第101話 101回目の

熱を出した。

 俺じゃない。妹だ。バカは風邪をひかないというが、そんなことはなかった。というか、妹はバカではなかった。模試の点数とか恐るべき高得点をマークしていたのだ。

 それが、よりによって大学入試の前日に熱を出した。

「…………」

 入試前日から、都内のホテルに一泊していた。付き添いで来た俺はこの事態に朝の五時半から愕然としていた。夜中過ぎに布団に潜り込んできた妹の体温の異常な高さに違和感を感じて、ホテルのフロントで体温計を借りた。測ってみると、四十度。ちょっと高熱というレベルじゃない熱だ。

「病院行くぞ」

「入試っすー」

 赤黒い顔色でわかりきったことを言う妹にこっちも困る。熱の原因もわからないし、手遅れになったらたいへんだ。だが、大学入試も大事だ。大学というのはブランドだ。大学のランクの差は、大学の中での成績では越えられない溝になる。それは将来の就職にも絶対的な差になるし、就職するときに最初でコケると、その後のたいへんさは世の中でイヤになるほど語られている。

 妹が大学入試にこだわるのももっともなのだ。

「……」


 妹にエナジーゼリーとポカリスエットを飲ませて、ホテルをチェックアウトする。タクシーに乗ると、試験会場の大学へと向かってもらう。

「あ、そこの薬局の前で、一旦止めてください!」

朝早くから開いていた薬局を見つけて、タクシーを止める。

「お前、ここにいろ」

妹を車内に残したまま、薬局に飛び込んでポカリを数本とエナジーゼリーと胃薬と解熱剤を購入する。

 車内で、胃薬と解熱剤を飲ませる。

「いいか、ダメだと思ったらギブアップして出てこい。解熱剤は昼過ぎまで飲んじゃダメだぞ」

「わかったっすー」

俺は試験会場には入れない。フラフラと足下もおぼつかない妹の背中を見送る。細くて発育不良な背中がいつもにもまして頼りなく見える。

 あんな状態で試験を受けたって、実力なんて出せないだろうに……。大人しく病院に行って、点滴でもしてもらえよ。ばかたれ。

 そうは思うが、やってみもせずにダメになるのと、やってみてダメなのとでは違う。妹がやるというなら、俺にはできることはあまりない。

「ま、病院に行っても一発で治るワケじゃないしな」

そう独り言をつぶやいて、自分の中で折り合いをつける。

 とりあえず、今日妹が試験を受けている間にしようと思っていた予定は全部キャンセルして大学の目の前の漫画喫茶に入る。




 妹は、なんとか夕方まで試験をやりきった。

「よくやったぞ真菜」

ここからが大変だ。徒歩と電車とバスで三時間かかる道のりを帰らなければならない。

 妹は、二月の寒空の下でも汗をしたたらせている。駅まで歩くとか絶対無理。大学の目の前でタクシーを捕まえる。東京はその辺をタクシーが流していて便利だよな。

 現金がバンバンすっ飛んでいくが、気にしていられない。東京駅まで一気にタクシーで行くことにする。

「うー」

 列車の席に座らせて額に手を当ててみる。

 激ヤバ。全開状態の懐炉レベル。

 列車を降りる前に、ようやく午後七時。前回解熱剤を飲んだのが、十三時前だから六時間経った。とりあえず、もう一度解熱剤と胃薬を飲ませる。解熱剤が効いている数時間は少し楽そうになる。

 駅から自宅までの一キロ少々の距離でもタクシーを使う。今日はタクシー代だけで一万円以上使っているが、妹が試験を受けている間に秋葉原でエロゲを買うつもりだったから、現金の持ち合わせはたっぷりあった。ぐぬぬ。

「真菜!大丈夫?!」

家に帰りつくと、電話で俺から報告を受けていた母親が妹を受け取る。額に手を当てて「あら大変」などとやっている。

「母さん。それで、熱冷ましが効いている状態だからな。今のうちに食べる物食べさせてやらないと」

 ぽけらーとしている妹に夕食を食べさせて、ベッドに送り込む。

 病気になったときに家族にできることなんて、食べ物を食わせて売薬を飲ませて寝かせるくらいだ。

 ベッドに入ったのを確認して、看病を母親に任せると自室に引っ込む。つかれた。気軽な受験付き添い旅行のはずが、とんだ緊急事態になった。

「はばばばばば」

 正体不明の音と共に肺の中から疲れた空気を排気する。

 読みかけのラノベの続きでも読もう。

 鞄の中に手を突っ込んで、ラノベを手探りする。先に携帯電話が見つかる。引っ張りだして充電台においたところでメール着信に気がつく。

 見ると、つばめちゃんからだった。内容は妹の試験の様子を気にするメール。そういえば、つばめちゃんは妹の高校の先生なのだった。自分が卒業してからは、すっかりエロ同人作家のつばめちゃんな顔しか見ていなかったから佐々木先生の方を忘れていた。

《体調くずしちゃってたいへんでした。一応、試験は受けきりましたが、出来具合を聞くどころじゃありませんでした。明日、病院に行く予定です》

 とりあえずの報告を書いて、送信。

 一分で、今度は着信が来る。

「はい。もしもし」

『あ、夜遅くにごめんなさい。真菜ちゃん大丈夫?』

少しあわてたつばめちゃんの声がたずねる。

「寝てる。今のところ高熱出して寝てるしかわからないな。普段からわりと意味不明な妹が、熱にうなされているから、ますますわからないです。でも、とりあえず食事もしたし、水分もとっているから……あ、明日は学校休むよ」

病欠の連絡が簡単であるな。

『そう……大事にしてあげてね。…って言わなくてもなおくんなら大丈夫か。優しいもんね』

 俺があの妹に優しいという評判は初めて聞いたが、真実だと思う。熱を出して試験を受けている妹を心配して、試験会場の近くから離れずにエロゲを買いに行くのを我慢したくらいなのだ。なんという優しさであろうか。

 そのあと、しばらく妹の様子とかを話して電話を切る。

 つばめちゃんは、俺のことを優しいと言うがつばめちゃんの方が優しい。俺の優しさがバファリン級だとしたらマリア様級だ。すなわち聖母。エロ漫画描くけど、エロ漫画描きつつ処女なあたりも処女懐胎的な意味で聖母だ。なんと言っても、妹だってつばめちゃんの立場から見たら、三百人くらいいる生徒の中の一人に過ぎないのだ。それをあんなに親身に心配している。真奈美さんのことだってそうだ。けっして『まぁ、何年かに一度は不登校って出ますよ』などとあきらめなかった。

 つばめちゃんマジ聖母。

 つばめちゃんが一人暮らしで熱を出したら、看病に行こう。そうしよう。

 あらためて、鞄の中からラノベを発掘して、続きを読み始める。ラノベの姿を借りた戦争モノになっていて登場人物がガンガン死んでいた。戦争とかテロで何十人死にましたというニュースを聞いても、ふーんって思う俺がラノベの登場人物が死んでいることに戦慄する。それは、たぶん三百人の生徒の中の一人が熱を出して、数千人の中の一人が不登校になるのと同じようなものなのだろうなと思った。そこまでに俺の中に入り込んできていない人はどこまでも他人だけど、そこまでの物語で共感してた架空の登場人物は身内なのだろう。現実の誰かよりも。




 気がつくと、いつの間にか寝ていた。つけっぱなしの蛍光灯を消そうと手を伸ばしたところで、隣の部屋からうなされる声が聞こえた。時間は午前二時。

「解熱剤が切れたかな?」

バファリン級に優しい俺は、静かに妹の部屋をのぞきに行くことにした。この場合は良い方の意味である。悪い方の意味で妹の部屋をのぞくのはエロゲの中だけである。

「アホか貴様」

窓から差し込む街灯の明かりで見ると、妹はこの季節で熱があるのに、布団を全部蹴りとばしていた。しかもパジャマも半脱げである。

 まずは布団を掛け直す。パジャマには触れない。なんかぺたっとした腹がかなり上の方まで丸出しで、触れてはいけない危険部位に触れそうだったからだ。

「うぎゅ~。ぐんー」

ぎりぎりぎりぎり。寝言に加えて歯ぎしりまでしている。

「そんなに寝苦しいか?」

「にーぐーん」

起きているのか寝ているのか、今一つ判別がつかない。うなされながら俺を呼んでいるみたいだ。

「ぢぐま~ぢぐま~」

俺は筑摩じゃないし、むしろ俺の方が真菜より少しお兄さんなのじゃからな。こいつ、うなされているフリなんじゃないかな?額に触れてみる。大丈夫じゃなかった。熱いし寝汗でぐっしょりである。妹が大破している。どうしよう。進撃したら轟沈必死である。

 どうしようかと思案していると、暑いのかまたもぞもぞと布団を蹴り捨て始めた。

「だから、やめろ」

かけ直す。

 これはあれか?氷枕か?

 一階に降りる。冷凍庫からアイスノンを取り出す。戸棚から荷造り用のスズランテープも取る。それらを持って妹の部屋に戻る。頭の下にアイスノンを挟む。この短い時間に三度蹴りとばしていた布団で妹を簀巻きにする。スズランテープの出番である。妹を簀巻きにした布団をスズランテープで縛る。これで朝まで布団をかけ直す手間はなくなった。

 俺も寝よう。簀巻きになった妹に優しくおやすみと声をかけてから自分の部屋に戻る。

 中途半端に寝てしまって、目がさえてしまった。ラノベの続きを手に取る。

「ふぐぐ~。ぐふ~」

隣の部屋で妹がうなされている。

「ぐぅは~」

どたんっ。

 ベッドから落ちたな。だが、簀巻きになっている以上、身体を冷やす心配はない。大丈夫だ。問題ない。寝汗でびっしょりになるかもしれないが、汗をかいた方が熱は下がると言うし……。ん?脱水症状にならないか?あれ?

 心配になってきた。

 一階に降りる。冷蔵庫からポカリを取り出す。ついでにストローも一本手に取る。

 再び、妹の部屋である。案の定、巨大なちくわみたいになった妹はカーペットの上に転がっていた。縛ってあるスズランテープをつかんでベッドの上に戻す。

「ぢぐま~ぢぐま~」

 お前はむしろ関西弁の軽空母だろう。体型的に。

 見ると、顔色は真っ赤。汗が滴になっている。

「ポカリ飲め」

ペットボトルを開けて、ストローを差し込み、口に含ませてみる。やはり喉が乾いていたと見えて、寝ているんだか起きているんだかわからない状態ながらも、順調に飲む。 危なかった。

 妹を簀巻きにした挙げ句、脱水症状を起こさせるところだった。優しいお兄さまのつもりが、DVニキになるところだった。

 ひとしきりポカリを飲んだところで、ストローが解放される。

「にーぐーん」

「はいはい、なんすかね」

呼ぶのが筑摩ではなくなったので、返事をしてやる。閉じていた妹の目が、焦点が合わないままうっすらと開く。高熱で意識が朦朧としているのかもしれない。

「私が来た日のこと、覚えてるっすか?」

「覚えてるわけないだろ。一歳の頃の記憶なんかあるか」妹は三月生まれ、俺は五月生まれとはいえ、一歳差である。妹が来た日のことなんか覚えているわけがない。

「そーっすかー。にーくんはー」

鼻声になってきた。腕ごと簀巻きにしているから、鼻がかめないのか。

「ほれほれ」

ティッシュで、ぐじゅぐじゅすすり始めた鼻を拭いてやる。鼻水も出てるし、風邪のひどいやつか、もしくはインフルエンザかもしれんな。インフルエンザだったら、俺ももう感染してるな。万が一、熱が出たらすぐに病院に行くぞ俺は。こうはなりたくない。

「にーくんはー、覚えていないっすねー」

妹はそう言うと、また目を閉じて寝てしまった。

「おまえ、まさか本当に生まれたときのことを覚えているんじゃないだろうな……」

少し、ゾッとしながら妹がそれなりに安らかな寝息をたて始めたのを確認して、毛布を取りに自分の部屋に戻る。

 自力で水分も取れない簀巻きにしてあることだし、とりあえず今日は妹の部屋で寝ることにする。普通なら女子高生の妹の部屋で一緒に寝るとか、犯罪だと思うが、こいつなら大丈夫だろう。第二次性徴が危ぶまれる胸だからだ。牛乳飲め。

 毛布を数枚重ねて、少し冷えるなと思いつつ妹の寝息を聞きながら夢の世界に落ちていった。




「あんた、意外と優しい子だったのねぇ」

妹をタクシーに乗せて病院へと出かける前に、そんなことを母親が言った。

 妹と母親は病院へ、父親は相変わらず職場へ、そして俺は大学へ行く。

「よ」

バス停には、最近よく遭遇するようになったみちる先輩がいた。

「おはようございます」

「ん」

黙ってバス停に並んで、黙ってバスに乗り込む。無言は満ちる先輩の平常運転なので慣れた。この冬の冬コミも一緒に行った。

「みちる先輩のコミケは、身軽ですね」

「まぁ、売れないからな」

真冬の上着で少し着膨れした俺とみちる先輩の肩が、バスの二人掛け座席の上で触れあう。

「昔の本を持っていこうとは思わないんですか?」

「昔のことは忘れることにしてる」

「黒歴史なんですか?」

「……どうだろうな。でも、なんか黒い気はする。今描いている漫画よりは……」

「そういえば、冬の本は……」

そう言いかけたところで、バスが大学前に到着する。会話を中断して降りる。

「じゃ」

向かう教室の違うみちる先輩と最短の挨拶で分かれる。


 冬の本は、珍しく恋愛モノでしたね。


 言いかけた言葉は宙ぶらりんのままだった。

 恋愛か……。俺の美沙ちゃんが好きだって気持ちは恋愛なのだろうか。ひどく良くできた美術品を自分ちの居間に飾っておきたいと思う金持ちの気持ちに近い気もする。だれにもこの綺麗なものを渡したくない。自分だけのものにしておきたいと思う気持ち。

 真奈美さんへの気持ちは、大事にしたい。真奈美さんが、今もこれからも心安らかにいられればいい。それが俺の隣であればいい。そんな気持ち。

 三島……。三島のことを考えると、唇と舌に感じた三島の塗れた感触を、口を通って鼻へと抜けた香りと一緒に思い出す。意外だ……。昔を思い出すと、三島に一番女の子を感じる。

 そんなことを考えながら一般教養の講義に出た。

 わりとみっちり講義に出て、冬の短い陽が傾く中を帰宅する。玄関に黒々と丸まった物体を発見する。

「真奈美さん?どうしたの?」

「……誰もいなかったから」

父親がまだ帰ってきていないのはいつものことだが、母と妹も帰ってきていないのは意外だ。

 真奈美さんは携帯電話を持っていないから、こうなると待つしかない。真奈美さんの性格からすると、うちをたずねて留守だったときに電話で呼び出したりもしないだろうから、携帯電話の有無の話ではない。

「寒かったでしょ」

鍵を開けながら聞く。

「ん……さむかった」

玄関前にしゃがんだままの丸まり状態から起動するのに手を貸すと、細い手先が氷のように冷えていた。いったい何時間丸まっていたのだろう。せめて暖かいところに退避して待っていて欲しかった。妹が熱を出した直後だけに本気で願う。

「風邪引くよ。お風呂でも入る?」

「ん」

真奈美さんが軽くうなづいて、風呂場へと向かう。手は俺の手をつかんだままだ。

「真奈美さん、お風呂……」

「いっしょに」

「それはマズいと思います」

「なんで?前は一緒に入ったのに」

前回は水着を装着することにより、ギリギリセーフの範囲に落とし込むことに成功していたが、今日は水着がなさそうなのでアウト。というか、前回の同い年の十代の女の子と自宅のお風呂できゃっきゃうふふというイベントも、水着によって許容されるイベントなのかどうかも微妙だ。世の中には、マジックミラー越しに女子高生が折り鶴を折るのを見てるだけというお店が摘発されてたりもする。アウトの判定は思う以上に厳しいのだ。

「ま、真奈美さんの裸を見てはイケナイ気がします」

声がうわずる。

「私、いいよ」

客観視すれば、今日うちに誰もいないんだよねー。お風呂一緒に入ろうよー。という流れである。もう完全にご卒業の流れである。

 などと、客観的に状況を観察するフリをして現実から逃避しているうちに真奈美さんに手を引かれて脱衣所に到着である。このまま流されてはまずい。俺の暴走特急が止まらなくなって、今までさんざん頑張ってきた理性さんの努力が台無しになる。

「真奈美さん。あ、あのさ、年頃の男女が一糸まとわぬ姿で混浴というのは、つまりそういうことになるかと存じる所存なので、きわめてマズいと思います」

「三島さんがね。由香里ちゃんがね……」

「え?」

予想していない名前の登場に不意を突かれる。三島にはいつも不意を突かれている。

「なおとくんをあきらめたら、きっと後悔するって言ってた……。なおとくんも、私も後悔するって」

「俺も?」

「うん。なおとくんは……優しいから、一番誰も傷つかないことを選ぶって……」

そんなの、当たり前だ。美沙ちゃん、真奈美さん、三島のことだってできることなら、あんな風に振ったりしたくなかった。三島とだって顔を合わせづらくなんてなりたくなかった。

「わたしも、そう思う。なおとくんは、きっと……。美沙を選んでも、わたし、なおとくんの家族になれる。真菜ちゃんが直人くんの妹で、わたしが直人くんのお姉さんで、美沙が私の妹で、真菜ちゃんが美沙の妹で、私の妹で……。それが、みんなが幸せになれる家族」

そう。

 それが正解。俺は、美沙ちゃんに出会ったときに一目惚れした。いろいろとキモ悪がられたりしたけれど、美沙ちゃんも俺に告白してくれた。あきらめないと言ってくれた。

 ためらっている理由は、ただ一つ。真菜。

 どんな形であれ、変化は妹にとって世界が崩壊していくような恐怖だ。それが一番身近な俺と妹に起きる。それにためらう。

「わたしもそう思おうとしてたけど……。言われて、気づいたの」

真奈美さんが、いつの間にかコートをハンガーに掛け、ジャージの上着を脱いでいる。Tシャツ姿の真奈美さんの手が、俺のダウンジャケットのファスナーを降ろす。

「わたし、美沙になおとくんを取られたくない」

ダウンジャケットを脱がされる。

「なおとくんと毎日一緒にいられても。私がなおとくんの一番じゃないといや」

真奈美さんの手が俺の首に回って、抱きつく。鼻になれた真奈美さんの少し甘い匂いがふわりと香る。華奢で柔らかな真奈美さんは、美沙ちゃんの心臓が高鳴るような女の子らしさとも違う。腕の中にすっぽりと収まって、俺自身とひとつになっていくような、どこもひっかからない滑らかさ。触れあう頬が、柔らかさが欠けた俺の胸に足りないものを足すような柔らかな胸が、耳元の寂しさを埋めるような吐息が、俺に欠けているものはこれだと知らせる。自然と腕が真奈美さんを抱きしめる。

 そして、ささやく。

「わたし、なおとくんとエッチなこともしたい」

知ってる。俺も、きっとしたい。

 抱きしめる腕が、この人なのだという確信を伝える。

 俺に欠けているものを埋めるのは、この人なのだと伝える。三島は女の子の勘でそれに気づいていたのだろう。だから美沙ちゃんではなくて、真奈美さんだと言った。

 運命なんて信じていなかったけれど、真奈美さんと出会った幾多の偶然は必然だったのかもしれない。今日、妹も両親も部屋にいなかったのも、今日、寒かったのも。

「真奈美さん」

「すき……です。なおとくん」

こわがりな真奈美さんが、それを口にする。名前を呼んだ俺の声がけっして断らないことを伝えてしまっていたから。

「なおとくんは?今の……今の私なら、好きって言ってくれる?」

「……こわいんだ。真奈美さん」

美沙ちゃんを傷つけるのが、俺が美沙ちゃんと真奈美さんの間のクサビになってしまうのが、妹を妹だけの過去の世界に置き去りにしてしまうのが怖い。

 学校へ行くという恐怖を乗り越えた真奈美さんの勇気があればイエスと言えたかもしれない。だけど、俺はとても臆病で、小心者で、卑怯者で、恐怖に震えてイエスと言えない。誰かの悪者になることが怖くて、悪者にすらなれない。

「わたしお姉ちゃんだよ。お兄ちゃん」

真奈美さんの甘い香りが口の中に広がって、ちゅるりと舌が滑り込んでくる。壁に背中を押しつけられて、ヘたりこむように脱衣所の床に転がる。舌が奥へ奥へと入ってきて、真奈美さんの匂いと味が俺の中に入ってくる。

 真奈美さん。

 真奈美さん。

 恐がりで、強くて、勇敢な真奈美さん。

 料理上手で、優しくて、俺だけを見つめている真奈美さん。

 真奈美さん。

「好きだよ」

一瞬、解放された唇と唇の間から言葉が漏れた。美沙ちゃんに言ったとしても、妹に言ったとしても、三島に言ったとしたってきっと嘘ではなかった言葉。

 だけど、俺が言ったのは真奈美さんにだった。




 夜になって、母親から電話があった。

 妹が入院した。あわてて病院に妹の着替えやタオルを持って向かう。

「なにがあったの?」

タクシーで病院に向かう途中、タクシーの座席の上に体育座りをした真奈美さんがたずねてくる。

「昨日熱を出して、今日病院に連れていったら、なにやら入院させて点滴するんだとかで……」

「昨日…試験だった?」

「そうなんだよ」

おかげで対処が遅れた。大変なことになった。入院沙汰になるとは……。試験なんて受けさせないで、その日のうちに都内の適当な病院に連れていくべきだったかもしれない。責任を感じながら、妹の病室へ向かう。

「おそいっすー」

胸のつぶれそうな思いで病室へ駆け込んだ俺をのんきな声の妹が迎える。

「なんだよ。だいじょうぶじゃねーか」

「どうなってると思ったっすか?」

「全身管だらけで、口から人工呼吸器がささっていると思った」

「それ、危篤っすー」

見ると、いちおうベッドの横の物干し竿みたいのから管が延びて点滴をしている。

「それ、なに?」

「点滴っす」

「点滴はわかる」

「抗生物質と解熱剤らしいっすよ」

とても記憶力のいい妹が、先生の話を丸ごと再生してくれる。どうやらなにかの感染症らしくて、気長に何日か抗生物質を打たなくてはいけないらしい。通院でもいいんだけど念のために一晩入院しましょう、抗生物質というのは扱いに注意が必要な薬だし、ということだった。

 ようするに別に深刻な病気ではない。というか、一発で治す治療法があるが、それを行うのに注意が必要で入院という流れだ。病気は怖くない。むしろ治療に注意という状態である。

「なんだよ。心配させるな」

「心配したっすか?」

「あたりまえだ。お前の変な頭が無理に勉強しすぎてオーバーヒートしたかと思ったぞ」

普通の人間の脳味噌じゃないっぽい妹の脳がオーバーヒートを起こしたら、普通の人間の治療法が効かない気がする。医者も困ってしまうだろう。

 そりゃあもう、心配である。

「じゃあ、食べちゃいけないものとかもないの?」

聞くのは真奈美さん。

「特に止められてないっすね」

「シュークリーム食べる?」

真奈美さんが、持参していた手作りシュークリームを差し出す。もちろん大喜びで受け取る。妹も俺も、母親も。

「激うまっすー。あ、そう言えばっすね。別に病院のご飯ってマズくないっすよ。にーくんも入院をおそれることないっすよ」

真奈美さんのシュークリームと病院食を並べて評価するな。失礼な奴だな。

「なおとくんが入院したら、わたし三食お弁当持ってくる。中身はお医者さんに聞くから大丈夫」

思わぬ力強い言葉をいただいた。

「……にーくん?」

「直人?」

「まなみっちとなにかあったっすか?」

「真奈美ちゃんとなにかあった?」

真奈美さんの真奈美さんらしからぬはっきりとした発言になにかを察してしまった母親と妹が俺を問いつめる。

「えーと……」

言いづらい。なんとかうやむやにできないものだろうか。

「なおとくん、わたしのこと好きって言ってくれたから、つきあうの」

俺の百倍くらい勇敢な真奈美さんが、言いづらいことをさらっと言った。

「あら?まぁ」

母親である。

「なんですとっ!」

妹である。

「二股っすか、にーくん!?」

「それはいけないわよ。直人、だれと?」

「私とっすよ!」

「あら、あんたたちつきあってたの?」

そんなわけないだろ母親よ。なぜあなたの息子と娘がつきあうのだ。聖書のレベルで禁じられておるよ。

「なんで、妹と恋人になるんだ」

「妹で練習とかよくあるんじゃないの?」

うちの母親にギャルゲーをやらせたバカはどこのどいつだ。

「昔、そういうゲームをセガ・サターンでお父さんがやってたわ」

父よ。あなただったか。というか、ギャルゲー好きは父から受け継いだ血であったか。

「妹はDNAレベルで恋愛対象ではないので……」

「……」

「……」

妹がジト目でにらむ。母親が目をそらす。母親と話すにはやや話しづらい話題である。というか、この流れは非常識を妹が母親にしかられる流れではないのだろうか?

「まぁ、その。真奈美さんとつきあうことになったから」

歯切れの悪い物言いで、交際宣言をする。病院のベッドに横たわる妹には間が悪いとしかいいようがない。だが、俺だって予定外だったんだ。恋人になるのに予定なんてあるもんかよ。なぁ。




 真奈美さんと母親と三人で病院を出る。

 真奈美さんが腕を絡めてくる。以前、真奈美さんが引きこもりから脱出し始めた頃、あちこちに進路がぶれるのが危うくて襟だったり腕だったりをつないだことは何度もある。だけど、今は少しどきどきする。

 母親はちらりとこっちを見て、そのままなにも言わずにいる。

「俺、真奈美さん送って帰るから」

つきあい始めた、今は彼女である真奈美さんと母親との三人という微妙な居心地の悪さから脱出する。

 夜になると冷え込みが一段と身体に凍みる。

 つないだ真奈美さんの指も冷えきる。

 その指先を暖めようと手のひらに包んだ。


(つづく)

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