大学生編

第82話 大学新生活

 四月がやってきた。


 大学って、なにを着ていけばいいんだ?入学式の日に目を覚まして、最初に困ったのがそれだ。制服以外で学校に行くなんて小学校卒業以来やったことがない。


 まぁ、朝食を食べてから考えよう。


 そう思ってパジャマのまま階段を降りる。


「あれ?」


テーブルに、オリーブオイルで軽く焼いたトマト、スクランブルエッグ、カリカリのベーコン、トースト、オレンジジュース、紅茶、サラダが並ぶ。


 もちろん、このおしゃれかつ美味しそうな朝食は真奈美さんの仕業だ。台所で料理に使った道具を洗っている真奈美さんを見つける。母親はソファに座って優雅にティータイムだ。


「お兄さんの分は、私が作りましたから」


美沙ちゃんだ。


 今朝も超かわいい。


 真奈美さんが作ったと思われるスクランブルエッグの半熟具合に比べると、若干焼きすぎに見えるスクランブルエッグが美沙ちゃん作だろう。純粋な出来は真奈美さんに及ぶべくもないが、美沙ちゃんが俺のためにつくってくれたかと思うと補正がかかる。なにより真奈美さんを料理で超えたら、美食倶楽部が放っておかないし、美沙ちゃんだったら美人過ぎるシェフとか言って、あっという間にマスコミに祭り上げられて芸能界の暗部が美沙ちゃんに……ダメだ!暗い連想が繋がった。美沙ちゃんのスクランブルエッグは焦げてていい。焦げてていいんだ!


「いただきます」


席について、朝食をいただく。美沙ちゃんが俺のために早く家に来て、朝食を作ってくれているとか、幸せすぎる。


「それ、着てくれているんですね」


「う、うん……」


それ、とはもちろん俺の着ているパジャマのことだ。美沙ちゃんの誕生日に一緒に出かけて、俺が美沙ちゃんにパジャマを買って、同じものを美沙ちゃんが俺にプレゼントしてくれたのだ。


「私も着てますよ。毎晩」


そう言って、美沙ちゃんがほんの少しうつむき気味に微笑む。ほわっと耳が赤くなる。


 俺も照れる。


 俺は、美沙ちゃんがプレゼントしてくれた美沙ちゃんと同じデザインのパジャマで毎晩寝ているのだ。美沙ちゃんが、俺と同じデザインのパジャマで毎晩寝ているのだ。


 これが、照れずにいられるだろうか……。


 遠隔バカップルである。下手したら直接的にいちゃつくよりバカップルだ。


「美沙っち。にーくんはここでは言えないようなことを美沙っちを想像しながらしてるっすよ」


妹が悪魔だ。


「いーよ。私もしてるもんっ」


ふんがーっ!


 美沙ちゃんが小悪魔だ。一秒の台詞で俺の大興奮が有頂天で大暴走だ。


 ふごー。ふごー。ふごー。


「にーくんのキモさが止まらないっす」


くそぉ。ずるい。


 同じことを美沙ちゃんがしていると言ったのに、俺だけキモ扱いだ。神様は不公平だ。


 知ってた。可愛いは正義なのだ。


 そして美しいは罪。だから、素顔を見せたときの真奈美さんは罪なのだ。真奈美さんと面と向かう女子に、否応なしに自分の不出来な部分を思い知らせる罪だ。だからといって真奈美さんが、生まれながらの美しさという罪で罰を受けるのは不公平だ。神様は思いのほか全能でも全知でもない。


 だから人が埋め合わせるのだ。神様が特別に手をかけて可愛く作った美沙ちゃんは正義。神様が特別に美しく作った真奈美さんは罪。そして俺はその他大勢。型押しの金型で、ばこんばこんと大量生産された凡人。


 凡人には凡人の物語がある。それが美沙ちゃんとの恋物語なのか、真奈美さんとのヒューマンドラマなのかはまだわからないけれども。


「そうだ。大学の入学式ってなにを着ていけばいいのかな?」


他人の娘さんに家事を任せ、ソファで優雅に紅茶を楽しんでいる母親に聞いてみる。


「ばかね。スーツにきまっているでしょう。買ってあげたでしょ」


そうだった。買ってもらったんだった。


 なるほど、とりあえず今日はまだ着るものに悩まなくていい。


◆◆◆◆


「正直、似合ってないですね」


「七五三みたいっす」


「……」


美沙ちゃん、妹、真奈美さんに言われるまでもなくわかっている。スーツなんて似合わない。なんだか脚もスースーするし、カバンのハーネスのところでスーツがよれて変になる。


 バス停に向かう。昨日までは四人で駅に向かっていたが、今日からは俺だけが、駅前のバスロータリーからバスだ。妹と美沙ちゃんは改札をくぐって高校へと向かう。


 真奈美さんは、そのままバスのロータリーで俺と一緒にバスを待つ。


 今日もまだジャージを着ているな。


 高校卒業してから、どのくらい高校のジャージを着ていていいんだろう。実は高校生じゃないんだから、これはコスプレに分類されるんじゃないだろうか。いつかジャージに変わる新コスチュームを考えよう。アニメならオープニングが変わるタイミングだ。


 そんなことを考えているところにバスがやってくる。これに乗って、山のほうに十五分ほど進めば大学。大学は、山の中にあるものが多いよね。


「んじゃ、行って来る」


「いってらっしゃい」


バスの作った風で真奈美さんの前髪がふわりと揺れて、一瞬セルロイド人形の顔が見える。綺麗な顔。罪作りな顔。


 目が合って一瞬だけ、なんだか新婚夫婦みたいなやりとりだと思う。


 次の瞬間に、微かに美沙ちゃんへ罪悪感を感じる。


「おにいちゃん」


その罪悪感を読み取ったのか、真奈美さんが魔法の言葉を付け加える。


 いってらっしゃい。お兄ちゃん。




 俺は、真奈美さんのお兄ちゃん。


 美沙ちゃんとどうなっても、お兄ちゃんはお兄ちゃん。真奈美さんのトリックでマジックな呪文。




 圧搾空気の音とともにバスの扉が閉じて窓の向こうの真奈美さんが遠ざかる。ディーゼルエンジンの大げさな音を聞きながら、二百円分バスに乗る。降りた先は、見慣れぬ場所。大学のキャンパス。今日から、俺の母校。


 迎えてくれるのはサークルの勧誘。


 ベニア板で作られたサークルの立て看板。入学式が学園祭みたいだ。俺と同じ着慣れないスーツを着た新入生たちの流れをガイドにして、入学式の会場に向かう。そこは、でかい講堂で高校の始業式をイメージしていた俺は面食らう。講堂の席に適当に座る。お芝居でも見るみたいだが入学式だ。


 うちの高校から来ているのは俺だけだと聞いた。地元の大学なのにな。偏差値が微妙な高さだから、この大学に入れるならもっと都心の私学でも合格する。そっちに行った連中も多いのだろう。


 それにしても。


 この講堂の椅子、座り心地いいな。


 なんだか眠くなってきた……。


「あの……。入学式終わったよ」


「んあ……ああっ!?す、すみません!」


入学式、ガン寝してた。いつの間にか隣に座っていた女性に起こされる。


「大物すぎ」


くすくすと笑われる。丸っこくて背の低い人だ。美人ではないが、人懐っこい笑顔が警戒心を緩ませてくれる。


「……まぁな」


そう。俺は凡人の王だ。なんといっても天使に好かれる凡人だ。


「なに学部?」


「工学部」


「なるほど。理系っぽい。私は文学部」


「ふーん」


「興味なさげだね」


「まぁ、今のところは他人事」


「他人事じゃなくなるかもしれないの?」


「そんな先のことはわからない」


なにせ真奈美さんのことだって、同じ学校にいて一年以上存在すら知らなかったんだ。いつ誰とどんな縁が結ばれるかわかったものじゃない。


 流れで、二人で並んで講堂を出る。


 講堂を出ると、いくつかある教室で学科ごとのガイダンスがあるとの案内が矢印つきで表示されていた。


「文学部はあっちみたいだな」


「工学部はすぐだね」


「じゃあな」


「名前は?」


そう言われて、ようやく自己紹介の機会を得る。


「二宮直人」


「え?」


「何だよ?驚くような名前か?」


ごくごく普通な名前を言って、驚かれた。


「あ。いや、なんでもないの。私の名前が三宮直子だから」


「ああ。そりゃ、奇遇だな」


「運命っぽい?」


「ぜんぜん」


「理系め」


「もう少し変わった名前同士だったら、少しは運命を感じるよ」


「そうね。それじゃあ。またね」


「じゃあな」


三宮さんと別れて、ぶらぶらと講義棟の階段を上がり、指定された二階の教室に入る。入り口でコピーされた案内をもらう。適当に後方に席を陣取って案内を読む。講義の時間割と履修登録の仕方、テキストが決まっているものは購買部に注文書を出して買うことなどが書いてある。


 なんだろうね。この緩さというか自己責任っぷりは。


 自分で受ける授業を登録するとか、高校生のころと比べるとえらい違いだ。自分で卒業要件を計算して、ちゃんと計画を立てろということか……。


 学生証が送られては来ていたんだけど、ここまで一度も見せていない。履修登録できないだけで、実は大学に合格してなくても普通に授業とか受けられるんじゃないかな。今度真奈美さんとか連れてきちゃおうかな。


 いや。真奈美さんは目立つな。


 前髪をどけていても、どけていなくても目立つ。


 ぼんやりしていると、大学の事務員みたいな人が教壇に立って配られた案内の中身の説明をしている。いかんいかん。集中しよう。聞いていませんでしたじゃすまなさそうだ。


 履修登録の締め切りとか、事務局の開いている時間帯とかをメモする。


 ついでに大学とも学生とも関係ないサークルが勧誘してたりもするから注意しろとも言われる。あやしい宗教みたいのとかのことだ。


 門くらい閉めておけよ、と思うが高校と違って学生も適当な時間に登校するのだ。門を閉めてもおけないんだな。これは、ますます真奈美さんをつれて来れそうだと思う。


「……いかんな」


口の中だけでつぶやく。


 つばめちゃんに指摘されたとおりだ。


 真奈美さんに付き添っているようでいて、いつの間にか真奈美さんがそばにいなくて落ち着かなくなっているのは俺のほうだった。俺が真奈美さん離れできなくなっている。


 別のことを考えよう。


 サークル。なに入ろう。


 大学のサークルとか言うと、間違ったところに入るとはヤリまくりのビッチビチという印象がある。ただれた生活は健康によくない。夜、不眠に悩まされたり(美沙ちゃんに襲われて)、四六時中携帯電話が気になって神経症になったり(美沙ちゃんが三分ごとにメールしてきて)、場合によっては命を落とすかもしれない。


 ビッチビチのサークルはだめだ。


 じゃあ、なんのサークルに入ろう。それより俺って趣味は何だろう?


 ゲームも本も漫画も好きだけど、いわゆるオタクとは違う気がする。いまひとつ、あのノリにはついていけない。でも、つばめちゃんの手伝いで毎回コミケにはサークル参加しているのか。


 ……十分にオタクかもしれない。


 エロゲもエロ漫画も好きだしな。


 オタクか?


 いや。ちがう。今の俺はリア充なはずだ。その気になれば、美沙ちゃんとつきあえるのだ。超エンジェリック・リア充・ドリームウェーブに乗って、アルティメットなラブサーフを決められるはずなんだ。


 ……。


 妹のバカが感染したかもしれない……。


 カバンの中で携帯電話が震える。開いてみると、妹からメールだった。


《巨乳女子大生いるっすか?》


ばかだろ。あいつ。いまさらだけど。


 そう思いつつ、きょろきょろと教室内を見渡してしまう。この教室、男子率高いな。工学部だしな。ってか、まさか工学部だけにいるとこの男子率で四年間過ごすのか。潤いなさすぎるぞ。


 サークルに入ろうと心に誓う。


 巨乳。巨乳。


 …いた。


 窓の近くに着慣れないスーツを着た女の子がいる。スーツ姿だから分かりにくいが、俺には分かる。けっこうデカい。


 まんまと妹のメールにライドして巨乳ちゃんをさがしてしまった。


 なんだか負けた気分。


《いた。Eくらいはありそう》


負けを大人しく認めて、メールを返す。すぐに返信が返ってくる。


《美沙っちが、隣で怒ってるっすよ》


なんてことしやがる。本当に悪魔だ。


「それじゃあ以上です」


教壇に立っていた事務員が淡々と告げる。


 巨乳ちゃんを探したり、妹とメールのやりとりをしたり美沙ちゃんの逆鱗に触れて命を危険にさらしたりしている間にガイダンスが終わった。礼も解散もないと、区切れ目がなくて拍子抜けだ。小学校一年生のころから、調教されてきてすっかり条件反射である。というか、あの『きりーつ、きおーつけー、れいー』ってのは、なんのためにやっていたんだろうな。高校を卒業したら、一生やらないぞ。あれ。


 だらだらと、予備校みたいな机と椅子の合体した席を立って外に出る。


 腹が減った。


 キャンパスをうろちょろしてみたい気もするが、着慣れないスーツで落ち着かないし、帰っちゃうことにしよう。ばらばらに教室を出る新入生たちの中には、早くもスーツ姿同士で数人のグループを作っている連中もいる。同じ高校から……ってことは、あまりなさそうだよな。あいつらちょっとコミュ力ありすぎじゃないか。それとも、俺がなさすぎなのか。そんなことないよな。少なくとも、これまでいた高校での俺のコミュ力偏差値は五十くらいだったはずだ。平均値よりは高いはずだ。平均値を出すと真奈美さんが入るから、不当に低い値が算出される。


 そんなことを考えながらキャンパスをぶらぶらと横切る。なるほどサークルの勧誘部隊がかしましい。


「うほっ!いい二宮くん!」


「なにやつ!?」


突然、名前を不穏な調子で呼ばれて反応が戦国武将になった。


 振り返って、とてつもなく嫌な表情を浮かべてしまった。やばい。なんで、この人がここにいるんだ。とっさに人違いのフリを出来なかった自分の不覚を呪う。


「うほぉー。やっぱ、二宮くんだー」


「えっ。三島先輩の知り合いなんですか?」


ジーンズにタートルネックセーターという女子力低目の格好で、同じく女子力低目の女子大生を引き連れてやってくるのは一度だけ会ったことのある三島の姉ちゃんだ。


 忘れもしない。


 職業BL作家で、ジャンボフランクを咥えている俺の写メなどを作画資料にしてBL漫画を上梓した人だ。普通に全国の書店で売られるやつだ。ひどい。


「ほらほら、この顔。なんとなくわかんない?」


「えー。あっ。もしかして!」


「違います!人違いです!」


俺は、そう吐き捨てて百八十度回頭。全速で逃げる。


「あっ!逃げるな!」


くっそ、つかまってたまるか!


 階段を三段飛ばしで駆け下りる。


 女子率の低い工学部において、女子率の高そうなサークルに入るのは楽しいキャンパスライフにおいて重要だが、あのサークルは女子率が高くてもダメだ!


 だいたい、なんで『もしかして』とかなっちゃんてんだ。あの人、俺をモデルにしたBL漫画をしっかりここの学生に読ませてんじゃねーか。しかも本人を目の前にすると、読者が理解できるほどの画力でだ。実害の出てるタイプの名誉毀損である。


「待ってってば!」


うおおっ!?


 後ろを振り返ると、三島(姉)が追いすがってきていた。運動不足のカタマリみたいな人のくせにどうして足だけ速いんだ!?


 そうか。三島の姉だからか。


 くっそ、姉妹そろって遺伝子無駄遣いしてんじゃない。勝手に女子陸上界の至宝にでもなってろ!BL漫画なんて描いてるな!


「待てこらっ!」


ぐえっ。


 カバンのハーネスを掴まれて、捕獲される。


 だめだ。食われる。ヴェロキラプトル(姉)に食われる。


◆◆◆◆


 三分後。


 俺は、サークル棟にいた。


 女性率の高いサークル室に監禁されている。化粧品の甘ったるい匂いと腐臭が満ちている。六畳ほどの広さのサークル室にいるのは、俺と三島のお姉さん。それと、一緒に新入生の勧誘をしていた三人ほどの腐った死体……じゃなくて、腐った女子たちだ。さすがは女子大生、薄化粧も上手で縦セタがエロい人もいる。腐っても女子大生である。タートルネックにジーンズの三島(姉)は、ずば抜けて女子力が低いがそれでもうっすらとルージュくらいはひいている。もう一人、三島(姉)よりも女子力の低いオーバーオールにトレーナー姿で猫背の女性がいるが、俺が拉致されてきても机から顔も上げずに壁に向けられた机の上でせっせとなにか書きものをしている。


 それにしても居心地が悪い。女子大生に囲まれる状況というのは、おっさんなら有料になってしまう状況だが俺はうれしくない。


「あのー。今日のところは、帰っちゃだめでしょうか?」


逃げたい。


「スーツ!スーツ!」


「着慣れてないのもいい!」


「ショタっぽい!」


「受けっぽい!」


だめだ。日本語が通じていない。俺は早くこの着慣れていないスーツを脱ぎたいのだけど、許してもらえない。とりあえず、ネクタイだけなんとかしよう。息苦しい。


「きゃーっ」


ネクタイを緩めるのも腐った目にはなにかに見えているようだが、もうどうにでもなれという気分だ。この先輩方の目には俺はホモに見えているのだ。ホモが好きな女の子ってどういう心理なの?


「実は探してたんだよねー。二宮くんが私の後輩になるって由香里が言うからさー」


三島(姉)が俺にお茶を淹れてくれながら言う。


「三島が?」


「由香里、かわいいからなー。甘酸っぱくて、お姉さんとしてはハァハァしちゃうよ」


俺の知っている限り、あんたは常にはぁはぁしている。


「ぐひひ。二宮くんをネクタイで縛って、ダンディなオジサマに襲われているところを漫画にしたい。それで由香里に読ませたい!」


俺は三島を信じてる。


「それやったら、あいつお姉さんを蹴り飛ばすと思います」


「きゃーっ!」


周囲の女子大生たちが沸く。なにか、萌えるところだっただろうか?


「んもーっ!なんで三島先輩の妹さん、弟さんじゃないんですか!?」


なんで弟さんじゃないって、そりゃあ妹さんだからだよ。脳みそまで腐ってるだろ、君ら。


「ってか、お姉さん!ここの大学生だったんですか?」


「ちがうわよ」


「ちがうのに、なんで大学にいるんです!?」


「卒業生だからよ」


なにを言っているの?と言わんばかりの表情を浮かべて三島(姉)が首を傾げる。


 大学のサークルって、そういうものなの?卒業しても来ていいの?このサークル棟って一応大学の建物だよね。この人、実は不審者なんじゃないの?


「で、二宮くん、漫画研究会入るでしょ」


お茶を淹れてくれた三島(姉)が隣に座る。三島と似ているような似ていないような。薄いピンク色のルージュを引いた唇が気になる。三島のお姉さんだと思うと唇が気になるのは、やっぱり三島とキスをしたからなのか。それとも三島以外とキスをしたことがないからなのか。


「ここ以外ってことは決めました」


「いやなの?漫画とか好きだって聞いたけど?」


漫画は好きだが、この状況で嫌じゃないわけがない。このままでは腐った女子たちの半ナマ妄想の餌食だ。ちなみに、半ナマという言葉は佐々木つばめちゃんから教えてもらった。BL好き女子が現実の芸能人や特撮ヒーローのイケメンなどを、妄想の対象として見ることを「半ナマ」と呼ぶらしい。わが出身校の現代国語教師は優秀なので、最新単語もきっちり教えてくれていたのだ。授業中じゃなかったけど。


「まぁ、漫画は好きなんですけど」


「じゃあ、入ろう」


「いや。やめておきます」


「なんで?」


「特に、理由はないですけど」


「今度、由香里も連れてくるよ?」


「……え…」


「あ……まずかった?」


しまった。変な間を作ってしまった。


「まずく…ないですけど三島、東京の大学ですよね。行ったの」


「そうだけど、週末には帰ってくるし」


「あいつ、一人暮らし?」


「知らなかった?」


「知りませんでした」


「ふーん。家ではあんなに二宮くんに遊びに来るように言おうかどうしようかって悩んでいたのに、結局教えなかったんだ。あの子。ぐひひ。ゆかりん、激萌え。たまらん」


俺のホモを妄想するより三島(姉)と三島の百合姉妹を妄想すべきだよな。ここは。


「ねーねー。二宮くん。三島先輩の妹さんと、どんな関係だったの?ねーねー」


三島(姉)の余計な情報漏えいによって周りの腐った女子たちが、ノーマル女子モードにトランスフォームしてヤジウマ恋バナに鼻息を荒くする。どっちのモードも漏れなくウザい。


 三島と、どんな関係って……。


 ………………。


 うぐっ。


 三島とのあれこれを思い出すと、みぞおちがきゅーっと来る。俺、由香里のことを思うと胸が締め付けられるんだ……。ウソだ。普通に胃痛だ。胃酸過多だ。


 このストレスフルな環境から、なんとか逃げ出したい。


 そう思って、逃げるタイミングを探していると壁に向かって書きものをしていた人が荷物を片付けて立ち上がった。


「バスの時間なんで、帰ります」


黒い女子力ゼロのバッグを斜めにかける。意外と胸はあるな。推定Cカップがパイスラッシュ状態だ。まぁ、オーバーオールの上からだけど。


「新入生もバスで街に降りるなら一緒に来たほうがいいよ。この時間帯、一時間に二本しかないから」


「あ、そうっすか。じゃあ、そうします。失礼します。お茶、ご馳走様でした!」


そう言いいながら、ノータイムで立ち上がる。


 脱出成功。


◆◆◆◆


 思わぬ救いの手を差し伸べてくれ先輩の後に続いて、サークル棟の廊下を歩く。


「あ、あの。ありがとうございました」


「……いや。ウザかったから」


なるほど、騒がしくされて書きものに集中できなくしてしまったか。それは、申し訳ないことをした。


「あ。すみませんでした」


「キミじゃなくて……」


それっきり、黙ってバス停まで並んで歩く。寡黙な人だ。


「あ、あの……俺、二宮直人って言います。お名前は?」


「知ってどうするの?サークル入んないんでしょ」


この人、若干コミュ力に問題ないかしらん。


「まぁ、そうっすね」


 それっきり、また黙る。バス停につくと、学生がけっこう溜まっていた。なるほど、この時間は三十分に一本しかないというのは、本当みたいだ。席に座れずバスの中ほどに立つことになる。つり革につかまる。謎の先輩は、背丈の問題でシートの背についている持ち手につかまる。


 距離、三十センチ。バスは信号と交通渋滞にはまりながら、じわじわと進んでいく。下り坂の勢いを借りた自転車がバスを抜いていく。なにげに自転車で通うのもありかなと思う。川の下に沈んだ自転車を思う。惜しいことしたな。自転車欲しい。


 距離三十センチの位置の謎の先輩は、なにを考えているのかスマホをいじりもせず、音楽プレイヤーで音楽を聴くでもなく、ただ押し黙って立っている。


 一言も話さないまま、バスを降りる。


「……キミは」


そこで、話しかけてくる。


「はい」


「コミケとか行くの?」


「手伝いで荷物運んだり、売り子したり」


「ふーん……描いたりは」


「俺はしないです」


「そっか。じゃあね」


そう言って、謎の先輩は駅の改札に消えていく。俺は自宅へと向かう。


 大学って、高校までとはずいぶん違うところだな。


 正直な俺の第一印象だった。なにもかもが自由すぎる。クラス分けもないから、一緒に授業を受けるやつらの名前も知らないで終わりそうだ。同時にもう卒業した先輩とも仲良くなるかもしれない。三島(姉)と仲良くなりたいわけではないが……。


 なにもかもが自由だ。四年間、いろんな人と知り合いになるのも、ずっとぼっちでいるのも自由だ。真奈美さんも大学なら、ひたすら講義を受けて卒業できそうな気がする。誰とも交流もしなさそうだけど。


 また、俺は真奈美さんのことを考えている。真奈美さん依存症は俺の方だ。


「ただいまー」


家の中がシンとしている。


 どうやら母親はパートに出かけたみたいだ。妹は、まだ高校から帰っていないのだろう。ダイニングの食卓の上に書置きがある。




《冷蔵庫の中に真奈美ちゃんの作ってくれたおやつが入っています。一人一個まで。直人の分も残しておきなさい》




 妹が豪快なつまみ食いを警戒されている。




 冷蔵庫を開けると、ガラスの器に入ったゼリーが入っていた。一言でゼリーとか言ってはいけない。一番下に鮮やかな紫のゼリー、その上に薄い白いババロアの層。その上にオレンジ色のゼリーが乗った上に、透明なゼリーを砕いたもレイヤーと生クリームが乗っていて、薄切りにしたオレンジとメロンが添えられている。オレンジは砂糖をまぶして、表面を水あめで薄く固めてあるみたいだ。


 ゼリーを持って、ソファに座る。


 テレビをつけようとして、平日のこの時間ではロクな番組をやっていないことに気がつく。日曜日なら、なんでも鑑定団があるんだけどな。いまやテレビで面白いのは深夜アニメとなんでも鑑定団だけである。


 テレビを諦めて、静かな居間でゼリーにスプーンを突っ込む。


 うんまぁー。


 ふわりとした生クリームの甘みに負けないように、酸味の強めなゼリーが組み合わさっている。添えられたオレンジは、極限まで薄い水飴のコーティングがパリッと軽い歯ごたえで砕ける。その下のババロアと紫色のブルーベリーゼリーも、絶妙なバランスだ。


 真奈美さんは、ストレートにニート生活に突入しているので、早くお店を出すといい。


 銀行にコレを持っていって、お店を出す資金の融資をお願いしたら、審査が通りやすくなると思うよ。


 パティシエ・マナミ・イチノセは、お店の奥から出てこないで接客は美沙ちゃんが担当すれば完璧。大繁盛間違いなし。帝国ホテルのシェフがスパイに来て、泣きながら帰っていくはずだ。帝国ホテルのご飯なんて食べたことないけどさ。




 真奈美さん。


 どうするのかな?


 まさか、この調子でかいがいしくうちに通って本当に俺のメイドになるつもりじゃないだろうな。給料とか払えないからな。


 あ。


 俺、バイトとか探したほうがいいんだろうか。大学生になってまで、親のスネばかりかじってもいられない気もするし、大学生の遊び方ってお金も必要そうな気もする。


 バイトか……。




(つづく)

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