第103話 築三十年鉄筋コンクリート三階建て

「なんだこの値段……」

パソコンの前で白目を剥きそうになった。


 結果から言うと、妹は都内の国立大学に合格していた。

 妹とは約束がある。妹が都内に通うようなことになったら、俺の通う学にも都内にも通える距離にアパートを借りて一緒に住んでやるという約束だ。

 そして現在、俺と妹は白目を剥いている。

 都心通学圏内のアパートの相場に白目を剥いている。

 この金額が毎月飛んでいくとか無理だ。国立大学の学費の安さがアパート代で帳消しだ。それどころか、高くつくまである。

「いや、なにか考えるから……」

 とりあえず、そう言って居間で開いていたノートパソコンを閉じる。


 大学に通うこと自体は無理ではないのだ。

 妹一人がワンルームのアパートから大学に通うのなら、親から聞いた妹の学費・生活費の予算でもぎりぎり無理ではない。

 だが俺とふたりで住むとなると無理だ。さすがに女子大生の妹が大学生の兄とワンルームで同棲というのはやばかろう。しかも真奈美さんも「わたしもいく!」むふーっっとやっていた。真奈美さんも含めての三人暮らしは、つきあい始めた途端に同棲ってのもどうなのかという意味でも無理がある。

 やはり二部屋は必要である。

 俺もエロゲとかやりたいし!

 妹と同じ部屋でエロゲをやるのはなかなかにレベルが高い。しかもエロゲを実用(婉曲表現)するのはさらにレベルが高い。高レベルすぎて人を辞めている。


◆◆◆◆


「という事態なんだけど、つばめちゃんどうしよう?」

高校を卒業してからは佐々木先生は以前の恩師だが、今のつばめちゃんは頼りになる年上のお姉さんだ。一人暮らしの経験ももちろんある。というか、現在一人暮らしだ。ヒトリグラシスト。

「んー。こまったわねー」

「こまったんだよ」

形のいい眉を寄せてつばめちゃんも一緒に困ってくれる。しかし必要なのは共感ではなくて解決案である。共感は役に立たない。

「ちょっと、さわりさんに聞いてみましょ」

そう言って、つばめちゃんがパソコンからスカイプを起動する。ほどなくしてモニターに触手神こと、さわりかいなさんが現れる。

『どうしましたー。あ、えーと、二宮さんでしたよね。こんにちはー』

「こんにちはー。都内暮らしのさわりさんにちょっとお知恵を拝借したいことがあるの」

『どうぞどうぞ。つばめさん、そんな他人行儀な。なんですか?』

まさかコミケで隣になった人にこんなことを相談することになるとは思わなかった。

「実は……」

さわりさんに事情を説明する。

『なるほど。なるほど。つばめさんの言ってた通りの優しいお兄さんですなぁ。つばめさんが惚れちゃうわけだ』

「かいなくんっ!」

つばめちゃんが教室でも見せたことのない勢いで怒る。

『いやいや、ごめんごめん。ちょっと妬けちゃって』

「あなたが妬くことないでしょう!」

つばめちゃん、まじオコだ。というか、もしかしてこの二人つきあっているのか?少なくとも相当に近しい関係を感じる。さわりさんは俺から見ても飄々としたいいお兄さんって感じだしな。つきあってても不思議はないな。趣味も合うし。

『まぁ、本題だけど……それ』

「はい。どうしましょう」

『別にそのままでいいんじゃないですかね。ワンルームを借りるだけ借りて、実家から通えば』

「は?」

「借りて実家から通うって、どういうこと?」

察しの悪い俺とつばめちゃんが二人で頭上に「?」を浮かべる。

『だって、そうでしょう。三時間でしょ。だったら早起きして月曜日は実家から行くんです。金曜日は実家に帰るんです。借りたワンルームに泊まるのは月曜から木曜までの四日。実家の方は金曜から月曜の朝までの三日。それに祝日が十九日あって、大学は夏休みも春休みも冬休みもあるでしょう。それはもう実家から通っていて、長距離通学がキツいときに泊まれる部屋があるという状態です。その代わり借りるアパートはめちゃくちゃ大学に近いところにするんですよ。できれば十分以内。そうすれば週の合計通学時間に追加される六時間も多少はカバーされるでしょうしね』

おおう……。言われてみれば当たり前のことしか言っていないが、言われてみるまで気づかなかった。

「これが、コロンブスのタマゴってことなのね。さすがだわ」

『あんまり褒めないでください。照れます。それと、つばめさん』

「なに?」

『ぼくとつばめさんで少し家賃出してあげませんか?通学時間が長い分、バイトとかしずらいでしょうからね』

「いや、そ、そんなことをしてもらうわけには……」

『ぜひさせてください。これはウィンウィンですから』


 この人、天才か。そのあとの提案を聞いてそう思った。


『くくく。どうせ泊まるだけの部屋でしょう?だったら、ぼくらの同人誌の在庫を置かせてくださいよ。台車と什器も……。レンタル倉庫借りる分くらいはぼくらで出しますから』

「あ。そうね!コミケの日は確実に空いている部屋だものね!」

つばめちゃんがぱちんと手を打つ。

 あんたら、うちの妹のアパートでなにをするつもりだ?しかし、それはこういうことなのか。

「つばめちゃん、それはもしかして……」

「なおくんにも便利でしょ」

「便利です。いいですね。それ!」

これで今年からは一日目にみちる先輩の手伝いをして、二日目に三島先生の手伝いをして、三日目につばめちゃんの手伝いをしても、毎日往復六時間かけなくていいということだ。しかも三日目の大重量荷物の移動距離がドカンと減る。

 コミケのある年末とお盆の時期には絶対に空いている部屋が都内にあるのだ。

 しかも俺は、その部屋の借主の実の兄だ。だれが止められようか。


 その提案、乗ったぞ。


◆◆◆◆


つばめちゃんの家で検索し、不動産屋に電話し、さわりさんに裏を取ってもらった物件のプリントアウトを居間にいた妹に差し出す。

「ここだ。ここを借りろ」

それだけ言って、妹が合格した大学から一駅のところにあるアパートを指定する。

「なぜ、ここっすか?」

そこの方が有明に一駅分近いからだ。

「いいから」

「なぜ、一階っすか?」

あの段ボールをもって階段を使いたくないからだ。

「いいから」

「なにをたくらんでいるっすか」

「とってもいいことだ」

妹が兄をまったく信頼していない目で見つめてくる。

「誰の入れ知恵っすか?」

「触手の神」

「すげー嫌っす」

だめか。

 しかし、ここであきらめるわけにはいかない。俺だって体力の限界というものがある。あのコミケ全日参加を毎日始発に乗って、帰着が九時近くなるスケジュールでの三日間は俺の体力が限界なのだ。

 どうしてもコミケ倉庫兼宿泊所を手に入れねばならん。

「ちょっと、上に行かないか?」

「……いいっすよ」

妹と二階の俺の部屋に上がる。

 ここならば台所にいる母親に話を聞かれる心配もない。

 なぜ母親に話を聞かれたくないかというと、つばめちゃんとさわりさんから出てくる倉庫としての使用代は丸ごと妹と俺で着服したいからだ。

 しかし念には念を入れて小声で妹に説明する。

「女子大生が一人で住んでるはずのアパートにそんな人たちが出入りして大丈夫っすか?」

そんな人たち言うな。ひとりは俺たちの恩師だぞ。

「しょっちゅう出入りしてたら、もちろんアウトだ。だが年に二回だ。しかも大学生の住むアパートだぞ。友達やらサークルの仲間やらがたむろするなんて、珍しくない」

「ちょっと待つっす。世の中のうまい話は疑ってかかれというのが常識っす」

あまりにウィンウィンな話過ぎて妹が警戒している。うん。気持ちはわかる。しかも正しい。世の中のうまい話はこれからも警戒して生きていって欲しい。

 だが、これは本当にウィンウィンな話なのだ。

「部屋の鍵はさわりさんにもつばめちゃんにも渡さなくていい。その在庫に用があるときは俺が手伝うときだからだ。鍵ももっていない倉庫の借り賃を彼らは払う」

「ゆ、床は抜けないっすか?」

「見ろ。この物件情報を」

プリントアウトをつきつける。そこに書かれているのは『RC造り』の文字だ。すなわち鉄筋コンクリート造りだ。軽量鉄筋などではない。本物の建物ってやつだ。そして『築三〇年』だ。つまりバブル期のがっしりした鉄筋コンクリート造りのアパートだ。

「大丈夫だ。床は抜けない」

力強く宣言する。


 かくして、アパートが決定した。

 妹の部屋も生活の拠点もそのまま実家。両親もワンルームで済んで一安心。

 引っ越しなどというものもない。環境はほとんど変わらない。妹がなにより恐れる変化は最小限なのだ。


 その週の週末には、父親と妹でアパートの契約をしてきた。新しく買ったパイプベッドだけが、来週アパートに届く。

「じゃあ俺、真菜と向こうで受け取るよ」

そう言って、アパートの鍵を受取る。


『おめでとうございます。うちの荷物も図々しく置かせてもらうので、かわりと言っちゃなんですが電子レンジはうちの古いの差し上げますよ。ちょうど買い替えるところだったんで』

スカイプでさわりさんがそう言った。


◆◆◆◆


「……二宮?」

パイプベッドの配送待ちで行ったアパートの前で、思わぬ人物に遭遇した。

 ヴェロキラプトル三島由香里である。薄茶色のコートにタータンチェックのマフラーを巻いている。黒のタイツに包まれた脚は、高校の時と変わらず引き締まっている。蹴られたら、さぞかし痛かろう。パンストだとしたら内腿のほくろは蹴られても見えないなと思う。

「三島。なんでお前こんなところに……」

「なんでって……こっちの台詞なんだけど」

三島が下に視線を逸らす。

「そうだな。そこの部屋、春から妹が住む?というか月曜から木曜まで泊まってることもあることになったんだ」

「一〇一号室ってこと?」

「そうだ」

「私、二〇一号室なんだけど」

「二〇一号室って真上か?」

「そうね」

世の中狭すぎないか?東京には千二百万人が住んでいると聞いていたが、その中の二人がこの配置になるというのは、どういう偶然なのだ。

「狙ってきたんじゃないでしょうね」

「どうやったら狙えるんだよ」

「うちの姉に私の住所を聞けばいいわ」

「なるほど……だが動機の方がない」

三島の眉がひそめられて、眉間にしわが寄る。

「ないわね。ないのね。そうよね」

そこに宇宙戦艦みたいな名前の配送業者のトラックが到着する。

「あ、伝票番号〇〇〇〇〇〇〇〇ならこっちっすよー」

うちのハードディスクな妹が伝票番号をそらんじて、配送業者のお兄さんを驚かせる。世界びっくり人間である。

「じゃあ、これからよろしくね。妹さんの方だけど……」

そう言って、三島が階段に足をかける。

「三島」

三段ほど上がったところを呼び止める。

「なに?」

三島にしてはさみしそうな声が返ってくる。

「偶然でもラッキーだった。俺も、たまにここに来るからな」

週に四日間とは言え、妹の一人暮らしは不安と言えば不安だった。すぐそばに三島が住んでいるのは、ラッキーとしか言いようがない。

「……そ、そうなの?来るの?二宮も?」

「年に二回くらいはな。まぁ、だからその時は俺もよろしくな……」

「そうなのね。じゃ、じゃあ、そのときは会えるかもね」

そう言って、三島が一段飛ばしで階段の上に消えていく。身の軽さが変わってない。コートの裾から延びる脚と少し伸びた髪を見上げながら、ほんの一年前を懐かしく思う。卒業間際に屋上で撮った写真を後で見返してみようかと思った。

 そういやあいつ彼氏できたって言ってたな。ここに来た時に上から彼氏といちゃついてる声が聞こえてきたらどうしよう……。

 鉄筋コンクリートだし、それはないな。

 

 配送業者がでかい段ボールを下して走り去っていく。ドアを開けて、それだけを運び込む。そこではたと気づく。

「あ。カーテンが要るのか?」

「いらないっすよ。雨戸閉めとけばいいっす。明り取りの窓は別にあるっすしね」

そうだな。べつに住むわけじゃない。ここでもてあます時間があるなら、帰ってくるし、もてあます時間がなければ寝るだけだ。机はどうするかと両親に聞かれたが勉強するなら大学の図書館でやるし、レポートもそこでやるから部屋に机は要らないということになった。たしかに部屋では集中できないからと、わざわざ喫茶店に行く大学生がいるくらいだ。部屋に机は要らない。一度、住むところじゃない、帰れないときに寝るところ、と用途を限定しまうと新生活はひどく簡単になる。

 ベッドを組み立てて、部屋の端に据える。

「手前側は段ボールで埋まるものと思え」

「了解っす」

つばめちゃんとさわりさんから、合計で毎月一万円ずつ入ってくる。文句を言う筋合いはない。

「二宮くん、いますかー」

開けっ放しのドアの向こうから、さわりさんの声が聞こえた。

「あ、いますいます。わざわざすみません」

「いえいえ」

わざわざ宅配便ではなく台車に積んで電子レンジをもってきてくれたのだ。

「あれ?この電子レンジ」

「はい。ちょっと古いですけど」

これは電子レンジではなくて、正確には電子オーブンレンジというやつなのでは?しかもちょっと古くない。新品みたいな状態だ。

「けっこう高いやつなのでは?」

「トースターと一緒になってないと、都内の住環境では部屋の中の場所代の方が高く感じちゃって。まだちゃんとトーストも焼けますよ」

「もらっていいんすか?これ?」

「どうぞどうぞ」

 ガスレンジを置かない台所は狭いが十分だ。ガス台にそのままオーブンレンジを置く。

「これで終わりか?」

「そっすね」

布団はとりあえず寝袋でいいということになった。パイプベッドの上に寝袋を置いて、その中に入って寝ればいい。

 最後に持ってきた歯磨きセット、コップ、タオル類を洗面所においておしまい。

「じゃあ帰るっすかね」

「さわりさん、わざわざありがとうございました。あ、同人誌の段ボールはどうします?」

「夏コミのあと、そのまま寄らせてもらいます」

「ああ。そうですね」

「半年に一度段ボールが増えるんすね」

「安心しろ。主につばめちゃんだ。さわりさんのは、けっこう売れ切る」

「つばめさんの漫画、楽しく描いているのが伝わってきてぼくは好きなんですけどねー」

さわりさんのも楽しそうだ。遠慮がなくてふっきれている。触手って、そんなに描くの楽しいものかと自分でも書きたくなるくらい楽しそうに触手が画面を埋めている。


 部屋を出る前に、ブレーカーを落とす。

 どうせ冷蔵庫もないのだ。電源が落ちていて困るものはない。ブレーカー丸ごと落とした方が待機電力とか漏電とかを心配しなくてよかろう。

 鍵を閉めて、戸締り確認。

「じゃ、戻るか?」

「戻るっす」

「それじゃあ失礼します」

「ありがとうございました」

さわりさんは反対方向の地下鉄の駅を利用するらしい。俺と妹はJRだ。


 新居というわけでもなく、ただ好きに使える部屋だと思うとワンルームも贅沢な場所な気がしてくるから不思議だ。

 横断歩道を渡ってから、築三十年鉄筋コンクリート三階建てを振り返る。そこで二〇一号室からこっちを見ている三島と目が合った。どうしたものかと思案して手を振る。三島も肘から上だけを振り返してくる。


 二月の早い夕暮れに、逆光になった三島の表情までは見えなかった。


(つづく)

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すみません。こいつの兄です アル @alu9000

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