終章

終章

道子はその日もなぜか、浮かない顔をしていた。涼さんはまた、はりきって製鉄所に行くようだけど、あたしは、どんどん、外されていくと言うか、ただの付属品に過ぎなくなっているのかなあ。と、思わされているような節がある。なんだか涼さんを車に乗せて、製鉄所に送り届けていくけれど、製鉄所の四畳半には入らせてもらえないし、必ず覗くなと厳しく言われて、食堂で待たされる事になるからである。そのわけを、道子が他の利用者に聞いても、教えてもらうことはできなかった。しかし、涼さんって、目が利かないはずなのに、なぜ覗くなとこんなに厳しく言われなければならないんだろうか?

その日、道子は再び涼さんと一緒に製鉄所にやってきた。いつも通り、涼を玄関先でおろして、玄関の戸の前まで誘導してあげて、とりあえず、四畳半まで四十三歩歩かせて、それでは、と自分は食堂にいく。その時、また覗くなと厳しく言われるのだ。道子はとりあえず、はい、と言って、食堂へ行ったのだが。

丁度食堂には、昨日の利用者とはまた違う、ちょっと気の弱そうな女性の利用者が、一生懸命学校の宿題をやっていた。本来なら自分の部屋で宿題をやるべきなのだが、時折変わり者がいるもので、誰か人の声がしていたほうが、能率が上がる、という人も少なくなかった。そういう人が、夕食が終了した後、この食堂で、宿題をしたり、仕事をしたりするために、ここにやってくるのである。

「ねえちょっと、教えてくれる?」

道子ははっきりとその利用者に言った。

「あのさ、おしえてほしいんだけど、涼さん、あの中で何をしているか知ってる?」

「いえ、あたしは知りません。というか、知らなくてもいいんじゃないかと思っています。そういうことは。だって、そういうことは、涼さんのすることでしょう?あたしたちが、隅々まで、知っておく必要があるかしら。」

と、気弱な顔をして、その利用者は答える。

「あなた、名前は何て言うの?」

道子が聞くと、

「はい、松井千春です。」

と彼女は答えた。

「じゃあ、千春さん、おしえて頂戴。悪いようにはしないから。最近水穂さんの様子はどうなのよ。」

「ええ、ここのところは、そりゃ連日発作を起こしていますが、でも、時々縁側に寝転がって、ブッチャーさん達が、庭の掃除するのを眺めてますよ。」

とりあえず、千春さんは、そういう答えを出した。

「そう。庭の掃除を眺めてるのね。本当にそれだけ?」

ちょっと言ってもいいかどうか、まよっている、千春さん。

「それだけって何ですか?道子さん。何を考えているのですか?」

戸惑ったような顔する千春さんに、

「なにも考えちゃいないわよ。ただ、おしえてほしいだけなの。それじゃいけない?」

「いけなくはないですけど、、、。」

気の弱そうな千春さんは、ちょっと引いてしまったようだ。道子は、今だ!と思い、こう切り出してみる。

「千春さん、あたし誰にも言わないから教えて頂戴。庭の掃除を眺めて、他には水穂さん、何をしているのよ。」

「ほかには時おり、、、そうですね、もう立って歩くことは難しいらしいので、ブッチャーさんや、ほかの人と一緒に、台車に乗って、公園に散歩に行ったりとか。」

と、千春さんは言った。なるほどそうなると、水穂さんはやや快方に向かっているといえる。だって、あれだけ、寝たきりに近い状態であった人が、そうやって、庭掃除を眺めたりとか、公園に散歩に言ったりできるようになったのだから。

「なるほどね。じゃあ、この一時間のセッションなるもののおかげて、水穂さんは、そういうことができるようになったわけね。じゃあ、そのセッションというものは何をしているのよ。」

道子は、千春さんに言った。

「あたしは、知りません。あたしは、本当に知らないんです。知りたくないし、知る必要もないと思っているので。いいじゃないですか。水穂さんは、御蔭で元気になってくれるのであれば。あたしは、そう思っています。」

千春さんは、そういうだけなのだが、道子はそういわれてさらに知りたくなってしまうのだ。

「ねえお願い!教えて頂戴!あたし誰にも言わないし、悪いようにはしないから。こう見えても、口が硬いことで有名なのよ。ね、お願い!」

道子は、千春さんに詰め寄った。もう、こうなったらこうするしかない!と、鞄の中から一万円札を引っ張り出して、千春さんの顔の前に、突き出しながら、もう一回懇願する。

「知りませんよ、あたし!水穂さんが、あたしにしてくれたことを考えれば、こんな大事なことぺらぺらとしゃべるなんてできません!其れは、御金を出されようが、出されまいが、あたしは変わりませんよ!そんな事!」

ひ弱そうに見える千春さんであったが、意外に芯の強い女性だったんだなあと、道子のほうが驚いてしまう。意外なことであるが、製鉄所の利用者たちは、邪悪に対しては人一倍敏感なことが多かった。なので金を見せられても、簡単には、動かされない。

「道子さん、あたしたちの事を詰問したって、あたしたちは、水穂さんがしてくれたことを、ちゃんと覚えているんですから、あたしたちは、道子さんのように、汚い手を使って、内容を聞き出そうなんて、そんなことしません!もう、道子さんといると、宿題する気がなくなっちゃうから、ほかのところに行きます!」

千春さんは、ぱあんとノートを閉じて、筆箱と教科書をもって出て行ってしまった。若い人ほど、激しやすいのはしかたないことであるが、その言い方は、一寸癪に障った。まだ十代後半の若い女性の発言は、純粋そのものであるからだ。それは、確かに、ちょっと生意気というか、そんなことを感じさせる。

千春さんは、多分、必死で道子に、それ以上知りたがったりしないで!と言いたかったんだろう。でも、そうすればするほど、道子はしりたくなってしまうものであるのだ。


四畳半では一体何が行われているのやら。涼さんはどうやって、水穂さんに、縁側を眺めさせたり、公園を散歩に出たりするほどの、意欲を出させたのか。それに、道子は、涼さんを独占したくて待ち遠しという気持ちもあり、その待ち遠しさと、覗いてみたさが一緒になって、道子は、食堂のテーブルから立ち上がった。そして、抜き足差し足で四畳半にいく。そして、四畳半のふすまに手をかけて、そっと、音をたてないようにふすまを開けてみる。

「ええ、そういう事なんです。あの時は、地獄のようなありさまでした。確かにゴドフスキーの曲を弾くことは出来ましたが、それ以上に怖いことがありました。まあ、音楽学校となると、コンクールというものに出ることは出るんですが、僕名義で出るのではなく、、、。」

と、いう声が聞こえてくる。男性の声であるが、キーがかなり高いので、水穂さんの声だとわかった。

「というと、どういう事だったんでしょうか。」

この声は涼さんのものだなと、道子はすぐにわかった。

「ええ、コンクールに提出するための、テープ審査というものがあるんですが、」

そういって、水穂さんは少しせき込んだが、すぐに気を取りなおしたようで、話をつづけた。

「その、テープ審査に別のものが出すための、音源を作らされる仕事を何回も請け負って。学校にばれるといけないから、遠く離れたスタジオで、そういう音源を作ることを強いられて。それを同級生たちは、自分の演奏だと偽って提出し、予選を通過して、本選に出場しました。でも、所詮、本選では演奏技術がなくて、入賞という事にはなりませんでしたけど。」

「其れなら、水穂さん。あなたは、何もなかったんじゃありませんか?だって、いくらテープ審査で通っても、本選で、本物でないとわかってしまうんだから。」

と、涼さんが言っている。

「いえ、そんなことありません。彼女たちから、演奏が下手だったから、テープ審査に通っても本選には通らなかったと、言いがかりをつけられて、、、。」

「そのあとどうしたんですか?」

と、涼さんは言った。でも、水穂さんは、それを言い出すことができないらしい。時折せき込みながら、涙をこらえて泣いている。其れは、道子も聞いてみたいことだった。

「いいんですよ。気にしないで、仰ってくだされば。僕たちは、守秘義務というものがあり、患者さんたちのお話は、他人に口外しないことになっていますから。」

と、涼さんは言っている。他人に口外しないことになっている。それほど、大事なことなのだろうか。

「ええ、僕は、おかしなことはしません。僕たちの仕事はそういうモノなんです。」

水穂さんは、暫く間を開けて、こう語りだすのであった。

「ええ、言いがかりをつけられて、殴るとか、けるとかそういうことをされて。女の人って、単独では強くないかもしれないけれど、集団になると、なんだか強くなるんですよね。中には、剃刀で顔をきったりして、、、。」

「ああ、そうですか。それ以上の事は、言わなくても結構です。それを言うと、水穂さんもお辛いでしょうし、僕も大体その先の筋書きは読めます。しかしどうしてもわからないことがある。なぜ、あなたは、そうやって、いじめられていても、誰にも相談しなかったんですか?例えば、学校側に問い合わせるとか、何とかしようと、思わなかったんですか?なぜ、いじめを受けて、そのままでいたんです?そこがおかしいんですよ。」

と、涼さんは言った。道子も其れは、疑問に思っていた。確かに涼さんの言う通りである。もし、自分だったら学校の先生に訴えるとか、そういうことをするはずだと思う。それか、同級生の誰かに相談するだろう。場合によっては親御さんとかも登場して、学校全体を巻き込んで、解決に向かう様に訴えるとか、そういうことをするはずだ。でも、水穂さんはそれをしなかった。なぜ?そういう理由があるんだろうか?

「思いませんでした。思うことはしませんでした。というより、思う事もできませんでした。」

と、水穂さんは言った。

「どうして、そう思うんですか?だって、あなたは、一応同じ学生だったわけですから、平等に、教育を受ける権利だって、あるはずですよ。そういうことは、今の法律では、しっかり決まっているはずですよ。もし、助けてと訴えれば、手を貸してくれる人だっているはずです。学生であればそれがしっかり保障されていた筈なのに、なぜあなたは、それを使おうとは思わなかったのでしょうか?」

涼さんは、一般的に言われていることを言った。確かに学生ほど、手厚く保護された身分という物はない。社会人になると、そういうことは、二度とないと言っても過言ではないほど、保護されている。

「いいえ、其れは、普通の人だけに許されることであって、僕たちには許されることではありません。

其れはきっと、日本が続く限り、続いていくでしょうね。そういう事ですから。逆を言えば、そういうやり方をするしか、生きていく方法もないわけで。」

水穂さんはそういうことを言っている。涼さんは、少し考えて、

「そうですか。それはかなり以前に聞きましたよ。でもですね、水穂さん、あなたは、間違いなくピアニスト何ですから、あなたの演奏は間違いなくあなたの演奏であることは、嘘偽りもありませんよ。それだけは、どうか、忘れないでください。」

といった。どうやら、なにか秘密があるらしい。水穂さんは、こういうのである。

「ええ、もしかしたら、僕たちは、本当の目的で利用されることは二度とないかもしれません。僕たちは、そういう人のための踏み台くらいしか価値はないのでしょう。其れはそういう事なんです。僕は、価値がないんですよ。何をしたって、価値はないですよ。そういう事なんですから。もう、これで終わりにしたいんです。」

「ええ、終わり。確かに終わりです。しかしですね、ここの利用者である松井千春さんは、あなたが自分の話を聞いてくれたことにより、もう一度学校へ行こうと思ったそうですよ。それは、ほかの相談者には、出来なかったことです。ほかにも、あなたに焼き芋をもらって、もう一回食事をしようと思ったとか、掃除を怠けようとしていたところ、あなたが代わりにやってくれたので、もう一回やってみようと思ったとか、そういう利用者さんたちの話は、皆、嘘になるという事でしょうか。確かに、音楽学校に居た頃は、悲惨な人生だったのかもしれません。しかしですね、あなたは、別の分野で、こうして何人もの利用者さんたちの背中を押しています。ここをうまく使えば、あなたはまた別の人生を歩めるかもしれないんです。だから、終わりにしようなんてことは、やめてくれませんか?」

と、涼さんは、しずかに言った。しかし、水穂さんは静かに首を振る。もし、涼さんが見える人であったら、ここで平手打ちする可能性もあった。

「だって、そうしなければ、僕は生きていけないんですよ。そうしなければ、生きてはいけないんです。もう、いいじゃないですか。結局、強くもなれないし、優しくもなれないんです。ただ、体を傷つけて、優しい人を演じるだけです。そんなことしかできませんもの。もう、ここで終わりにした方が、一番いいんですよ。」

水穂さんはにこやかに笑っている。なんで?なんでそういうこと言ってそんな顔しているの?それに、涼さんも、なんでわかりきった顔しているの?このままだと、水穂さんは何も治療も受けないで、逝ってしまう可能性がある。何も、しないで放置しておく何て、あり得る事だろうか!

「そうですか。僕も、改めて、水穂さんの事がわかりました。ある意味、僕たち盲人よりも、大変だったのかも知れませんね。僕は、部落問題について、もう少し知っていれば、もっと良い手を知っているかも知れませんが、、、。」

「いいえ、知らなくて結構です。知られないほうがいい。知られたら、その人まで被害を受けることになりますもの。それは、一番つらい。それが部落問題です。」

涼さんがそういうと、水穂さんはきっぱりと言った。その顔は、もうこれでいいという、にこやかな顔をしていた。

「僕は、涼さんまで巻き込みたくありません。それは、僕が持てる最期の手段だと思って下さい。」

「ええ、わかりました。僕も、盲人として、その気持ちは何となくわかります。ただ、これだけは、言わせてもらえないでしょうか。」

と、涼さんは言っている。

「水穂さんにお願いがあります。どうか、最期まで、悲観的にならずに生きてください。もう、残り僅かなのかも知れないですけど、最期まで、生き抜いてもらえますか?」

「そうですか、、、。」

と、水穂さんは、しずかに言った。

「できるかな。」

と、まよっている水穂さんに、涼さんはそっと、右手を差し出した。もし、みえる人だったら、水穂さんの両手を掴んでくれたはずだ。でも、盲人の彼には其れはできなかった。

道子は、それを目撃しながら、本当は、涼さんに手を出してやりたかった。もし、涼さんが水穂さんに手をだしてあげらるのなら、本当はすごい約束をしてあげられるはずだ。だってそれは水穂さんにとっても、一つの生きる糧になってくれるはずじゃないか。

でも、道子は其れはできなかった。なぜかどうしてもできなかった。涼さんの手をとって、水穂さんの手に乗せてやろうと思ったのに、なぜか、出来なかったのである。なぜか。

だって、それをしたら、とうとう覗いてしまったのか!と涼さんに怒られるような気がするだけではなく、水穂さんにも、何か悪いことをしてしまうような、そんな気がして。そういうことは、したくないのだ。

きっと、水穂さんも、これからの残りの短い人生を生きていかなくちゃならないだろう。それに対して、本人の解釈を変えさせることは、もう無理なようだから、あとは、最期の最後までいきぬいてもらう事。其れでいいじゃない。と道子は思った。道子はそっと立ち上がり、また抜き足差し足で食堂へ戻った。もう、あの二人の話の邪魔はしたくなかった。

その日、セッションが終わるまで道子はぼんやり待っていたが、なんだかその時、何を考えていたのか全く覚えていない。そのあと、自分が覗いたのに、涼さんが気が付いたという態度はとらなかったし、中で行われていたことについて、話すこともなかったし、まあ、呆然と車を運転していただけであった。あの後、涼さんは、いつも通りエレベーターのほうへ、一歩二歩三歩と歩いて行ったが、その背中を呆然と見ていたことだけ記憶している。そのあとどうするかとか、そのようなことは全く思いつかないが、道子は自分も頑張らなければと思う気がしたのだった。


そしてその翌日。

「道子先生。小山さんが、ちょっとお話があるそうです。」

と、看護師が、研究室で書類を書いている道子に言った。

「はあ、何よ。」

道子は頭をかじりながら、とりあえず、小山さんのいる病室へ向かう。

道子が、部屋に入ると、小山さんは、道子の顔を真正面に見て言った。もう、なにか決断をしたような感じの顔であった。

「道子先生。私を、新薬の実験台から外してもらえないでしょうかね。」

道子は何を言い出すんだと思ったが、態度をかえずに、なぜそう思うのか理由を聞いてみることにした。

「だって、これから先、またその実験のせいで、先が見えなくて不安になるのも、ちょっと悲しいですよ。それだったら初めから、死ぬとわかっていたほうがいいんじゃありませんか?」

「いいえ、小山さん。あたしたちは、実験は続けますよ。だって、あたしたちは、小山さんに生きていてほしいから、実験を続けているんですから。ただ、単に好きでやっているわけじゃありません。、まあ確かに、先は見えなくて不安だとは思うんですけど、それは誰でもそうです。だから、小山さんも、最期まで、精一杯生き抜いてください。」

隣にいた看護師が、あららあ、道子先生、どうしちゃったの?と言いたげに首をひねった。でも、道子は昨日の体験から、これこそ自分が患者さんに言ってやれる言葉なのではないかと確信してしまっていた。それはきっと、道子が四畳半を覗いて得たものかも知れなかった。

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ラスプーチンの恋 増田朋美 @masubuchi4996

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