ラスプーチンの恋

増田朋美

第一章

ラスプーチンの恋

第一章

今日も小杉道子は憂鬱でいた。

と、言うのは昨日、治療していた患者、正確には道子が薬の実験台として頼りにしていた患者が、死亡してしまったからである。

その翌日、というか今日なのだが、遺品を取りにやってきたその患者さんの弟さんから、兄ちゃんを無理矢理新しい薬への実験台にさせたのは、お前たちだ!兄ちゃんを返してくれ!と怒鳴り散らされる羽目になった。治療を開始した時は、おとなしかった弟さんが、お兄さんについて、こんなに怒鳴り散らすとは思わなかったので、それだけでも驚きなのだが、、、。その弟さんが、こんな言葉を言ったのが忘れられなかった。

「僕達は兄が、薬の実験台になるのを、最期まで反対しました。兄はちょっと弱気なところがあって、上の人にどうしても逆らえないところがあるんです。たぶんきっと先生方は、それに付け込んで、無理やりあたらしい薬の実験台にしようとしたでしょう!僕たちが、そういうことをしっかり伝えておかなかったのが悪いんだ!もっと兄のそばにいて、反対してやれば良かったんですね!」

そう自分を責め立てる弟さんに、道子は、今回、弟さんにも大きな傷をつけてしまったのだと、初めて悟ったのだった。

其れを忘れられないで、道子は研究室に戻って、しずかに頭を抱えて考え込んだのである。

「道子先生。」

不意に、掃除をしにやってきた、掃除のおばちゃんが、机の上にふさっている道子に、そう言ったのであった。道子は、顔を上げて、おばちゃんのほうを見た。

「ほらほら、またそんなに落ち込んでいると、他の患者さんまで落ち込んじゃいますよ。先生の患者さんは、ほかにもたくさんいるでしょう。他の患者さんには、明るい顔でいなくちゃね。」

「そうだけど、、、。弟さんの言っていること、あたし全部無視しちゃったからなあ。」

道子は、ぼんやりと言った。

「まあ、道子先生は、いつも重病の患者さんばっかり見てるから、なれちゃっているんでしょうけど、患者さんの家族はたまんないわよ。それに、お医者さんに文句何て、なかなか言えないわよ。あの時、道子先生が、絶対大丈夫だって、言い続けるから悪いんでしょ。」

掃除のおばさんの一言は、道子には結構刺さるのであった。

「だって、家族はさ、みんなで助け合って生きてきたんでしょうし。それが一人欠けちゃうってのは、ヤッパリつらいわよねえ。医者はそこをちゃんと見てやらなくちゃ。ただ患者であるお兄さんに、薬を投与してやれば、いいかってもんじゃないわよね。弟さんの事も、ちゃんと見なくちゃだめよ。」

そうか、あたしもそこが足りなかったか。道子は、がっくりと肩を落とした。

「そうね、おばちゃん。今回は、あたしの負け。弟さんのいう事、ちゃんと聞いてればよかった。飯田さんのお話だけ信じて、投薬させちゃったのが悪かった。そんなこと、ちっとも知らなかったわよ。飯田さんの弟さんが、投薬実験に反対していたってこと。あーあ、あたしもだめねエ。そんなことやっているようじゃ、まだまだ医者として半人前かなあ。全く、弟さんに謝罪の手紙でも書かなきゃだめかしら。其れとも、直接謝罪した方がいいかなあ、、、。」

「道子先生。謝罪の仕方は、どんなやりかたでもいいけど、これをひきずったりしないでよ。まあ、その時は苦しいかもしれないけど、後になってそういうことをしないように、気を付けていけばいいのよ。」

掃除のおばさんはそんなことを言った。

「逆を言えば、人間、そうするしかできやしないわよ。あたしは、医者じゃなくて、ただの掃除のおばさんだから、毎日毎日日頃から、そういう事感じてるけどさ。まあ、道子先生のような偉い人は、なかなかそういう事は無いから難しいのかもねエ。」

道子は、おばさんにそういわれたが、どうもその時は、その話を理解できなかった。というより、理解するまでの余裕がなかったと思う。

「まあ、道子先生は若いからねエ。そういうことは、難しいわよ。もうちょっと、大人にならなきゃ、わかんないわよ。いや、年を取ってからじゃないと、そういうことは、出来ないかなあ。」

「もう嫌ねえ、おばちゃんは。そんなこと言うんだったら、あたしも早く年を取りたいわ。こんなことで、年を取ったら、苦しまなくなるんだったら!」

おばちゃんにからかわれるようなことを言われて、道子は嫌になって、そう言い返すのであった。

「まあ、そんなこと言うなんて、道子先生にそんなこと言われちゃ、あたし、困っちゃうなあ。道子先生は、偉い先生なんですから、まだまだ治してほしいという、患者さんはたくさん来るはずですよ。だから、早く年を取りたいなんて、そんな馬鹿な事言わないでね。そうでないと、いろんな患者さんが、病気が治る前に逝ってしまいますよ。」

「はいはい。」

道子は、掃除のおばさんにからかわれながら、また、報告書を書くためにペンを取る。

「全く、こういうときに限って、なんでこの病院は、パソコンじゃなくて、手書きで書かなきゃならないのかしら!」

「やれやれ。若い人は、いいわねえ。あたしも、若いころが懐かしいなあ。若いころはね、悩みに悩んで、答えを探すのが、今思うと楽しかったわよ。答えが見つかるとね、世の中はつまらないわよ。年を取ると、そういう事がつまらなくなって、世の中が、色あせて見えるのよ。今になったらそうならないように祈るばかりよね。」

不満をいいながら、報告書を書く道子に、掃除のおばさんは、はははと笑いながら、部屋を出て行った。

その日、報告書を書き終えて、それを上の医者に提出し、いえに帰る時間になった道子だが、なんだかむなしい気持ちがして、直ぐに自宅へ帰る気になれなかった。かといって、お酒を飲みに、ホストクラブに行く気にもなれない。道子は、一寸だけある場所に寄っていきたいと思った。理由はよくわからないけど、あたしには、もう一人大事な患者さんがいたんだっけなと思う。

と、いう訳で、富士駅から、曽比奈行きのバスに乗って、大渕まで行く。やれやれと、バスはお尻をあげて、道子をのせて動き出した。帰宅ラッシュ時間だったが、道路はさほど混雑はしていなかった。そんなわけで、大渕までは極めてスムーズに行くことができた。

暫くして、バスは大渕公民館の前で、道子を降ろした。そこから歩いていけば、製鉄所はすぐだった。帰りのバスが、一時間に一本しかないので、時刻表もしっかりスマートフォンで写真に撮り、製鉄所に向かって歩き出す。

とりあえず、製鉄所の正門をくぐって、玄関のドアをガラッと開けた。

「ごめんください。」

道子がそう挨拶すると、

「何だ、ラスプーチンじゃないか。こんな時間に何の用だ。」

と、応対したのは杉三だった。道子はどうしても、この杉ちゃんが苦手だった。

「こんな時間って、まだ、そんなに夜遅くではないでしょうに。」

「暗く成ればいつでもよる遅くじゃい。それが当たり前じゃないか。」

杉ちゃんの時間法は、やっぱりずれている。

「それより、何のようだよ。それを早く言ってもらえないだろうかね。」

そういわれて道子は、頭をかじって、

「あのね、水穂さんいるかしら。ちょっとお話したいことがあるのよ。」

「ああ、薬の事ですかいな。それならお断りです。もう、そういう事はやめてもらえんかな。水穂さんをこれ以上ひどい目に会わせるのは好きじゃないのよ。」

と、杉三は言った。杉ちゃんに言っているわけではなく、水穂さんに言っているのだというと、

「だから、本人がいくらそうするといったって、僕たちは反対だよ。二度と、そんな危険な目には水穂さんを会わせたくない。本人がそう言ったら力づくで止めますから。」

と杉ちゃんは言うのだった。

「とにかく、水穂さんに会わせてください。そういう危険な薬の事は、話はしませんから。」

と、道子は再度言うと、

「いやだめです。今、大事な人と一緒です。」

と、杉三がそういうことを言った。

「大事な人って誰?」

道子は誘導尋問するように聞くと、

「杉ちゃん、終わりました。すぐに帰るそうだから、一寸手を貸してくれる?」

きゅきゅ、という音がして、廊下を影浦が小走りにやってきた。

「何だ、大事な人って、影浦先生だったんですか。」

と道子はちょっと気が抜けたように言うが、水穂さんが、精神科医を使うようなことがあるだろうか、と考え直す。まさか、鬱にでもなって、来てもらっているだろうか?それとも、誰か他の利用者で調子が悪いものでもいて、診察に来ているのだろうか?

「誰かの事見てるんですか?影浦先生。」

道子は、影浦のような人がなかなか苦手だった。同じ医者でも、影浦先生のような精神科医と、ほかの医者では、まるで種族が違うようなくらい、主張が違いすぎる。

「いいえ、ここの利用者さんたちは、皆さんお元気でいらっしゃいますよ。僕は、水穂さんの事で、来させてもらいました。僕たちは、水穂さんのお話を聞きに来させてもらっているんです。」

という影浦先生。

「ちょっと先生。また水穂さんに、余分なことを言ったんじゃありませんでしょうね!時々あなたたちみたいな人は、実現不可能なことを平気で吹聴することは私、知っているのよ。」

道子は影浦先生に食って掛かった。

「いえ、そのようなことはしていません。僕は、単に杉ちゃんたちに頼まれてきているだけですからね。其れよりも、小杉先生の方が、余計なお節介をしているように見えますけど。」

「まあ、あたしがなんかまずいこと言ったかしら。」

「ええ、言ってますよ。さんざん。僕たちから見れば、そんな余分なことを言わないで、さっさと退散するのが、一番だと思いますけどね。」

「まあまあ二人とも。」

言い争い始めた道子と影浦に、杉ちゃんが割って入った。

「もう、こんなところで喧嘩しないでさ、水穂さんの事が心配だったら、本人に会って話してきたらどうだ?」

「そうね、そうしましょう。」

杉ちゃんの話に、道子はやいほいと靴を脱ぎ、製鉄所の中へ入ってしまった。もうこんなところで追っ払われてはごめんだった。

「あ、一寸待ってください。」

影浦も、道子の跡をついていく。

道子は、四畳半のふすまを開けた。水穂さんは、誰かとしゃべっていた。その人は男性で、なぜか目が黄色くなっていて、水穂さんと顔を合わせていないところが、ちょっと変な感じだった。でも、なぜか咳き込みながら話す水穂さんは、その人と話しながら、柔らかい顔になっている。

「水穂さん大丈夫ですか。あんまりしゃべらないで、安静にしていたほうがいいわよ。」

と、道子は、すぐにそう言ったが、その男性は、そのあたりを読めなかったらしく、目も顔も動かさなかった。

「ちょっと!なんで止めないのよ!顔を見て、具合悪そうなら、お話するのをやめて、すぐに寝かせるべきでしょう!」

「道子先生。仕方ないじゃないですか。この方は目が見えないんです。だから水穂さんの顔を見ることができないわけで。」

急いで影浦がそういうと同時に、水穂は咳き込みはじめた。この後どうなるか道子は予測できたので、すぐに口もとにタオルを当ててやった。

「ほら、そうなる前に、止血剤だしてやってよ。こうした時は、まず第一に、止血剤の投与をするのが先決なのよ!」

はいはい、と影浦が、枕元にあった吸い飲みを渡すと、水穂の口元に当てたタオルが赤く染まった。道子は、影浦から吸い飲みを受け取って、無理やり水穂さんの口にそれを突っ込む。そして中身を飲ませて、暫く背中をなでたりしてやると、やっと咳き込むのは止まって、水穂は静かに眠りだした。

「また余分なことをしてくれましたな。」

そういうことを、影浦が言った。

「なんでよ。出血したら、止めるのが当然でしょ!」

と、道子が言うと、

「そうなんですけどね。さっきまで涼さんと話をしていて、その続きをいつするか決めている最中だったんですよ。いったん薬飲むと、暫く目を覚まさなくなるでしょうし、そうなったら僕たちは、いつ次回の日程を決めればいいんですかね。」

「え、、、。」

そういうことを言われて事情がやっとわかる。

「すみません。僕がちゃんとタイミングを見計らっていいのか、読めないのがいけなかったんですね。水穂さんが、具合が悪いのを、見逃してしまって申し訳ありません。」

涼さんと言われた盲目の男性が、そんなことを言った。なんだ、ちゃんとわかっているじゃない、と道子は言おうと思ったが、

「いずれにしても、止血剤を投与しなければならないのは知ってますが、でも、大事な時に中断しないでもらいたかったですよね。まあ次に訪問できるのは、いつになるのか、また日を改めて連絡しますので。」

と、影浦が言った。

「はいはい。すみませんね。水穂さんも、最近具合が悪くて、なかなかお前さんたちに訪問してもらえるのは、いつになるかはっきりしないけどよ。また、連絡してくれよな。」

杉ちゃんも申し訳なさそうに言う。そうなると、道子は、何だか悪いことをしてしまったかなと考え直した。

「ま、今回はタイミングが悪かったことにしようぜ。すみませんね、涼さん。忙しいのに心配してわざわざ来てくれたのにさ。」

そうか、そういう事だったのか。

つまり何か大事な話があって、涼さんという盲目の男性が来てくれていたのだろう。それをあたしは、無理やり止血剤を飲ませて、ぶち壊してしまったわけか。

「杉ちゃん、なんかごめんね。」

道子は、杉ちゃんに謝罪した。

「おう、全くだ。こんなことされちゃ、いつになっても決着がつかん。それにラスプーチンさ、謝るやつは僕じゃないぜ。」

杉ちゃんにそういわれて、道子は改めて気が付く。

「ごめんなさい。あの、涼さんって仰っていましたよね。大事なお話しているときに、邪魔してしまって、本当にすみませんでした。」

道子は、改めて涼に謝罪した。涼は、焦点の定まらない目で、つまり道子とは顔を合わせないまま、こういうのだった。

「いえ、かまいませんよ。水穂さんの顔色を見たすることは僕にはできないですから。」

というと、やっぱり盲目の人だったか。

「そうですか。あの、あなたは、」

「ああ、僕ですか。名前は、古川涼です。職業は、ちょっと口で説明するのは難しいのですが、水穂さんのような、病気の人たちのはなしを聞いたりすることを仕事にしています。」

涼はそう自己紹介をした。また、あたしが嫌う職業の人が来たなと思ったが、今回は、彼に対して、嫌な奴という気にはならなかった。それよりも、盲目の人なので、仕方ないことかと思った。

「彼は医者ではないんですが、時折こうしてうちの病院を手伝ってくれるんです。ご存知の通り、精神科は、患者さんが増える一方で、僕たちは、本当に困っているところですから。だから、こういう患者さんと医療者の、中間てきな立場にたってくれる人がいてくれると、本当にありがたいんですよ。」

確かに影浦の言うとおりであることは認める。道子の所にも、医学的に言ったら病気でもなんでもないのに、ここが痛い、あっちが痛いと泣きすがってくる患者さんはたくさんいる。そういう患者さんに対しては、影浦のような人に紹介するしか、道子に出来る事は無いのだが、そういう人は、完治するには非常に時間がかかるため、影浦の言う通り、患者さんが増える一方になってしまうのだ。

「ええ、こんな盲目の僕が、患者さんにとって何になるか、わからないのですが、影浦先生に、お願いされて、お役に立つのならと思いまして。」

と、涼は言った。ずいぶん謙虚すぎるカウンセラーだ。カウンセラーとなると、精神科医と敵対関係になるものも少なくないのを、道子は知っていた。

「じゃあ、今は、古川さんと、影浦先生の二人でやっているという訳ですね。」

「ええ、そういう事です。そのほうが、僕も、診察がしやすいですし、患者さんも、話を聞いてくれる人がいるって言って、好評なんですよ。」

影浦がそういった。彼はその間も、黄色い目で天井を見つめているだけであったが、道子はその涼さんという人に対して、嫌だとか、嫌いだとかそういう感情は生じなかった。むしろ、医療を敵対しない、いいカウンセリングの先生ではないかと思った。

「そうだったんですか。本当に邪魔しちゃってすみませんでした。本当にごめんなさい。」

道子は、申し訳なさそうに、しずかに頭を下げた。

「いえ、大丈夫です。僕は医療者でないので、先ほどのような適切な処置はできませんし。」

と、涼は静かに言っている。

「次回の日程なら、また電話すればいいだけの事ですから、それで決めればいいので、またその時にします。」

「おう、そうしてやってくれ。なかなか水穂さんも、調子が悪いときばかりで、来てもらいたくてもだめなんだけどさあ。」

と、杉ちゃんは、バカ笑いをするような笑い方をした。という事は、もしかしたら、次の予約が確約できないという事も、あり得るのかという事がわかった。それでは、あたし、また悪いことをしたなと思ってしまった。

「ま、いいってことよ。じゃあ。お二人さん、タクシーで帰るかい?」

と杉ちゃんは言った。

「ええ、そのつもりですけど。もう予約もしてありますし。」

影浦が言うと、

「ほんじゃあ、ついでにこのラスプーチンも乗せて行ってくれんかいな。こいつもたぶんバスかなんかで来たんだと思うからな。」

と、杉ちゃんが言う。そんなことを言われて、道子はまた驚くが、影浦はああいいですよ、とすんなりと認めてしまった。

「じゃあ、八時になりましたら帰ります。八時にタクシー予約してありましたので。」

涼も影浦もそう決めているみたいだった。まあ、もうバスもなくなっているかもしれないから、と、道子は、それに乗せてもらうことにした。













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