第102話 いつもの。

 なにも変化がない。


 生まれて初めて彼女ができたというのに変化がない。

 これでいいのか?

 こういうものなのか?

 本当に変化がない。


 あいかわらず真奈美さんはしょっちゅう家に来て、俺が起きると台所で朝食を作ってたりする。少しだけ変化があるとすれば、その時に一緒に昼の弁当を作ってくれてたりすることだ。どちらも超絶に美味いのは変化がない。

「お弁当多くない?」

食卓の上にアルミホイルでくるまれたお弁当は、ちょっと俺一人では完食できそうにない量だった。

「これが、真菜ちゃんので。これが、美沙ので。これがお義父さんので。これがなおとくんので。ここからここまでが三島先生とわたしのお昼と夕食」

「三島先生と真奈美さんの?お昼と夕食」

「今日は修羅場なの。終わるまで帰らないの。食べながら描くためにサンドイッチなの」

真奈美さんの前髪が、むふーっと鼻息で揺れる。

 スーパーホワイト職場の三島スタジオもたまにブラックである。

「お姉ちゃん。お兄さんとつきあって変わったよね」

美沙ちゃんが、ちょっと恨みがましい目でにらみながら言う。付き合う前から真奈美さんはだいぶしっかりしていてコミケにもいけるくらいになっていた。それを知っているからか、俺の目からするとあまり変化がないように見える。だが美沙ちゃんから見ると「かわった」らしい。

 いわれてみれば、前髪が鼻息で揺れるなんてことは初めてかもしれない。


 美沙ちゃんも恨みがましい目で済むようになってよかった。ホラーは本意ではないので、思い出さないように記憶を封じたのだ。そりゃもう、一時期はすごいことになったよ。うん。真奈美さんも久しぶりにじょーじょー漏らしたよ。俺も多少ちびったよ。美沙ちゃん、マジ闇の天使だったよ。


◆◆◆◆


「行ってきます」

「いって、きます」

真奈美さんと連れ立って家を出る。俺はいつものバッグに大学のテキストと真奈美さんの作ったサンドイッチを入れて。真奈美さんはトートバッグに大量のサンドイッチを入れている。

 コートの袖口をつままれる。変化がないどころか、密着度はむしろ付き合い始めてからの方が減っている気がする。それでも真奈美さんのことを以前よりもずっと近くに感じる。つままれた袖口の引っ掛かりに真奈美さんの体重を感じる。

「来週は……」

「うん」

「真菜ちゃん、合格発表だね」

「来週だっけ?」

妹の合格発表なんてすっかり忘れていた。

 たしかあいつ、都内の国立をふたつ受けていたはずだ。すべり止めの方も国立のできる妹である。くっそ。あいつができる妹とかなんの冗談だ。あれこそ、試験勉強がすべてじゃない見本だ。あいつは試験勉強だけできるやつなのだ。あとは全部頭おかしいぞ。試験のできないやつが、試験勉強がすべてじゃないと言っても説得力がないが、試験勉強だけできるあいつを例に出せば誰もが納得するはずだ。

 なんと、すべり止めじゃない方は東大だ。模試でB判定だったのだ。

 ただし東大に受かるとは思えない。実力はあったかもしれないが、試験当日にその後入院騒ぎになる高熱を出していたのだ。

 もう一つ私立も受けているがそっちは模試の結果からみても、自己採点でもどうみても合格だ。

「合格したら、お兄ちゃんも一緒に行くんだよね」

「あいつを放置できないからな」

あいつの一人暮らしはいろいろヤバイ。チェーンソーとか、そういう方向性でダメだ。

「私も行く」

 むふー。前髪が揺れる。

「長距離通勤になるよ」

「職場がフレックスだから大丈夫」

 むふー。

 頼もしい。真奈美さんを頼もしく思う日が来るとは……。付き合い始めても変わることはないが、三年間では変わることだらけだ。そりゃそーだ。毎日を困難に真正面から立ち向かってきた真奈美さんが同じわけがないよな。

 駅前に到着する。

「じゃあ、また……か、帰りは遅くなっちゃうかも」

「遅くなったら、迎えに行くよ」

「うん……ありがと」

真奈美さんが、ちょっと袖をひっぱる。離して、背中を丸めたヤシガニスタイルで駅へと向かう。その背中を見送って俺はバス停へ向かう。

「ラブラブしてんじゃねぇ。殺すぞ」

「おはようございます」

安心していい。みちる先輩語で「殺すぞ」はおはようの意味だ。殺すぞなどと言っているが、真奈美さんとみちる先輩は思いのほか相性がよかったのだ。まったく予想外だ。

 一度、真奈美さんを連れてみちる先輩の昭和アパートに遊びに行ったことがある。

 予想はこうだった。みちる先輩がキレってグロック17を突きつける。真奈美さんが漏らす。これが予想。

 現実はこうだった。みちる先輩はずーっと机に向かって漫画を描いていた。真奈美さんは持参した例のノートにちまちまちまちま謎の絵を描いていた。

 俺は寝てた。三人でなにも話さずにその状態で日が落ちるまでいて帰った。帰り道、真奈美さんは「たのしかった。また行きたい」と言った。みちる先輩からは「すごく楽しかったです。また彼女と遊びに来てください」とのメールが来た。これが現実。

 なるほど。

 あれがコミュ力最小のみちる先輩が気楽に過ごせる友達との過ごし方だったのか。

 あれが真奈美さんが気をつかわずにいられる友達との過ごし方だったのか。

 世の中、楽しくお話しするのが快適って人だけじゃないのだ。多様性である。


 今の俺も別にみちる先輩となにも話さずにぼーっとバスを待つ。隣でみちる先輩もぼーっとバスを待つ。ふたりともスマホを持っていないので、時間つぶしにゲームをしたりしない。俺はゲームを始めると本気でやってしまうので暇つぶしにゲームをやるという習性がつかなかった。みちる先輩はぼーっとしているように見えて、漫画のプロットとか考えているらしい。

「なぁ。なおと」

「はい」

「冬の本……」

「はい」

「どうだった?」

みちる先輩の冬コミの同人誌のことだ。

 コミケ直後にも一度感想は言った気がするが、たまにおかわりを要求される。

「んー」

難しいのだ。これが。

 これがエロゲやギャルゲなら〇〇ちゃん激萌え!とかシンプルな感想が多いのだが、みちる先輩の漫画は文芸作品みたいな漫画なのだ。登場人物は地味だし、絵は古臭いし、お話は説明不足で一度や二度ではなんのことやらさっぱりだ。いや、ストーリーは把握できるのだ。でも暗喩が多くてな。

 冬の新刊は、珍しく恋愛ものだった。ざっくり言うとこんなストーリーだ。


 モテない女の子が学校一モテるイケメンに恋をする。イケメンはひょうひょうとして覚悟が決まっていて、男の俺の視点から見てもいい男だなと思える男だった。少女漫画では珍しいタイプだ。その女の子がひょんなトラブルからイケメンくんと遭難して、洞窟を潜り抜けて脱出する。命からがらの不幸な事故だ。女の子は、そのトラブルの最中の傷がもともと可愛くもない顔に残ってますますモテなくなる。そんな物語だ。別につり橋効果でラストに二人が結ばれたりしない。イケメンくんは脱出行の間中、きっちりヒロインを気遣い男らしく毅然としている。だが最後はちゃんとかわいい別の女の子が無事でよかったと泣きついてきて、そっちと結ばれるのだ。せめてモテないって設定だけで、キャラデザくらいは女の子をかわいく描けばいいのに、本当にヒロインをかわいくなく描いてしまうのがみちる先輩らしい。最後に出てくるイケメンくんの彼女は、隙のないかわいさだ。


 こんな漫画を見せられて、感想を言えと言われても『もにょりました』以外のなにを言えと言うのだろう。

「んー」

 みちる先輩のあいさつ並みに最短な感想しか出てこない。

 んー。

 地の文まで、こうなってしまった。


「バス、来ませんね」

おかしい、いくらなんでもそろそろバスが来てもいいころだ。腕時計を見ると、バスが来るはずの時間から二十分近く過ぎている。

「ん……歩く?」

「歩く?大学までですか?」

「そんな遠くないよ」

「じゃあ、歩きますか」

バスをあきらめて、みちる先輩とてくてく歩きだす。バスしか使ったことがなかったから、歩いて行くという発想がなかった。バス通り沿いにしばらく歩く。大きくカーブするところで、斜面にできた階段を上っていく。住宅街に出た。まったく道がわからん。みちる先輩は慣れているのか、ずんずん進んでいく。俺はそれにひたすらついていく。

 その背中を見ていて、ああと気づくものがあった。

「アレは比喩ですか?」

「なに?」

「いや、冬の漫画の感想」

あんたが要求したのだ。

「……あれって、どれ」

「顔の傷です。ヒロインの」

住宅街を通り過ぎて、葉の落ちた木の目立つ公園に入る。寒そうな池の脇をぐるりとめぐる。この寒さではジョギングしている人もいない。

「どういうこと?」

「ちがったかな」

どうやら深読みしすぎた。作者様が理解していない。どうやら比喩じゃなかった。

 感想、感想と考えすぎていたな。

 うん、やっぱりなんかもにょる以外の感想が出てこない。

 池の周りをまわって、公園の反対側にたどり着くと大学の裏に出た。研究棟の背中がどどんと見えるこんなルートがあったのか。

 ただし、そのままではキャンパスに入れない。二メートル少々ある塀が敷地をぐるりと取り囲んでいる。これをぐるっと回るのか、けっこう距離あるな。

 ぽいっ。

 え?

 みちる先輩が塀の向こうへかばんを投げた。助走をつけたみちる先輩が両手を上に向けて全力ジャンプ。塀の上に手をかけて、両足でがりがりと塀をかきながら登って行って片足を塀の上に乗せる。そのまま、ぐるんと回って塀の向こう側に消えた。「なにやってんだ。早く来い」

塀の向こうから声がする。

 あんたこそ何やってんだ?と思ったが、正面玄関まで周るのも面倒くさい。みちる先輩を見習って、まずはかばんを塀の向こうに投げる。このくらい高さがあると、ハンマー投げみたいにけっこう豪快に投擲することになる。かばんの着弾地点が見えなくて不安倍増。これをやってしまうと、まさに賽が投げられたという状態である。投げたのはかばんだが……。

 数歩分下がってダッシュ。塀の上に肘くらいまで腕をかけて、みちる先輩と同じ要領で塀の上によじ登る。そして大学の中に降りる。降りるときは、内側に張り出した塀の支えがあったのでそこに足をかけて割とおとなしく降りれた。

「で、なにが比喩だって?」

投擲したかばんを拾ってくれたみちる先輩がしつこく感想を聞いてくる。

「いや、作者の先輩がわからないんじゃ違うでしょ。深読みしすぎでした」

「聞かせてよ」

まぁ、聞かせろと言うなら……。

「いや、あの話って、二人が遭難してから脱出するまでの間が実らなかった恋の比喩なのかなって思って」

そうなのだ。みちる先輩の描いた漫画は、読みようによっては実らなかった、けれども何もなかったわけでもない恋の比喩ではないかなと思ったのだ。たしかに全編でヒロインは男の子を好き好き思っているのだが、実際にはなにもない。ただ二人で迷い助け合いながら洞窟を進む。

 女の子は遭難して危機の最中にいながらも、その時間を最初で最後かもしれない二人きりの貴重な時間だと感じながら進む。

 女の子は想いを募らせ、男の子も女の子を気遣う。その二人が手と手を取って暗闇の中を転がり落ちるシーンがある。そこで男の子は女の子をかばい、抱きしめる。ほんのしばらくの暗転。真っ黒なスミベタのコマがつづく。そのあとのシーンで、消えた明かりをもう一度つけると女の子は顔に怪我をして血を流しているのだ。

「……洞窟を進むのは、二人が生きていく比喩で、その中で片思いの女の子と女の子を気遣う男の子が抱き合って、そのあとで女の子の流血だから……。まぁ、その……」

続きをちょっと比喩ではなくてみちる先輩に言うのは多少ためらわれる。というか照れる。

「なるほど……なるほど……」

みちる先輩は、俺の話を聞きながら腕を組んでしきりにうなづいている。

「あれは、そういうことだったのか」

「そういうことって……、自分で書いたんじゃないんですか?」

「ん……。いや、まぁ、そうなんだけどさ」

講義棟の下にある自販機に、みちる先輩にしては珍しくコインを入れてコーヒーを買っている。さすがに冷えたか?

「やるよ」

「あ、ありがとうございます」

どういう風の吹き回しだろう。みちる先輩がコーヒーをくれた。

「あるんだよな。自分で描いているときは、なにを描いているのかわからなくて、あとで読んでみてさ。ああ、こういうことだったのかって気づくことが……」

三白眼がこっちを見上げてくる。

「そんなことがあるんですか?」

「ある。っていうか、そんなことだらけだ。描いているときは自分でも全部なんてわかってない。……たいてい、半年くらいしてから気づく」

「そうなのか……あ」

「どうした?」

ふと意識に上ってきたのは、真奈美さんの描く謎の絵本。あれも、もしかしたら真奈美さん本人も何を描いているのかわからない比喩が含まれているのかもしれない。不思議な森の中を進む絵本。

「……いや。芸術なんだなって思って」

「そうか?マンガだぞ」

俺が以前に言ったみちる先輩の漫画は文芸なのだというのも、大きく外れてはいなかったのだと思った。

 きっと、真奈美さんの絵本も、みちる先輩の漫画も、どこか本人の無意識の底から浮かび上がって、本人の意識をバイパスして描かれているのだ。それは無意識の作り出すなにか。

 きっとそれが芸術なのだろう。だから言葉ではない絵や漫画の形をとるのだ。

「ええ。みちる先輩の漫画は芸術なんだと思いました」

みちる先輩が少し下唇をかむ。

「なおと」

「はい」

「おっぱい揉む?」

「揉みません」

あいかわらずのクレイジー。

「そうか。そのくらい嬉しかったんだけどな。揉まないか」

そういうと先輩はまた一本コーヒーを買った。

「これもやる」

「ありがとうございます」

まぁ、缶コーヒーは腐るものでもないしな。乳揉み権利の代わりに缶コーヒーを受け取る。みちる先輩の乳揉みはコーヒー一本と同じ価値か?安すぎるだろう。いや、ちがう。値段つけちゃダメなやつだそれは。

「なおと」

「はい」

返事に警戒の色がにじんでしまう。今度は尻じゃないだろうな。

「なんか、そんな風に読んでもらえてすごくうれしかった」

「そうですか?」

そうなのか?

「また夏のも読んでくれ」

そう言って、少し肩をすくめてから先輩は後ろを向いてサークル棟へと小走りに走っていった。


 俺も講義棟に向かう。


 今頃、真奈美さんは修羅場中だなと、真奈美さんを思った。


(つづく)

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