗り場までは、十三歩でしたから。」
またいつもの癖が出たなと道子は思ったが、涼さんがそんな覚え方をしてくれているのであれば、それでいいと考えなおした。
「じゃあ、そこで待ち合わせしましょう。エレベーターから、十三歩歩いたところへ来てね。」
と、道子は、そういって、手帳の来週水曜日の欄に六時半に富士駅、一般車乗降場と書いた。
丁度その時、製鉄所に設置されている柱時計が九回なる。
「ああ、もうこんな時間だわ。夜遅くは物騒だし、帰った方がいいわね。じゃあ、あたし、水穂さんが、目を覚ました時に、びっくりしないように、手紙を書いておくわ。」
道子は、急いで、手帳のメモ欄に、次回は来週の水曜日に来ますと書いた。そして、自分と涼さんの名前も書きこんで、そのページを破り、水穂さんの枕元に置いておいた。
「じゃあ、眠っているから、起こさないように静かに帰りましょう。」
道子は涼の手を再びつかんで立ちあがらせ、そのまま手を引いて、四畳半を後にした。このときもう、涼は、玄関まで四十何歩と勘定することはしなかった。
そのまま、玄関から出て、涼をそとに停車しておいた車に乗せ、またゆっくりペースで走って、富士駅まで送った。
「一般車乗降場から、エレベーターまで、あと十三歩。」
と車から降り、そう勘定しながら歩いていく涼を、道子はずっと見つめていた。なんだかエレベーターに向かって歩いていくのが、遅ければ遅いほど、うれしい気がしてしまうのであった。いつまでも、涼さんの背中を見つめていたい。そんなことを思う道子だった。
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