第81話 世界の変わる日

「なおとくん。どうしたの?」


真奈美さんの部屋で、借りた本を読んでいると真奈美さんが顔を覗き込んできた。真奈美さんは、例によってノートにちまちまと余白を一つも残さずに細部まで描きこんだ絵を描いていたところだ。


「あのさ……」


今の真奈美さんは、とても安定している。今日は特にリラックスしている。話す声にも緊張感はない。どもりもしない。最近になって、真奈美さんは俺と家族には比較的リラックスしながら接するようになった。今なら、多少聞きづらいことでも聞けるかもしれない。真奈美さんに聞きたいことはたくさんある。


 聞こうか、よけいな詮索はしないほうがいいかと悩んでいたのが顔に出てしまったんだろう。


 どうしよう。


 聞いちゃおうかな。


「真奈美さんさ」


「うん」


「中学生のころって、どんなだったの?」


真奈美さんが、俺の腿に頭を乗せたまま小首を傾げる。


「おぼえてない」


「覚えてない?」


「うん。小学校のころは、覚えているけど」


「あ。ごめん」


「ううん。いいよ」


そう言って、真奈美さんはまた俺の投げ出した足に上半身を乗せて、床に広げたノートをちまちまとした絵で埋める作業に入る。


 そのまま、また元に戻る。本棚だけがやけに充実した真奈美さんの部屋で、本を借りて読む。傍らで……というか、やや重なり気味に真奈美さんがちまちまとノートに絵を描く。(重なり具合は、バナナワニ園のワニを想像してもらうと分かるぞ。)


 それで、また俺も借りた本に戻る。なんだか、病院の待合室とかで時間を潰しているみたいな時間だ。ほぼなにもしていない時間。


 一昨年までの俺なら、退屈だと言って三十分も大人しくしていられなかったであろう。そのくらいゆっくりと時間が流れる。今は、このなにもしていない時間がとても心地良い。真奈美さんにのしかかられた脚がしびれてきた。静かに真奈美さんの下から脚を引き抜く。


 ティーポットから、紅茶を注ぎなおす。少し冷めているが、茶葉は引き上げてあるから渋くなったりはしていない。真奈美さん紅茶。おいしい。


 ぐるりと部屋を見渡す。


 本棚の端に、背表紙のない一角を見つける。何冊ものノートだ。


 真奈美さんは、学校ではルーズリーフを使っている。毎日、その日の分だけノートを取って、帰ってきてからまとめているのだ。上履きも体操着も全部持ち歩くから、ノートくらいは持ち歩く量を減らさないとカバンに入りきらない。だから、ルーズリーフではない真奈美さんのノートといえば、今もちまちまと描いている謎の絵本に他ならない。


 あんなにたくさんあったのか。


「真奈美さん」


「うん。なーに」


「あの、ノート見てみてもいい?嫌なら、見ないけど」


「いーよ」


許可をもらって、本棚に近づく。四冊ある。どっちが新しいのだろう。


 真奈美さんが部屋の掃除をするようになってからの本棚は、図書館以上のまとまりっぷりだ。ハヤカワ文庫の背表紙が「銀河市民(ハー1-35)」の隣にきっちり「人形つかい(ハー1-36)」が並ぶ完璧さだ。つまり、このノートも右側が古く、左側が新しいのだろう。


 一番古いものを手に取る。


 一ページ目を開く。


 真っ黒だ。


 ノートの見開きいっぱいが鉛筆で塗りつぶされている。よく見ると、塗りつぶされた黒鉛の下になにか書いてあるが、なにが描いてあるかは分からない。


 次のページも真っ黒だ。


 次も真っ黒。真っ黒のぬりつぶしがどんどん完璧になっていく。


 ぱらぱらとめくっていくと、ノート丸々一冊塗りつぶしだった。


 うわぁ……。


 次の一冊を手に取る。最初数ページは同じ真っ黒が続く。その後、唐突に見覚えのあるマップが現れる。あ。なんだっけこれ。ああそうだ。ラダトームの街だ。ドラクエだ。すごいな。ちまちまと城のレンガ一つ一つまで描いてあるぞ。


 次のページはアレフガルドの地図だった。


 次のページもアレフガルドの別の地方の地図だ。


 次のページはメルキドの街だった。


 しばらくドラクエの地図が続く。森の木のドット絵まで完全再現の地図だ。


 ドラクエ地図は、竜王の城を越え、ドラクエⅡへと進み、ノート三冊の旅はルイーダの酒場を経由して、Ⅲへと至る。


 そして伝説へ。


 俺がプレイしたとき、その物語は感動の物語だった。自分の歩んでいた道が、1と2で伝説として聞いていたロトの物語だったのだと知ったとき、新鮮さと懐かしさの感情に感激した。


 部屋の中の真奈美さんにとって、それは閉じた円環の世界。ゲームの中の自分がロトの伝説になり、竜王が生まれ、十六歳の朝に還る。<まなみや、おきなさい。きょうは、おしろにいくひでしょう。>


 ノートはまた黒に塗りつぶされていく。小さな四角い白を残して……。


 真奈美さんの世界。古い十五インチのブラウン管の明かり。塗りつぶした黒鉛の下には汚部屋のゴミがあったのだろうか。そこに白いページ。右下に黒いはぐれメタルみたいな物体がうずくまり、それをマドハンドみたいな手だけのなにかが触れている。


 これは、俺だと直感が告げる。


「真奈美さん」


「なぁに?」


「これ、本当に見ていいの?」


床の上で真奈美さんがころりと転がり、仰向けになる。


「いーよー」


間延びした返事。暗黒波動満載のノートからは程遠い暢気さと平和さが、今の真奈美さんだ。


 ノートのページをめくる。マドハンドが消え、はぐれメタルだけになる。周囲に歪んだ羊歯が生え、その隙間の暗闇になにかの目が光る。恐怖の森。真奈美さんを見る目は、美沙ちゃんと家族。ページが進む。はぐれメタルが起き上がり、真奈美さんになって森を進んでいく。あらゆる暗闇に獣の目が光る。息の詰まるような不安さ。ページが真っ黒になるまでちまちまと描きこまれたページを埋めるのは、渦巻くぜんまいのような植物が半分。あとは光のないアーモンド形の目。不安の森を歩く真奈美さん。その手はなにかをだきしめる。リアル真奈美さんはカバンを抱きしめて学校に通っているが、ノートの中の真奈美さんは、なにかぼんやりとしたものを抱きしめている。


 立ったままノートを見ていると、ズボンのすそを引っ張られた。床に転がったままの真奈美さんが両手を伸ばす。


「んー」


赤ちゃんか?


 まぁ、意味は分かる。引き起こしてくれと言うのだろう。ノートを元の本棚に戻す。真奈美さんの手を取る。そのまま引き倒される。


「おわっ」


俺が引き倒されてどうする。


 真奈美さんに引き倒されて、そのままもつれるように床にころがる。


 むにゅ。


 柔らかで温かな感触。長い髪がばさばさと被さり、甘いずっぱいミルクのような真奈美さんフレグランスに包まれる。


「真奈美さん?」


「んー」


真奈美さん語の『んー』には十通りくらいの意味がありそうだ。ずるずると、マナミスライムが床に転がった体の上に登ってくる。右肩あたりから右胸付近にけしからんレベルの柔らかさを感じる。真奈美さんはBというサイズのはずだが、これがBか……。Bって、それなりにやわらかいよな。


 美沙ちゃんのDに触ったことのある俺は、レベルアップしてるはずだ。おっぱいマエストロと言っていい。なにせ美沙ちゃんの天使のDカップを触ってるからな。メタルキングなみの経験値が得られたはずだ。


「んー。おにいちゃんー」


髪の毛の中に俺を捕らえて、真奈美さんが甘える。


 髪の毛の中は、ドールハウスの中。


 滑らかな磁器のような白い人形の顔がやんわりと微笑んで、緩む。頬に頬が当たる。柔らかさに、セルロイドでも陶器でもない生きた真奈美さんを見つける。


「なんで、お兄ちゃんなの?」


上野にも言われているように、真奈美さんのお兄ちゃんポジションであることは否定できないけど、真奈美さん本人にまでお兄ちゃんと言われると気になる。


 それにしても、俺ほど色んな女の子にお兄ちゃんと呼ばれている人間も珍しいだろう。お兄ちゃん・オブ・お兄ちゃんズだ。


「おにいちゃんなら、美沙と喧嘩しなくていいもん」


そう言って、真奈美さんの唇から息が漏れる。甘い真奈美さんの匂いが前髪で包まれた狭い空間に充ちる。


 すりすり。


 滑らかな頬が、俺の頬にすり寄せられる。


 耳元に囁き。


「お兄ちゃんは、いつまでもお兄ちゃん。なおとくんが、美沙とどうなってもお兄ちゃん。だれとどうなってもお兄ちゃんだから」


真奈美さんのノートの中で、真奈美さんは小さな蛍を追いかけて森を歩いている。けばけばしい羊歯と、ねじくれた樫の森を歩く。


 それは、辛くて怖くて暗い現実の森。


◆◆◆◆


「そっか」


帰りの駅のホームで白い息を吐き出す。俺は、真奈美さんのお兄ちゃんであるほうが、真奈美さんには安心なのか…。


 美沙ちゃんに告白されたとき。


 なんとなくだけど、どこかで真奈美さんのことを考えた。美沙ちゃんとつきあったとき、真奈美さんを突き放してしまう気がして、それが怖くて、百回生まれ変わっても手に入らない幸運が逃げていった。真奈美さんを気にしなければよかったのではない。真奈美さんが真っ黒な世界にもどって、俺が美沙ちゃんと楽しく過ごせるわけがない。


 つまり最初から手詰まりだった。


 電車がホームに入ってくる。


 乗り込んで、お気に入りのドアのそばに陣取る。窓の外を見る。駅を出ると、それなりに高いところを電車は走っていく。ドアのところに陣取って下を覗き込むと少しだけ空を飛んでいるような気持ちになるのが好きなのだ。高いところが苦手なわりに、こういうのは好きだ。


 電車から下を走る国道を見下ろしながら、とりとめもなく思う。


 女の子とつきあうというのは、ドキドキするものなのだろうなと思う。


 いつか自転車でダイブした川の鉄橋に差し掛かる。陽が落ちると、灯の灯る夜景の中で川だけが真っ黒になる。ますます高いところを飛んでいる気分になる。


 女の子とつきあうのは、ドキドキする。それはたぶん不安定だからだ。危険だからだ。俺が、だれかとつきあい始めたとき……ふわりと三島の唇の匂いが脳裏をよぎる……俺を好きかもしれない女の子は傷ついて、そばにいられなくなる。そうして、ひとつ世界が変わる。


 上野と橋本を思う。


 あいつらに彼女が出来て、めっきり俺と遊びに行くことも減った。昔は妹をつれて遊びに行くとか言ったら、大喜びだったくせにな……。


 そうやって、またひとつ世界が変わる。


 俺は、臆病者なんだ。


 別の世界に行くのが恐ろしくて。


 だから美沙ちゃんに告白されるなんて超ラッキーイベントが発生しても、勇気が出なかったのだ。


 現実という名の、迷いの森を歩く真奈美さんも怖がりだ。ただ俺よりも遥かに勇気のある怖がりだ。そして冴えたやり方を思いついたのだろう。


 電車は鉄橋を渡りきって、駅に着く。ドアが開く。降りる。


 真奈美さんは見つけたんだ。たとえ、俺が美沙ちゃんとつきあっても変わらない世界の作り方。それは、俺の妹になること。


 お兄ちゃんと妹。


 それは、なにがあっても変わらない、とても安定した関係。


 自宅の前にたどり着いて、妹の部屋の明かりを見上げながら思う。




 兄妹というとても安定した関係を、思う。




 部屋に戻ると、妹がベッドの上でカプリコを食べながらエロ漫画「恥辱まみれ」を読んでいた。


 むぅ……。大丈夫だ。俺は引かない。


 高校生の妹がエロ漫画を読みながらカプリコをぼりぼりやっていても、今の俺は通常運転である。こいつに密かに想いを寄せているロリコン男子どももこれを見たらさすがにドン引きするはずだが俺は大丈夫だ。


 関係が安定しすぎである。兄妹すごいな。


「ちゃんと元のところに戻しておけよ。それ、押入れのかなり奥に置いてたやつだぞ」


「うーっす」


三島あたりにこのエロ漫画コレクションを発見されていたら流血の大惨事になるところだが、妹は大丈夫だ。


 関係が安定しすぎである。


「あと、布団の上にカプリコのカス落とすな」


「うーっす」


聞いちゃいない。


 しかたなく床の上に積み上げられた漫画を片付けることにする。


「ひょっとして、この漫画読んでカプリコ食いたくなったのか?」


「そーっすよー」


床の上のエロ漫画『かぷり娘』を元の箱にしまう。


「そっちのは、まだ読んでないからしまっちゃだめっすー」


エロ漫画って連続でたくさん読んで楽しいのだろうか……。続き漫画じゃないんだから、連続で読んでも食傷するだけだと思う。とはいえ、俺はXY染色体。妹はXX染色体。エロ漫画の訴えてくる感性部分は、染色体レベルで違う。俺と楽しみ方が違って当然かもしれない。


「エロゲーはさ……」


「んー。なんすかー」


漫画を読んでいるところに話しかけちゃ悪いかなと思うが、あまり迷惑そうな声も出さないので続けることにする。


「……まだ、わかるんだよな。お前がやるのも」


「さすがは、にーくんっすー」


感心された。


「ほら、女の子視点でも、見方によっては恋愛モノっぽかったりするじゃん」


「あほっすかー」


罵倒された。


 おかしいな。エロゲーをプレイする女子高生に理解を示すという、神レベルの寛容さを見せたつもりだったのにな。


「ちがうのか?」


「女の子視点で姫騎士アンジェリカをエンジョイしてたら病院送りっすー」


その通りだ。陵辱調教ゲームを女の子視点で妹がエンジョイしてたら、たしかに病院をここに建てなくてはいけない。


「じゃあ、お前、あれは誰視点でやってんの?」


「……」


妹が無言になって、読みかけのエロ漫画を横において、ベッドの上であぐらをかく。女子高生があぐらをかくな。


「……なんだよ」


「にーくん…。あのっすね」


「うん」


あれ?なんか、雰囲気が……。エロ漫画タワーを背景に妹がいつもと違う真剣な雰囲気を出す。背景と空気があっていない。


「にーくん、しょ……処女厨っすか?」


真剣な雰囲気で飛び出す発言がこれである。


「なに言ってんだお前?」


「に、にーくんの持ってるエロゲとエロ漫画、処女ばっかっすよ」


「俺のに限らないぞ」


エロゲとエロ漫画のキャラの処女率は八十パーセントを越えていると思う。人妻モノとかじゃない限り……。だよな。特に俺が無意識のうちに選んでるんじゃないよな。いや、選んでなにが悪いか。ビッチよくない!


「……つーか、それを聞いてどうすんだ?」


「ど、どうもしないっすけど……。なんつーか……」


あの妹の顔が耳まで真っ赤だ。なんで、俺は実の妹に羞恥プレイしているんだ。


「そ、その漫画持って行っていいから、自分の部屋に戻れってば」


「そ、そうっすね!」


妹がそそくさとエロ漫画を抱えて部屋から出て行く。


 非常に変な空気になってしまった。


 妹の残り香まで微妙にエロっぽく感じてしまう。俺の頭、おかしくなったのか?


 妹は遺伝子がエロいものと認識しないはずなのだ。嗅覚は五感のうちで唯一視床下部に直結しているから、妹の匂いはエロいものと認識しないはずなのだ。


 つーか。けっきょくはぐらかされた。


 あいつは、どういう視点でエロゲとエロ漫画をエンジョイしているのだ。


 ……。


 わかってる。


 どうでもいいことだ。


◆◆◆◆


 来週には卒業式がある。学校に通うのも、残り日数カウントダウン。あと十日残っていない。制服を着るのも、あと十回か……。


 そんなことを、ぼんやりと消化試合となった授業の合間に思う。


「なによ。じっと見たりして」


ぼんやりと視線を投げていた先の廊下に偶然いた三島が、つかつかと歩み寄ってきて尋問を開始する。今日は左右に三つ編みを作った女学生バージョンだ。


 べつに三島なんて見ちゃいなかったのだが、別の答えを返すことにする。


「いや。三島の制服姿を見るのも、あと少しだなと思ってさ」


「え……」


三島が、一瞬フリーズする。


 しまった。今のは、ちょっと意味深だったか。そうだよ。三島だった。


 三島由香里とは、ちょっとアレがソレしてナニな思い出もあるから不用意な言葉が別の意味をもってしまう。


 だからといって、ここで否定を開始してしまうととんだツンデレになってしまう。気がつかないフリでスルーを決め込む。


 俺の華麗なスルーに、三島もくるりと後ろを向いて教室を出て行く。


 そして、一分で八代さんを連れて戻ってくる。


「二宮。ちょっとついてきなさいよ」


あれ?俺、なにか悪いことしたっけ?三島に屋上に連行される。突き落とされるのだろうか。この心配は以前もした気がする。


「そこに立って」


鋭い視線で俺を睨みつける三島に、校舎の北側を指定される。やはりか。突き落とされるんだな。


「そうはさせるか!」


「写真くらいいいでしょ!」


「遺影のつもりか?」


「は?」


「二宮くん、なに言ってるの?」


八代さんと三島が同時に、意味不明だと表情と言語で伝えてくる。


「突き落とされるんじゃないの?俺?」


「……心当たりあるのね」


「ないけど」


「ないの?」


意外そうな顔をする三島。なんで意外そうなんだよ。


「殺害動機があるのか?」


恐怖の表情を浮かべる俺。


「由香里ちゃんと二宮くんは、痴情のもつれがあるんだよ」


楽しそうな八代さん。他人の不幸は蜜の味。


「もつれてないわよ!」


「もつれてない痴情もない!」


ダブルつっこみである。


「……ち、痴情はないけど…その。少しはあるでしょう」


ぐっ。


「やめろ。三島」


唇に三島の感触がよみがえってくる。落ち着かなくなる。そうなのだ。こいつ、俺のファーストキスを不意打ちで持って行ったのだ。自分のファーストキスと引き換えに……。妹の言う、処女厨というのもあながち間違っていないかもしれない。思った以上に弱みになっていることを再認識する。


「だから、写真くらいいいでしょ」


「い、いいよ」


「由香里ちゃん、かわいー」


八代さんに指摘されるまでもなく今の瞬間は、三島が可愛かった。せんせー。三島がずるいんですー。俺の脳に変なフラッシュバックが刻み込まれていて、可愛さが三割くらい増すんですー。


 女の子のファーストキスは、呪いでもある。逆らえない。


「ってか、なんで写真なんだ」


三島とぎこちなくならんで、八代さんの御立派なスマホに顔を向けたまま尋ねる。


「わ、わたしの制服姿…写真欲しくないかな…って思って」


横で三島が答える。やりづらい。なんとかいつものペースに戻したい。


「どうせなら、スク水と体操着も欲しいぞ」


避ける体勢を作りながら命を賭したセクハラを発射する。ここで三島のハイキックが飛んできて、いつもどおりになるはずだ。


「……け、検討しておくわ」


やめろ。ハイキックの方がまだ破壊力が少ない。


「由香里ちゃん」


「な、なに美奈?」


「制服スカートたくし上げとかすると、ゆかりんの写真が二宮くんの宝物になると思うよ」


「バカなの?あんた?」


そういう悪を八代さんに教えたのは、上野だな。あのバカが。


「私、上野くんにやってみせてって言われた」


やはりな。


「美奈。上野はどうやって殺せばいいの?」


「大丈夫だよー。中にスパッツ履いてだもん」


「八代さんはわかってない。それ、すごく良いからな。パンツが見たいんじゃない。スカートを持ち上げているというのがいいんだ」


「美奈。二宮はどうやって殺せばいいの?」


「制服スカートたくし上げで悩殺できると思うよ」


八代さんは、ぽーっとしているようで頭の回転が速い。


「それは、さすがにやらないからね」


やったほうが驚きだよ。


「ゆかりんも、二宮くんにリクエストしたら?」


「な、なにを?」


「ほら、後ろからぎゅっとか」


「そんなこと、して欲しくない……けど、まぁ、おもしろいから……」


「ということみたいだよ。二宮くん」


「まじすか?」


「まじでしょう」


八代さんが、満面の笑みでウィンクする。


 やりましょう!


 脳裏でITハゲ社長が言う。そして、俺は三島の後ろに回りおそるおそる両腕を三島の肩越しに伸ばす。


 三島の耳が赤いぞ。


 ぎゅっ。


「いいよー。ほらほらー、ゆかりん、目線こっちー」


八代さん、ノリノリだ。


「は、早く撮っちゃってよ!早くしないと、二宮が変なところ触り始めるわ!」


三島が上擦った声で、俺に濡れ衣を着せようとする。触らないぞ。間違っても三島の胸部に触れてしまわないように、注意深く自分の制服の袖を掴む。美沙ちゃんの胸を触ってレベルアップを果たしている俺は、三島程度の胸部ではどきどきするわけがないが、それでも注意を怠ってはだめだ。


 ひゃうっ!?


 三島の指が俺の手に触れて、声を挙げそうになった。胸は大丈夫だが、指先はだめだった。


「んじゃー。あとは、若い二人に任せて戻ってるね!ごゆっくり」


八代さんが、俺の恥ずかしい写真を撮るだけ撮って小走りに行ってしまう。今、俺はなにか過ちを犯したんじゃないかと心配になる。『バカップルwww』とかツイートされて、さらにリツイートされて拡散してしまって、就職してから上司に『これ。二宮くんに似てるねぇ』とか言われたらどうしよう。恐怖のピタゴラスイッチが連想される。なんで俺は彼女でもない三島とバカップルみたいな写真を撮ったのだ。というか、三島。お前もだ。妹や美沙ちゃんならともかく、お前はもっと凶暴なだけのまともなヴェロキラプトルだっただろう。


「ごゆっくりしてる時間ないから、戻りましょう。授業始まるわよ」


目を合わせない三島と並んで階段を降りる。


 この階段も、制服姿の三島を見るのもあと一週間ほど。


 その後は、永遠にない。


 過ぎ去った時間は戻らない。


 そう思うと、さっきの若さゆえの過ちも悪くないのかもしれない。


「二宮……」


階段の折り返しで、三島が俺を見上げる。なにかを言いかけて、そのまま黙る。


「ありがとな。三島」


「……うん。あとで写真送るわ」


それだけ言って、三島は文系進学クラスの教室に戻る。俺も自分の教室に戻る。


 その日の夜に八代さんから送られてきた写真は、はずかしくて直視できなかった。


 自分が甘酸っぱすぎる。


 三島から送られてきた写真は、部屋で中にスク水を着た三島がスカートをたくし上げている写真だった。本当に意味が分からない。あいつは、周囲の女子の中では一番まともだったはずなんだが……。おかしいだろ。


 俺はjpgファイルを外付けハードディスクとUSBメモリとSDカードに保存した。


◆◆◆◆


 学校の中に、二つの時間が流れている。


 三年生とそれ以外の時間だ。卒業まであと三日になって、三年生は気づいている。あと三日で世界が変わってしまう。もう制服を着ることもない。未成年でもない。校門を潜ったら、不法侵入の不審者になる。毎日顔を合わせている友人たちは、友人たちであり続けるだろう。だが、顔を合わせるのに理由が必要になる。顔を合わせているだけの同級生とは、もう会うこともないかもしれない。


 上野と橋本は、その寂しさを恋で埋め合わせている。


 ああ見えて鷹揚とした人格者の橋本と、おっとりとした東雲さんは静かに当たり前のように一緒にすごしている。ロリコン上野も、テンション高めの八代さんとバカップル・フェーズを終えて八代さんを愛でているようでいて上手く操縦されるフェーズに入っている。


 三島はいつものように本に目を落としている。それでも目が合えば少し心の内がわかる。寂しさとかすかな信頼。


 三島の知っている俺は、寂寥の風に流されて三島に近づいたりしない。現実の俺はフラフラとしているただの臆病者だけど、三島の中の俺はもう少しマシなのだ。俺にできることはマシな自分を気取ることくらいだ。


 真奈美さんは、毎朝美沙ちゃんと一緒にうちに来る。もう一人で学校に行けないわけではないが、高校時代の半分をそうしていたように俺と学校に通う。たまに手をつないで通う。


 一緒に歩く美沙ちゃんと妹の時間は俺たちとは違う。明日も明後日も、一週間後も高校生だ。制服を着て、きらきらとした天使オーラを振りまきながら(美沙ちゃんの場合)、あるいは暗黒のデスオーラを振りまきながら(妹の場合)学校に通うのだ。


 そんなカウントダウンな高校生活の一日が、ゾッド宮本のホームルームで終わる。明日、半日の授業というか、卒業式の連絡があって、明後日は卒業式だ。


「二宮くん、ちょっといい?」


放課後、廊下で佐々木先生に呼び止められる。今日の俺は『二宮くん』だから『佐々木先生』の方だ。つばめちゃんの方じゃない。つばめちゃんの時間は世界が変わらないほうだ。明日も明後日も来週も、十年前に教師になったときからずーっと変わっていないのだ。佐々木先生にとって俺は十年の中の三年間なのだろうか。


「はい」


そう答えて、ふりむくと佐々木先生が頭を深々と下げてくる。


「うおっ!?な、なんすか?」


「ありがとうございました」


「な、なにが?」


「市瀬真奈美さんのことよ。明日とあさっての二日間休んでも卒業できるのが確定したから、あらためてちゃんとお礼を言っておこうと思ったの」


そう言って、にっこりと笑いながら顔を上げる。


「お礼を言われることじゃ……」


「でも、私からも頼んだことだし、ちゃんとお礼は言っておかなくちゃね。大人として」


「そ、そういうもの?」


「そういうものよ。卒業式の日はいろいろと忙しくなって先生としてちゃんとお礼を言えそうなのって、今日くらいだからね。ありがとうございました」


背筋をすっと伸ばした佐々木先生はさすがに男子生徒に人気があるだけあって美人だ。二十九歳と二十四ヶ月オーバーだが……。


「そ、それじゃあ、俺も…ありがとうございました。その……恩師としてだけじゃなくて…俺に真奈美さんの付き添いを頼んでくれて」


「どういたしまして」


真奈美さんの面倒を見れてよかった。本心だ。ろくな部活をしていない俺の三年間の高校生活で、真奈美さんとのことは小さくない。真奈美さんの補習に付き合って、毎日通った二年生の夏休みも、真奈美さんと逃亡した修学旅行も全部真奈美さんとの思い出だ。超絶美少女美沙ちゃんとも仲良くなれた。


「それじゃあ、気をつけて帰るのよ」


そう言って、佐々木先生がゆっくりと背中を向ける。


「つばめちゃん…」


無意識に名前を呼ぶ。


「なに?」


目じりを下げた柔らかな佐々木先生じゃないつばめちゃんが振り返る。


「夏は?」


「なおくん、手伝ってくれるよね」


「そのつもり」


「ん」


また背中を向ける。


 十年変わらない時間をすごす佐々木つばめちゃんには、来年も夏が来る。俺の世界もそっちの夏は変わらない。


 少しほっとする。


 つばめちゃんはいつも俺に安心をくれるな。


 そう思って、もう一度背中に向かってありがとうを呟く。


「ありがとう」


 ありがとうばかりだ。三島にありがとう。つばめちゃんにありがとう。そして、真奈美さんにもありがとうだ。


 ありがとうを言って、ありがとうを言われる。


 俺の高校生活は、きっととても良い高校生活だったのだろう。




 その二日後。


 真奈美さんと俺は高校を卒業した。


 世界が、変わる。




(高校生編~了~)

(大学生編へ、つづく)

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