第二章

第二章

タクシーが到着すると、影浦は、涼をまずタクシーに乗せて、道子には後部座席に乗るように促した。本当は、道子が涼の乗り降りを手伝ってやりたかったが、其れは道子にはできなかった。

タクシーは動き出した。助手席に座った影浦と、後部座席の涼は、二人で次に訪問するクライエントさんの事とか話し合っている。全く、こういうとき、道子は、なんとなく部外者にされてしまっているような気がして、何だか寂しい感じがした。

「富士駅までで、いいんですね。」

不意に運転手がそういうことを言った。

「ええ、そこで彼と、彼女を下ろしてやってください。」

と、いう影浦。影浦に悪気はないが、この彼と彼女という言葉に、道子はちょっと違和感というか、照れくささを覚えた。

「あ、はい。わかりました。北口でいいんでしたっけ?」

「ええ。なるべくなら、点字ブロックと、エレベーターのある所へ。」

「了解しました。」

運転手は、そういって、富士駅北口のエレベーターの前でタクシーを止めた。影浦も手伝って、涼を道路の上に下す。道子もタクシーから降りてすぐに帰ろうと思っていたが、なぜか涼を下ろしている姿を見て、そのまま残った。

「このまま、まっすぐ行ってくだされば、エレベーターにたどり着けますから。」

と、影浦が涼の体を動かして、エレベーターのほうに向けさせた。

「ありがとうございます。確か、エレベーターの入り口までは九歩だったと思います。」

なるほど、そうして道順を覚えているのか。

「その通り、九歩です。じゃあ、また近いうちに電話を入れますから。お気をつけてお帰りくださいませ。」

と、影浦は、軽く会釈して、タクシーに戻っていた。涼は、当然の事であるが、影浦のほうは振り向かず、会釈も返さないで、ありがとうございました、とだけ言った。

まあ、それはしかたない事であるが、何だかこのまま、涼を一人で返してしまう訳にはいかないような気がした。

「あの、涼さんはどちらにお住まいなんですか?もし歩いて帰られるようなら、私、どうせ駅の近くですから、近くまで送りますよ。」

道子は涼に言うと、

「ああ、すみません。僕の家は、静岡市何です。だから、これから静岡行きの電車に乗って帰ります。」

と返ってくる。それではなおさら、誰か付き添いがいたほうがいいじゃないか。目の不自由な人が、一人で電車に乗るのはちょっと危険すぎる気がした。

「其れなら、私、お手伝いしますよ。先ほども言った通り、私は駅の近くですし、それに待っている家族もいないので、気楽なものです。さ、行きましょ。」

道子は涼の左手を取って、エレベーターの前まで連れていった。こうすれば、いちいち勘定をしなくても済むでしょう、とにこやかに話しかけた。涼は、ええ、まあと警戒深く答える。二人は、エレベーターで、改札階まで行ったが、そこで困ったことになってしまった。なんと、富士駅の前の東田子の浦駅で、電車が鹿に衝突し、立ち往生してしまっているというのだ。今撤去作業をしているが、運転再開まで、一時間はかかってしまうという。老駅長が、お客さんたちに説得をしているが、中には、こんなに急いでいるのに、なんで止まるんだよ!とでかい声で騒いでいる人もいる。

「鹿に衝突ですか。それは大変ですね。一時間ならここで待っているしかないですかね。」

そんなことをいう涼に道子は、

「じゃあ、カフェでお茶飲みましょ。あたし、支払いはしておくわ。」

と、涼を駅の中にあるカフェに連れて行った。幸い、カフェは混雑してはおらず、すぐに座席に座ることができた。道子は、涼を支えて、椅子に座らせた。

「カフェの入り口から、座席まで、十三歩。」

と、涼はつぶやいているが、

「そんな勘定はしなくていいわよ。帰りも私が、電車に乗るまで責任もってしっかり案内するから。」

と、道子は言った。

ウエイトレスが、二人の前にメニューもってくる。せめて、代読してくれればいいのだが、そういう人にはかかわりたくないのか、メニューを置いただけで行ってしまった。全く冷たい人だわねと言いながらも、道子は、メニューをしっかり読んでやった。もう一度ウエイトレスがやってくると、道子は、サンドイッチとコーヒーを注文した。

「すみません。なんだか、代読までしてくださって。申し訳ないですね。」

焦点の合わない目で、頭を下げる涼に、道子は、

「そんなこと気にしないでいいわ。こういう人を助けるのは、当然の事よ。」

と言った。すると、涼はそんなことはないですよ、というのである。

「なんでよ。助けるのは当然の事でしょう?」

道子は、そう聞くが、涼は首を横に振った。

「何を言っているの。できないときは、出来ないって、ちゃんと割り切って、助けてもらうのが当たり前でしょう。少なくとも、あたしだったそうするなあ。もし、涼さんが、あたしの患者さんだったら、あたしは、ちゃんと、出来ないところはフォローしてあげたい。」

「すごいこと言いますね。道子さんは。」

涼は、一寸溜息をついたようだ。

「そりゃそうよ。あたしだったら、そうするわよ。だからこそ、こうしてお茶飲んだりしているんじゃないの。それに、そういう気持ちが無けりゃ、電車迄、あなたと付き添ったり何かしないわ。」

道子は、得意気にそう言ったが、涼は、うれしくなさそうだ。

「なんで?嬉しくないの?」

道子が聞いても、涼は答えない。こういう話はちょっと苦手なのかな、と思った道子は、質問を変えて、涼さんの身の上話を聞いてみることにした。同時にウエイトレスが二人分のサンドイッチとコーヒーをもってやってくる。今回もウエイトレスは、何も言わないで、行ってしまった。そのほうが今度は道子にとって都合がよかった。

「ねえ、涼さんって、どうして今の仕事に就こうかと思ったの?」

道子はウエイトレスが持ってきてくれたコーヒーを飲みながら、単刀直入に言った。またそんなことを聞かれて、涼はびっくりした顔をする。

「だって、珍しいんだもん。目が不自由なのに、そうやって仕事もって、人の役に立ってるだけでも立派よ。日本では、なかなかそういう事って、あり得ないでしょ。」

道子の言葉に悪気はないし、むしろほめているのだが、涼の表情は、硬いままだった。確かに盲人というだけあって、表情に乏しいという事は認めるが、それにしても硬い。

「あたしの勤めている病院にも、患者さんの話を聞くのを専門とする人はいるけれど、そういう人は大体、健常な人ばっかりよ。そんな、障害があって、働いているなんて、めったに見たこと無いなあ。」

「いや、単にですね、盲学校から先の進学先が、療術学校だっただけの事ですよ。盲学校の高等部を出た後、療術学校を受験して、合格しただけの事です。療術学校も、いろんな種目があるけれど、そこで僕にできそうなことは、こういう傾聴みたいなことしかできなかったので。」

道子が話すと、涼は硬い表情のまま、そう答えたのであった。

「なるほどね。でも、いろいろあるじゃないの。鍼灸師とか、マッサージとか、そういう選択肢もあったはずなのでは?」

と、道子がもう一回聞くと、

「まあそうなんですけどね。その当時、変な宗教団体が、鍼灸とかマッサージを悪用した、詐欺事件を起こしていたりしましたので、そういう分野は、出来るだけ避けるような傾向があったんです。まあ、テレビとか、新聞を見られるわけではないので、ただのうわさ話に左右されてましたけれどね。」

と、涼は答えた。ああ、あの事件か、と道子も思う。確かにそういう事件が、昔あったのは知っている。

道子は、自分には関係のないことだと思っていて、必死に受験勉強していたような記憶しかないが、涼さんのような人には、重大な事件だったに違いない。だって、道子の考える限り、盲人がつける仕事というのは、限られているからである。

「そうよねえ。確かに、あの事件は、誰でも忘れられない事件だと思うわよ。詐欺被害にあって、自殺までした人だっていたそうじゃない。ひどいもんだったって聞いたわ。まあ、あの事件の時、あたしは、ちゃらちゃらした女子高生で、そんなに世の中の事深刻に考えたこともなかったけどねえ。」

道子がそういうと涼はちょっと意外そうに、道子を見た。

「あら、どうしたの?そんな顔して。」

道子が聞くと、

「いや、そんな大したことじゃないんですけどね。あの事件のことを忘れられない人が、いたっていうのは驚きました。僕たちが事件の事を口にすると、まだあれを根に持っているのかとか、早く忘れるんだなと、笑われることが多かったんです。」

と、涼は答えた。

「ま、まあ。そんな、そんなことが、そんなに大きなことだったかしら?」

「ええ、きっと、道子さんにはわからない感覚だと思いますが、道子さんのような人には何気ない事であっても、僕たちには重大なことでもあるんですよね。」

「ま、まあ、、、。そんなこと言って。」

涼がそういうと、道子はちょっと照れ笑いするが、確かに、そうなんだろうなとわかる節もあった。

「でも、あたしは、あの事件が起きたとき、さっきも言ったけど、ただのちゃらちゃらした女子高生で、恋愛とかファッションとか、そういう事しか興味なかったのよ。そりゃ、医者になりたいっていう気持ちは確かにあったけど、そんなのただ、父がやっていたからくらいしか考えてなかったし。それなら、あの事件の事をしっかり考えて、自分の進む道を、ちゃんと考えていた、涼さんのほうがよっぽど偉いわ。」

道子は、これだけは嘘偽りなく言った。顔を見ることのできない涼さんにも、これは分かってもらいたかった。

「そうですか。でも僕たちみたいな人間にはそういう事は、当たり前なんですけどね。感心されても、困るだけなんですが、」

「まあ。そんなこと関係ないわ。盲人だろうが、健常な人だろうが、進路決定するときは、皆一緒よ。だけどねエ。あたしみたいに、父が医者をやっているから、自分もって、そんな単純な考え方しかできなかった人と、涼さんみたいに、社会がどうなっているかとか、今どんな事件が起きているかとか、ちゃんと考えて、進路を考える人と二手に分かれてしまうのは確かね。そして、そういう人は、あの時ちゃんと生きていればよかったなあって、激しい後悔に悩まされることになるわ。ま、あたしは、毎日毎日、もっと若いときにちゃんと勉強してれば、もうちょっといい人生を送れたんじゃないかって、考えているけどね。」

道子は、なんだか浪花節のような、話をし始めた。

「そういう訳で、あたしなんか、いっつも、人生こんなはずじゃなかった!って、もう其ればっかり考えているけれどね。あーあ、あの時もうちょっと、患者さんにしっかり説明してやればとか、もうちょっと他の看護師さんに優しくしてやればよかったとか。そんな失敗ばっかりで、もうどうしようもないのよ。それでは、医者としてだめなのはわかっているんだけどね。今日はしっかりしよう、シッカリしようと思っても、結局は失敗の連発よ。」

「そうですか。」

涼は、そう相槌を打った。さすがに傾聴家と言えるほど、話を聞くのはうまかった。でも道子は、あたしに対しては、別の見方で聞いてほしいなと思わずにはいられない。

「確かにそうですね。他の皆さんの話も聞くけれど、そういう事ばっかりですよ。学生時代、シッカリしておけばよかったとか。でも、そういうことは、誰でもあることです。人間、そうしないと生きていけないのかも知れませんね。そういう訳ですから、もともと人生は、後悔するようにできていると、考えたほうが、いいのかもしれませんね。」

「まあ、まあ、そうかしら。」

「ええ、出来はしませんよ。今が完璧によかったら、意欲も何もなくなってしまうでしょう。逆を言えば、失敗があるからこそ、今を充実させようとしたいのかも知れないし。そう考えれば、失敗もそう悪いことではないのかもしれません。」

そうかあ、、、。

道子は、何だかほっとした。この人に、お話してよかったと思った。なんだか、この人とお話をすることは、自分は、人間として生きている、間違っていないことを、確認しているような作業だった。そうか、それが涼さんの仕事なのかあ。

「でも、すごいわね。そういう事、的確に言えちゃうんですから。一般的な人には、並大抵にできる事じゃないわよ。」

道子がそういうと、そうですかね、と涼は言った。表情が変わらないから、どんな気持ちでいるのか読み取りにくいが、少なくとも、あたしが思っていることは、伝わってくれたかな、と。道子は思った。

「一般人というか、こういう仕事についていれば、誰でも言う事ですけどね。」

という、涼さん。道子は、それを聞くと、訂正したくなる気持ちがわいてきた。

「そんなことないわよ。そういうことを言えちゃうってことは、やっぱり、あたしとは違うような気がするな。あたしは、一応医者っていう仕事してるけどさ、そんな風に人生がどうのとか言えちゃうかって言ったら、できやしないもの。あたしは、ただ、患者さんに薬を与えて、病気が治るのを待ってるしかできないでしょ。だけど、涼さんは、同じ患者さんを見るにしても、その人の人生とか、生き方とかに手を入れて、立ち直らせてやることだってできるんだもの。あたしには、到底出来る事じゃないわよ。いいなあ、なんだかうらやましい。」

「それ、影浦先生が似たようなセリフを言っていましたね。僕はただ、アドバイスをしているだけだといったんですけどね。お医者さんは、誰でもそう思ってしまうのでしょうか。」

道子がそういうと、涼は、静かに言った。

「そうね。まあ、あなたから見たらわからないでしょうけどね。医者に出来る事は、結局それしかないのよ。体の症状を止めて、良くしてやれることしかできやしないわよ。まあ、医者は何でもできるって、言われちゃうけどさ。その裏で、あたしはいつも泣いてる。」

道子は、思わず本音がポロリと出て、ちょっと涙を拭いた。

「そうですか。道子さんも、そういうことを考えていたとはちょっと不思議でしたよ。」

もし、涼さんがあたしの顔を見ることができたなら、きっと、笑っているんだろうなと思いながら、道子はそれを聞いていた。

「そうよ、ほんとはね。患者さんに、お酒の飲み過ぎをやめてほしいとか、ストレスをためがちな職場をやめてくれればとか、そういう気持ちが出てきちゃうときあるのよ。でも、医者のあたしには、そこまでいう事は出来ないわよ。そんなこと言ったら、先生!うるさいなあ、なんて、でかい声で怒鳴られちゃった事は本当に何回もあったんだし。」

「道子さん、結局ね、これはちょっと宗教的な話になりますが、仏教では、人間は、事実に対してどう考えるかという事しか、できはしないというおしえがあるんです。まあ、こんなことを言うと、反感を持たれることもあるけれど、僕はこの教えは、間違いではないなと思っているのです。そして、その出来る事を、心を込めて行う事。これが一番大事だと思うんですね。」

涼に言われて、道子は、はっと我に返った。

「そうよねえ。当たり前のことを当たり前に行うか。それでは、あたしに出来る事は、本当に少しの事しかできなくなっちゃうわね。」

「ええ、誰でもそうですよ。だからその当たり前のことを、心を込めてという教えが大切だと思うんですよ。」

そうか。こういう人は、宗教的な教えというモノも、使用するのか。確かに、そういう事を言われて、反感を持つ人もいるだろうけど、道子は、なぜかさほど反感は持たなかった。そういう事は、ある意味では必要なことなのかもしれない。

「涼さんすごいわ。あたしが知らないこと、いろいろ知ってる。」

本当は、そのあと、とても盲人とは思えないわねといいたかったけど、道子は其れは言わないでおいた。

「お客様にご案内いたします。たいへん長らくお待たせいたしまして申し訳ありません。五番線の静岡行きは、ただいま吉原駅を発車いたしました。あと、五分ほどで到着の見込みでございます。お急ぎのところ、大変ご迷惑をおかけいたします。」

と、駅のアナウンスが鳴りひびく。やっと電車が来てくれたのか。ああよかった、と周りの人たちは口口に言って立ち上がった。

「じゃあ、電車が来たので、すぐに帰ります。あんまり長くは居られないので。」

と、涼は立ち上がった。急いで、道子も残りのサンドイッチを口にして、すぐに立ち上がる。

「それでは、行こうか。」

道子も、すぐに立ち上がった。

「道子さんは、もう少しゆっくりされてもいいのでは?僕は、点字ブロックの上を歩けば電車には乗れますから。」

「ダメよ。こういう時だもの。点字ブロックなんか、人が多すぎて、とても歩けはしないわよ。それに、あたし、ちゃんと歩数を勘定しなくてもいいように、一緒についていくから。」

涼は本気にしていなかったのだろうか。ちょっと戸惑った顔をしている。

「当り前の事を、当たり前に行うと言ったのは涼さんでしょ。あたしは、その当たり前のことを、実行していくだけです!」

涼さんは、一層戸惑った顔をした。

「そういう事よ。できない人を助けるのは、当たり前でしょ。だから、あたしは、その当たり前の事を実行するだけ!」

道子は、すぐに訂正し、涼の右手を握った。そして、御金を支払うため、レジへ連れて行った。

「座席から、レジカウンターまで、一歩、二歩、、、。」

涼はそういうが、そんなこと言う必要はないわ、と道子はそれをやめさせた。そして、レジカウンターに行き、二人分の食事代を支払う。涼は、支払おうかと言ったが、道子は、支払わなくていいと言った。

「それでは、行きましょ。」

道子は、方向を変えさせて、涼の手を引いて店を出た。

「こっちよ。」

涼が、店の出口までの歩数を確認しているのを無視して、道子は、涼を店の外へだす。

そのまま、ホームへむかったが、確かに人が大勢いて、点字ブロックの上を、歩いていくことはできなかった。道子は、Suicaで改札口を通らせて、階段を降り、電車のホームに連れて行く。

「お待たせいたしました。まもなく五番線に、普通列車静岡行きが到着いたします。ご利用のお客様は、ホームにてお待ちください、、、。」

と、間延びしたアナウンスが流れて、少しすると、電車がやってきた。

「ホームの点字ブロックから、電車の中まであと三歩。」

と涼は呟いている。

「涼さん、もし、水穂さんのところにまた来るなら、私に連絡して。この番号、誰かに読んでもらって、連絡して。」

道子は、手帳に自分のスマートフォンの番号を書くと、それを破って、涼の左手に握らせた。




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