第100話 よいお年を。

 クリスマスが終わると、いよいよ受験本番。センター試験まであと数週間というところまでくる。

 妹は受験生だが、俺は違うのだ。遊ぶぞ……と思ったら、じゃんじゃかメールがやってきた。具体的にはコミケの手伝い要請だ。一日目がみちる先輩。二日目が三島先生。三日目がつばめちゃんの手伝いだ。また三日全日参戦である。俺はコミケ鉄人か?


 一日目、二日目は特筆すべきこともない。普通に……ではないが、みちる先輩と三島先生の手伝いだった。普通じゃないのはコミケなのであたりまえである。あそこに普通な人はいない。全員が変だ。オンリーワンが二日で二十万人いた。そういう意味では、みちる先輩と三島先生がどんなに変わっていても特筆すべきことではない。


 特筆すべきは三日目である。


「お、おは、よ……います」

つばめちゃんのマンションの部屋を真奈美さんとふたりで訪れた。午前5時前のことである。驚け。真奈美さんがコミケに行くぞ。真奈美さんが電車で三時間移動するぞ。

 たしかに最近の真奈美さんはかなりちゃんとしているし、むしろ俺より一足先に社会人ですらあるのだけど不安なものは不安である。

 その不安を隠しつつ俺の荷物を真奈美さんに任せる。俺は玄関で待ち構えていた段ボールの山に車輪がついたものに立ち向かう。ぎしっと音を立てる。最初のころは台車がぶっ壊れるんじゃないかと思ったが、つばめちゃんの見せてくれた説明書に『対荷重二百キログラム』と書いてあったので安心だ。というか、二百キロだと台車は大丈夫でも人間は大丈夫じゃないと思う。どういう使い方を想定して設計しているんだ。プロレスラーとかかな。

「今年は、さわりさんのところに委託してもらったのもあるから、ちょっと軽いの」

コミケ仕様のナチュラルメイクでつばめちゃんが笑う。今年で三十三歳独身だが、キュートさに衰えが見えない。焦りも見えない。焦った方がいいと思えないのは、俺の自分勝手。コミケに行って、終わって、だらけた格好でつばめちゃんと……今年は真奈美さんも含めて……いっしょにこの部屋でピザを食べる。そんなことができるのも、つばめちゃんが独身の間だけだろうから。


「真奈美さん、大丈夫?」


 駅への道でも不安が先にたつ。一週間前にコミケの手伝いに行くと真奈美さんが言い出した時に真っ先に感じたのは不安だった。トイレ大行列のコミケにおもらしクイーン真奈美さんである。不安倍増の組み合わせである。コミケでおもらしは必ず報告される事象と聞いている。つまり真奈美さんでなくてもアウトってしまう人がいるのである。

 正直に言うと、真剣に大人用おむつの着用を勧めるか検討したほどだ。というか、今でも着用させるべきだったんじゃないかと思っている。実は俺もまた着用するべきなのではないかと思っている。コミケのトイレ事情はどうしようもないキャパシティオーバーだし、冬でも水分補給を怠ると健康上のリスクになる。冬くらい着込んでいれば大人用おむつを着用していても外からはわからない。おもらしをしてしまったときの恥ずかしさはその比ではない。


 冷静に考えるとやはり着用してくるべきだったと思うが、おむつ着用の精神的なハードルの高さは相当なものである。そんなわけで、丸腰で戦場へとむかっている。

 

 電車を乗り継ぎ、そこそこ会場に近づいたところでタクシーに乗る。エロ同人誌の重みでタクシーのリアサスペンションを沈み込ませて会場へ向かう。

 会場間際はとても停められないので、その手前からサークル参加者の行列に合流。入場。

 つばめちゃんのマンションから三時間ちょっとかけて、スペースに到着。


「あ、ここだわ。よろしくおねがいしまーす」

「……し…す」


 まずは左右にご挨拶。顎までとどく真奈美さんヘアスタイルにも引くことなく、にっこりとあいさつが返ってくる。コミケは変わった人に寛容である。

 真奈美さんのリュックをおろすのを手伝う。つばめちゃんのトートバッグも預かる。

 真奈美さんとつばめちゃんが机の上に配布されたチラシの整理をしている間に、荷物を開封する。折りたたみ椅子を広げる。

 トートバッグの中からテーブルクロスを真奈美さんに渡す。机の上に広げたところに、つばめちゃんと段ボールからどんどん本を出して机に積み上げる。

 あいかわらず乗り切らない。

「つばめちゃん。全種類持ってくるのやめよう。余計に売れないと思う」

「だって、昔のも読んでほしいもの」

「そっか……」


 値札を両面テープで留めて設営完了。


 すっかり手慣れたものである。同人イベントに参加したことのない人には、ここまでの一段落がスペースに到着してからの手順書になっているのでプリントアウトして持って行ってもいいぞ。

 つばめちゃんがむふーっと鼻息を吹いてから、デジカメで設営完了したブースの写真を撮る。

「ふたりも撮ってあげるわ。ならんでならんで!」

 つばめちゃん、変なテンションになってる。三時間もかけて東京まで来ているのだ小旅行ではある。

 ブースの内側に真奈美さんとふたりで立って写真を撮ってもらう。

 いつか二人の思い出の写真になるのだろうか。デジカメの液晶で見せてもらうと、思ったよりも照れた顔の自分と背中を丸めて、俺のコートの袖をつまんでいる真奈美さんが写っていた。前に並ぶのはオークにエルフが凌辱されるエロ同人誌である。しかもスペースにみっちりである。

 二人の思い出の写真になるのだ。たぶん。

「今のうちにトイレ行ってくるわ。なおくん、よろしくね」

つばめちゃんが真奈美さんを連れてトイレへ向かう。

 パイプ椅子にエアクッションを置いて、ひざ掛けをかけて、持参したサーモスからあたたかいほうじ茶を飲む。なかなかに快適。

 この数年でコミケサークル参加の楽しみ方がわかってきた。

 ざわざわとした会場の様子をなんとなく眺める。

「思ったより、混んでいなかったわー」

「ただいま」

つばめちゃんと真奈美さんが戻ってきた。席を二人に譲って、今度は俺がトイレに行く。


 トイレの列で並んでいる間に、開催のアナウンス。そして拍手。


 どうせ開場してしまったし……と思って、トイレを済ませたあとはスペースに戻らず、そのまま先に買い物をすることにする。なんといっても去年からは十八歳になったのである。三日目がエキサイティングなのである。


 一時間後。

「ただいまー」

スペースに戻る。

「ずいぶん買ったのね」

「いや、今回はつい……」

つい、というか当たり年であった。夏前に放送されていたアニメの二次創作が軽くブームになっていたらしく、どこを見ても見逃せなかったのだ。結果、両手にエロ同人誌を抱えての帰還になった。今「ずいぶん買ったのね」と言ったのが、高校時代の恩師で高校時代男子生徒に圧倒的な支持のあった美人さんだが、この人もエロ同人誌を描いているので裏返しの裏返しで表に返って背徳感はない。

「真奈美さんも買い物連れて行ってあげればよかったのに」

「ああ……じゃあ、もう一回行ってこようかな?」

言われてみて、思い出した……。いや、ちょっと待て。

「つばめちゃん、ちょっと待って」

「なぁに?」

同い年の女の子を連れて、エロ同人誌を買いまくるのはどうなんだ?……と言いかけて、そういえばつばめちゃんは買うどころか描いているなと思う。

「真奈美さん、行こう」

「うん」

真奈美さんを連れての二周目。

 太平洋にはエロマンガ島というのがあるそうだが、東京湾にもエロマンガ島がある。こっちは「島」とかいて「しま」だ。コミケ全日参加の俺ほどのレベルになると本当に面白いものは島中にあるのじゃとか言い始める。そんなことない。壁サークルになる人たちにはそれなりの理由がある。やっぱり壁サークルの漫画は面白い。

 だが、同時に壁サークルの本は秋葉原でも買える。それとなぜかはわからないが、島中サークルの本は一周目で見落としていて、二周目で気づくこともある。

 そらみろ。みごとなお姉ちゃん本があるぞ。

 パラパラと立ち読みすると、絵は多少つたないがヤンデレ気味のお姉ちゃんが弟を溺愛しまくる漫画だった。

 買った。

 三次元では自然とお兄ちゃんポジションになることの多い俺だ。マンガは自然とおねショタが多くなる。

 しばらく歩くと、袖に抵抗を感じた。袖をつまんだ真奈美さんが立ち止まっている。

 ほほぉ。目が高い。

 真奈美さんが足を止めていたのは、漫画ではなくてイラスト集。島としてはエロマンガ島だが、イラスト集は特にエロということもないらしい。水彩っぽい色合いのイラスト集だ。全編、なぜか水着姿でジャングルを探索しているイラストだ。相当にピンポイントだが不思議な魅力がある。

「……あ、あの……、こ、ここここ、これ」

「あ、ありがとうございまーす」

 真奈美さん、お買い上げ。

 俺も欲しいところだが、本日の予算は使い切ってしまった。年明けにゲームも買う予定がある。ここはぐっとこらえる。

 その調子で、ぐるぐると会場を巡る。ときおり、真奈美さんが立ち止まって同人誌を買う。本好きの真奈美さんだけあって、さすがに目が高いなと思うチョイスを見せる。意外な能力だ。そのうち神保町の古本屋でも一緒に巡るのも楽しそうだなと思う。

 ときおり、コスプレ姿の人たちとすれ違うのもコミケの楽しみ方だ。

 真奈美さんも一緒にアニメから抜け出してきたみたいなコスプレイヤーさんを目で追う。

「真奈美さんもコスプレやってみる?」

ふるふるふるふる。

 やらないのか……。真奈美さんなら、すっぴんですごいのできるぞ。顔さえ出せば。

 とはいえ、注目を浴びるとか絶対無理なのでやらないほうがいいね。


 気が付くと一時間以上会場内をうろちょろしていた。


「ごめん、遅くなっちゃった」

スペースに戻って、つばめちゃんと交代する。

俺が、前列。真奈美さんが後列に座る。

 つばめちゃんのスペースはのんびりスペース。みちる先輩のサークルほどではないが、そうそう売れるものでもない。ときどき思い出したように一冊二冊と売れていく。ざわざわという単調な背景音が眠気を誘う。

 気が付くと、後ろで真奈美さんが居眠りをしていた。早起きだったからな。それに、意外とコミケ会場は真奈美さんには安心できるところだったのかもしれない。もっと早く連れてくればよかった。ここでは、真奈美さんがジャージ姿で顔を全部髪で隠していても誰も珍しがったりしない。周り中が変人だらけだからだ。真奈美さんの好きな本だらけでもある。真奈美さんをいじめる連中はいないのだ。

 そう思うと、俺も眠くなってきた。でも、店番がある。頑張って目を覚ましていないと……。禁断の缶コーヒーを開ける。なぜ禁断かというと、カフェインには利尿作用があり、ここはコミケ会場だからだ。


 いつも通りの拍手でコミケが終わる。

 復路も台車と俺の限界に挑戦する重量の段ボールを積み上げて、ロープで縛って注意深く引きながら帰る。


「次は夏ですね」

「そうね」

夏と冬の間よりも冬と夏の間の方が長い。終わったばかりなのに、もう夏が楽しみになってきている。

「真奈美さん、夏も来る?」

「……ん……す、すごく楽しかった」

前髪の隙間からのぞくとび色の瞳がほんの少し細められる。


 一緒に来れてよかった。


 また来年。

 よいお年を……。


 そのあとの打ち上げでほろ酔い加減になったつばめちゃんにそう告げて、二人でマンションを出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る