第80話 ふたつの愛

 息が白さを失って、草花よりも早く冬の終わりを教えてくれる。


「まだ、寒いですね」


それでも、隣を歩く美沙ちゃんがそんなことを言ってくる。可愛らしい顔を、俺の方に向けてやや進路を乱す。一瞬、腕と腕がぶつかって離れる。


「うん。そうだね」


少し見下ろした位置の美沙ちゃんの笑顔に、鼓動を早めながら答える。


「ポケットに手を入れて歩くと危ないですよ」


「あ、そうだね」


言われて、コートのポケットから手を出す。


「手。冷たくないですか?」


「うん。まぁ、でも危ないし」


「手袋、ひとつ貸してあげますよ」


美沙ちゃんが、赤に緑の模様の入った毛糸の手袋を片方外して差し出してくる。


「いいよ。借りたら、美沙ちゃんが寒いし」


「だ、大丈夫ですから。ほら」


断る理由も尽きて、男が着けるには少しばかり可愛すぎる手袋を左手に着ける。あたたかい。美沙ちゃんの手のぬくもりなのかなと、密かに思っているとリアル美沙ちゃんのぬくもりが反対側のむき出しの手を包む。


 手のひらと手のひらが触れる。


「こ、これをこうすれば寒くないです……から」


美沙ちゃんの手が、握った俺の手と一緒にコートのポケットに入ってくる。


 ポケットに手を入れて歩くのは、危ないんじゃなかったの?


 と言いかけて、隣を歩く美沙ちゃんを見下ろすと耳まで真っ赤にして、地面だけを見ながら歩いている。前を向かないで歩くのも危ないから、ちゃんと手を握って電柱とかに突撃しないようにしよう。


 ポケットの中に差し込まれた小さな手の感触に、俺の頬にも熱が上がってくる。




 三月を目の前にした日曜日。


 一足早い春のような暖かさを感じながら、駅への道を歩く。




「お兄さん。今週末、一緒に買い物に行きましょう」


そう美沙ちゃんに言われたのは一昨日のこと。学校からの帰り道に誘われた。最初は断った。なぜなら予定が入っていたからだ。


 美沙ちゃんの誕生日、三月三日を来週に控えた週末。美沙ちゃんになにかバースデープレゼントを買うために買い物に行こうと思っていたのだ。美沙ちゃんへのサプライズプレゼントを買うのに、美沙ちゃんとだけは一緒に行けない。


 なにか良い言い訳を考えているところに、機先をさされた。


「来週、私誕生日なんです」


「あ……う、うん。そうだね。三日だよね」


「覚えててくれたんですね。一度しか教えてないのに」


美沙ちゃんが、少し頬を桜色にしてはにかむ。かわいすぎ。美沙ちゃんの誕生日は覚えやすい。三月三日生まれで美沙なのだ。


「それで!」


美沙ちゃんが、背筋をしゃきっと伸ばして意気込む。


「私への誕生日のお祝いに、一緒に出かけましょう!」


「いくっすー!」


隣を歩いている妹もノリノリだ。


「あ。真菜にもお願いがあるんだ。誕生日プレゼントだと思ってお願い」


「なんすかー。いいっすよー」


「真菜。お願いだからついてこないで」


「なんですとぉー!」


妹は空気を読まない。美沙ちゃんも空気で伝えることを早々に放棄。ダイレクトでシンプルな言葉で意図を伝える。うちの妹が会話に入ると、ある意味で話が早い。


 


 そんなわけで、今日にいたる。




 美沙ちゃんの当人と一緒に美沙ちゃんへのバースデープレゼントを買いに行くということになっている。


 さっきから右のポケットの中の手ばかりが気になる。美沙ちゃんの背の高さだと、少し歩きづらくないだろうか。いつもはすっと背筋を伸ばして重力を感じさせない静かな足取りでまっすぐに歩く美沙ちゃんが、時折身体を揺らして俺の右腕にこつんと華奢な身体をぶつけてくる。


 そのたびに心臓がどきりとする。


 そして、またぶつかってくれないかなと心待ちにする。


 いつもよりも無口なまま駅に着くと改札を通るために、ポケットから手を出す。名残惜しさを感じながら、美沙ちゃんの手を放し自動改札にタッチする。


 ぴっ。


 改札を通って振り返る。美沙ちゃんと目が合う。どちらからともなく手をつなぐ。


 つきあっているわけでもないのにラブラブ過ぎるだろう自分。


 美沙ちゃんに対してほんの少しの責任も義理も持たず、ただ甘さだけを受け取る。図々しいにもほどがあるな。また天罰を受けるんじゃないかと心配になる。


「ふふ……」


電車の中で美沙ちゃんが小さく笑う。


「なに?どうしたの?」


たずねると悪戯っぽい瞳が俺を見上げる。背伸びをして耳元に美沙ちゃんが近づく。


「ぜったい、彼氏彼女だと思われてますね」


そうささやいて、離れる。手だけはつないだまま。


 にこにこと笑う笑顔に照れる。


 しばらく電車に揺られて、目的の駅に到着する。


 混雑した休日のターミナル駅で手をつなぐのは、はぐれないため…じゃないな。


「あ。お兄さん♪」


「ん?」


「あれ!あれ!ペンギンさんですよ!スイカの!」


駅の中で手を引かれて進む先はエキナカの売店だ。緑色のイメージカラーにイメージキャラクターのペンギンが目立っている。目立っているというかペンギンだらけだ。


 このキャラって、こんなにたくさんグッズがあったんだ。


 あまり気にしたことがなかったが、自動改札のマスコットキャラクターだ。ぬいぐるみ、マグネット、財布、パスケース、クッキー。ペンギンだらけだ。


「うわぁー。かわいいー。きゃー。すいっぴー」


はしゃいで巨大ポップのペンギンと握手をする美沙ちゃんの可愛さは、ペンギンどころではない。背中に天使の羽根が見えそうだ。ペンギンは飛べないが、美沙ちゃんは飛べるかもしれない。


 あと、そのペンギンの名前がスイッピだということを初めて知った。


 ひとしきり美沙ちゃんがペンギンの可愛さを愛でて、俺が美沙ちゃんの可愛さを愛でてから目的地の駅ビルに向かう。都会のターミナル駅は、どんどん巨大化して駅から出ないでも十分にエンジョイできる。もっとも巨大化した駅が、ほとんど隣の駅とくっつきそうになっているのは、それはもう電車が駅ビルの中を走っていると言って良いんじゃないかと思う。二十一世紀は未来世界である。


 エスカレーターで上のフロアに上がる。


 妹と俺では決して行かないキラキラなフロアを美沙ちゃんと歩く。歩いている客の平均女子力も高ければ、入っているテナントまで女子力まで高い。女子力濃度が高すぎてキラキラ粒子が空気に混じっている気がする。ぼっちがここに来たら、女子力アレルギーで死ぬ。


 女子力高いブラとかがばばーんと展示してあって、少し照れる。隣の歩くのは、魅惑のDカップ。想像しちゃうな……。


 美沙ちゃん、どんなの着けているんだろ……。


 ……………。


 視線が落ちちゃうよな。うん。男の本能である。


 ……………。


 ……………。


「お兄さん。私にどんなの着てて欲しいですか?」


びくぅっ!


「やっぱり、し、白がいいよ!」


「うーん。白かー」


 美沙ちゃんが手にしているのは、カシミヤのセーターだ。


 そうだ。俺もカシミヤのセーターのことを言ったんだ。間違いない。


「じゃあ、これにあわせるなら何がいいと思います?」


「えっと。こ、これと、これの組み合わせかな?」


ロングのジャンパースカートを選んでみる。美沙ちゃんの脚線美も捨てがたいが、立ち居振る舞いが綺麗な美沙ちゃんなら、こういう大人しい感じの服もぜったいにかわいいはずだ。


「ええっ!?意外です」


「え?なんで?」


なんか間違っちゃっただろうか。


「お兄さん、ぜったいすごいミニとニーソックスとか選ぶと思ってました」


「それも、いいね。すごくいいね」


「お兄さん、エッチだから……」


なるほど。そう思われていたのか。すごくよくないね。


「真菜がなにか言ってた?」


美沙ちゃんに悪を吹き込むのは、いつだってあいつだ。


「だって、お兄さんの持ってたゲーム」


そうだった。


 美沙ちゃんには俺のエロゲとエロ漫画が筒抜けにバレているんだった。


「……あっ。まさか、その下には下着つけないでとか…ですか?」


美沙ちゃんが、頬を少し染めて上目遣いに侮蔑の視線を向けてくる。まずい。


「ちがうよ!だ、だいたい俺がやってたゲームでだって下着はつけてたよ」


「そうでしたっけ?」


「うん」


ウソじゃない。下着の中にリモコン駆動の玩具も入っていた気もするが。下着は着けていた。


「そっか。お兄さん、こういう大人しいのも好きなんですね。今度、参考にしておきます。でも、今日はこれが目的じゃなくて……こっちです」


 美沙ちゃんに手を引かれて、また別のテナントへと向かう。


 向かった先は、ナイトウェアの専門店だ。パジャマだけで店が成り立つというのは、どういう市場なんだろう。そんなにたくさんパジャマ買うか?


「お兄さん。誕生日プレゼント、おねだりしていいですか?」


「うん。そのつもり」


そのつもりがなくても、美沙ちゃんにおねだりされたら拒める気がまるでしない。


「パジャマそろそろ新しくしようと思ってて。お兄さん、選んでください」


美沙ちゃんのパジャマ姿を想像した。ご飯三杯はいける。おかわりまである。


 美沙ちゃんのお願いでは仕方がない。本当に、仕方なくなんだからね。


 全体的にパステルカラーのお店で、美沙ちゃんのために仕方なくパジャマを選ぶ。仕方なく。少し目が充血してるかもしれない。


「お兄さん。いくらなんでもそれはありません」


生まれて初めて見るネグリジェという寝巻きを手に取った俺に、美沙ちゃんが注意する。


「見てただけ。見てただけだよ」


「私、寝るとき、胸が締め付けられるのいやなんでそんな透けてるのはダメです」


俺の脾臓から血液が大量に全身に供給された。上半身と下半身の両方に供給された。


 どきどきどきどき。


 そんなことを聞くと、どのパジャマを選んでも犯罪的な予感がする。どのパジャマを手にとっても、美沙ちゃんが着たところを想像するだけでドキドキしてしまう。締め付けられるの嫌いなんだ。そうなんだ。寝るとき着けない派なのか。


 選べない。


 パジャマよりも中身ばかりイメージしてしまって、パジャマどころではなくなった。


 もう、こうなった俺の頭脳が持つ判断力もセンスも大して役に立たない。現在のIQはだいたいサイコロのIQと同じくらいで、決断力はサイコロのほうがある。


 なので、オーソドックスな大き目の水玉模様が淡い緑色で入ったパジャマを選ぶ。襟元に小さなリボンがついているやつだ。美沙ちゃんが着れば可愛いのだけは間違いがない。もっとも美沙ちゃんなら、六百円のスウェットを着ていてもかわいいはずだが。


「じゃ、じゃあ。こ、これでどうだろ」


「いいですね。じゃあ、それ買ってきてください。私、こっち買います」


美沙ちゃんが、隣にあるパジャマを手に取る。


「え?それって?」


「いいから。ほ、ほらレジに行きますよ!」


美沙ちゃんに背中を押されてレジに行く。




 え。えと……まさか?


 まさかか?




 その夜。


 風呂から上がって、ベッドの前で体温が上がる。ベッドの上には新しいパジャマ。


 あの後、俺からの誕生日プレゼントのパジャマを受け取った美沙ちゃんが包みを差し出した。


「はい。これ、ちゃんと寝るとき使ってくださいね」


中身は、さっき買ったパジャマだ。美沙ちゃんにあげたものと同じデザインの紳士用だ。


「私も今夜から、お兄さんにもらったこれを着て眠りますから……」


そう言って、美沙ちゃんが少しうつむき気味に頬を染めた。




 ずるい。




 ただのパジャマのはずだ。袋から出してもいない新品だ。別に美沙ちゃん着用済みということでもなく。まして美沙ちゃんが一緒に寝るわけでもない。


 それなのに、なぜか美沙ちゃんを意識してしまう。


 体が冷えてきた。風邪を引く前にパジャマに袖を通す。素肌にパジャマの生地の感触を感じる。


 美沙ちゃんを意識してしまう。


 ベッドに入っても、落ち着かない。美沙ちゃんを考えてしまう。今、美沙ちゃんも同じデザインのパジャマを着てベッドに入っているのだろうか。美沙ちゃんも、俺のことを考えたりしているのだろうか。


 眠れない。


 美沙ちゃん。


 交換日記を始めて以来、一人でいるときも美沙ちゃんのことを考える時間ばかりだ。


 美沙ちゃんが逆レイプをしかけてきたときよりも、美沙ちゃんから逃れられない。美沙ちゃんのことばかり考えている。


 冷えていた布団の中が、体温で温まってきた。


 ぼんやりと、まぶたの裏に垂れ目気味の瞳を映して夢の中に落ちていく。


◆◆◆◆


 気がつくと、制服を着てダイニングにいた。高校の制服ではなくて、中学の制服だ。そうだ。中学一年生だったと思い出す。同時に、ああ。これ、夢だなと思う。


「お兄ちゃん。遅刻するっすよー。早く行くっすー」


ランドセルを背負った妹が、玄関でじたじたと暴れている。あいつ、俺が中学校に自転車で通うようになって、途中にある小学校の近くまでよく二人乗りをさせられていたんだった。


 カバンを持って出る。カバンを自転車のカゴに放り込み、自転車にまたがる。妹が後ろの荷台に飛び乗る。


「はいどーっ」


「馬じゃねぇ!」


右手のひじうちを妹に食らわせて、折檻しつつ左右の安全確認をしてから道路に出る。以前、出たとたんにおまわりさんがいて、二人乗り開始十秒でしかられたことがある。右見て、左見て、おまわりさんがいないのを確認して道路に出る。


 自転車がなつかしい。今は川の下に眠る自転車に妹を乗せて、街を行く。信号で止まる。駅が近くなり、歩行者も一緒に信号待ちをする。その中に、声を聞く。中学一年生の俺の知らない声。高校三年生の俺の知っている声。


「今日も、まだ真奈美は学校に行かないのか?すまん。なんとかしておいてくれ。うん。明日からイギリスに出張だし。今は大事なプロジェクトもあるし。由利、すまん」


背広姿の背中しか見えないが、あのダンディな声は市瀬さんだ。美沙ちゃんのお父さんだ。俺の胸の中にもやもやとした気持ちが湧き上がる。「仕事どころじゃないよ!家にもどってあげないと後悔するよ!」と教えてやりたいが、喉が詰まったように音が出ない。信号が青に変わる。歩行者と市瀬さんを追い抜いて妹の小学校へと向かう。


 妹を小学校近くでおろす。正面まで行ってしまうと、今度は妹が学校の先生に怒られる。二人乗りくらいいいじゃないかとも思うが、そうでもないかな。危ないよなと思う。


 軽くなった自転車で中学校に向かうはずが、いつのまにか進路は中学校とは別方向に進んでいる。隣の駅を越えて、住宅街に入る。公園の脇を抜ける。今は見慣れた一軒家の前で止まる。二階を見上げる。カーテンの閉まった二階を見上げる。若い女性の声が通りまで聞こえてくる。


「真奈美!いいかげんにしなさい!義務教育でしょう!行きなさい!」


聞いたことのない口調の聞いたことのある市瀬由利子さんの声。


 そして、玄関のドアが開く。


 中学校の制服を着たセルロイド人形が出てくる。髪が短い。肩より少し上で切りそろえたおかっぱみたいな髪型。


 ……真奈美さん。


 まるで、俺がそこにいることに気づかないかのように、まっすぐに前を向いて真奈美さんが短いポーチを抜けて、道路に出る。


 背中をまっすぐに伸ばして、カバンを両手で前に下げて歩く真奈美さん。その良い姿勢も、まっすぐに伸びた背筋も今の美沙ちゃんを思い起こさせる。重力を感じさせない静かで確かな足取りで、歩道を歩いていく。前髪も短く、セルロイド人形のような整いすぎた顔をまっすぐに前に向けて歩いていく。


 中学校に向かう真奈美さん。


 俺に出会う前の真奈美さん。


 学校。


 妹が小学生だった。つまり、まだ真奈美さんも中学一年生だ。中学一年生から登校拒否気味だったのか。


 行くのか?学校に……。


「真奈美さん!」


自転車で追いついて、声をかける。


「どなた?」


無表情な整った顔と、左右対称な目がまっすぐに見つめてくる。どきりとする。真奈美さんの顔は、整いすぎていて緊張感を呼び起こす。ひとかけらも欠点の見つからない顔立ちに、自分の不出来な部分が映るような緊張感がある。


 ああ。これは、女の子にいじめられる。そう思う。真奈美さんに向き合えば、自分の不細工な部分。自分の完全じゃない部分を嫌でも思い出してしまう。自分の容姿に意識の強い女子は我慢ができないだろう。


 でも、俺は知っている。


 このガラス細工の鳶色の瞳の奥に、泣きじゃくる小さな子供がいることを。


 そして、その子がいずれ誰よりも強い意思で世界のすべての悪意と恐怖を乗り越えることを。


 同時に、そのときには人生で一番輝いている時間の多くが過ぎ去ってしまった後だということを。


「学校に行くの?」


「学校に行くわ」


「いじめられるんじゃない?」


「どうして知っているの?」


「なにかしてあげたい」


「いらないわ」


それだけ言うと、くるりと振り向いてすたすたと歩いていってしまう。


 今の真奈美さんからは想像できない冷たさだ。中学一年生とも思えない。これが夢の中だとしても放っておけない。感情が消えているのは、壊れる前段階なんじゃないかと思う。


 このあたりの学区で中学校だとあそこか?思い当たる場所がある。自転車で先回りする。


 夢の中でなにをしているんだと思う。


 だけど、それでも止められないのも夢の中だ。


 自分が中学生のころは、こんなに小さかったかな。そう思いながら、登校してくる中学生たちを見る。不審者丸出しだが、夢の中ではこっちも中学一年生なので通報はされないだろう。


 そこに中学一年生の真奈美さんがやってくる。浮いているというのか、目立っているというのか、少なくとも周囲の中学生たちには溶け込んでいない。背筋を伸ばして、落ち着いた雰囲気も中学生らしくはないし、真っ白な肌も、セルロイド人形の顔も、腰の位置の高い日本人離れした脚の長さも浮いている。


 周りの学生たちの中には、クラスメイトもいるだろうに誰も真奈美さんに挨拶もしない。


 校門をくぐる真奈美さんの少し後ろから、ついていってみる。


 周りの学生たちは、俺のことも無視している。まるで見えていないようだ。さすがは夢である。


 下駄箱の並ぶ玄関。


 真奈美さんが、下駄箱を開けてすぐに閉じる。来客用スリッパを一つ取り出して、スニーカーから履きかえる。履き替えたスニーカーを手に持って、階段を上がっていく。


「このあたりだったか」


真奈美さんの下駄箱を探す。これか。有賀と井上のラベルのついた間のラベルがはがされた下駄箱を見つける。


「ああ……やっぱり……」


中に入っているのはびしゃびしゃに濡れた上履きだ。御丁寧に濡れたトイレットペーパーが詰め込まれている。


 真奈美さんの後を追う。


 真奈美さんの教室はどこだ?


 いくつか教室を覗いて、教室の中で棒立ちになっている真奈美さんを見つける。教室の一角から、女子グループがニヤニヤと笑いながら真奈美さんを見ている。ずいぶんと幼いが、忘れようがない。高校でも真奈美さんにちょっかいを出していた連中だ。ついでに言うと、修学旅行の朝食に下剤を入れてバスの中で俺を脱糞の危機に陥れた連中でもある。文字通りのクソビッチどもめ。


 整然と机と椅子の並ぶ教室の中で、真奈美さんの立っているところだけ不自然に空間が空いている。前も横も後ろも、席は埋まっている。


 あのくそビッチども、真奈美さんの机を隠したな。


 ふざけんな。


 教室の中に入るが、あいかわらず俺の姿は他の生徒たちからは見えていないらしい。それどころか、ぶつかりそうになった生徒はそのまますり抜けていってしまう。さすがは夢だ。幽霊設定なのだろうか。


「お前ら。真奈美さんの机をどこに隠した」


と言っても、まるで聞こえてない。


 だめだ。


 肩をすくめて振り向くと、真奈美さんが教室から出て行くところだった。あわてて、後を追う。その後ろで楽しげで残酷な笑い声が聞こえた。


「真奈美さん!」


「なんですか?」


真奈美さんには俺の声が聞こえるみたいだ。冷たい声で返事が返ってくる。


「どこへいくの」


「机を探しに行くわ」


振り向きもしないで、背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま歩いていく。


「だいたいわかるもの」


独り言のように呟きながら階段を上がっていく。他の生徒に俺の姿が見えていないのだとしたら、実際に独り言なのだろう。


「真奈美さん」


「なんですか?」


「泣きたいときは泣いていいんだよ。だれかに泣きついていいんだ」


ふと、つばめちゃんの顔を思い浮かべる。ここは中学校で、真奈美さんも俺も中学一年生だ。高校の現代国語教師佐々木つばめ先生とは出会ってもいない。


「だれに泣きつくって言うんですか」


「だれって……」


「私、お姉ちゃんだから、しっかりしないといけないし」


「真奈美さん……」


美沙ちゃんだ。そうだった。生まれて、二年もしないうちに美沙ちゃんが生まれた。真奈美さんの両親は、美沙ちゃんをよくかまうようになったと聞いた。真奈美さんが甘えたいころに、甘えさせずにいたのだと。


「あったわ」


階段を登りきったところ。屋上へと続く踊り場に机と椅子が置いてある。


 それを持ち上げようとして、真奈美さんが停止する。


 天板を止めるネジが外されていた。天板だけが持ち上がってしまう。机の脇のフックが外れて、からんと音をたてて床に転がる。始業のベルが鳴る。


 机の中を覗き、床をはいつくばって、ネジを探す。もちろん見つからない。


 それでも、真奈美さんは机の上にひっくり返した椅子を載せ、その上にカバンを載せて持ち上げる。手伝おうにも、俺の手は机を素通りしてしまう。中学一年生にしては長身とはいえ、まだ幼さを残す真奈美さんが机を抱えて階段を下りていく姿は痛々しい。


 あんな教室に戻ることないよ。


 そう、言いかけて口を閉じる。


 教室から逃げ出して、部屋に逃げ込んで出てこなくなるんだ。このあと四年間。


「真奈美さん」


「なんですか?」


「俺、真奈美さんの味方だから」


「そうなの?」


「うん」


「ずっと?」


中学一年生の真奈美さんが、俺の目を見る。その透き通った瞳に涙が浮かぶ。俺は戸惑う。


 ずっと。


 俺は、ずっと真奈美さんの味方でいられるだろうか。


 美沙ちゃんが俺が真奈美さんにばかり優しくすることを嫌がったとしても、今の俺は真奈美さんの味方でいられるだろうか。中学一年生の真奈美さんに、ずっと味方だよと言って高校三年生の俺は味方でい続けられるだろうか。


「ずっとじゃないのね」


「真奈美さん……」




 俺は、目を覚ます。




 冬の朝の光が窓から差し込んでいた。泣きながら目を覚まし、涙でぼやけた視界に白い天井が映る。


「真奈美さん……」


唇から出るのは、おびえて俺にしがみついたあの人の名前。


 俺は、美沙ちゃんが好きなのか。それとも、真奈美さんが好きなのか。


 ときめく胸で抱きしめるのが恋なのか、苦しい胸で支えるのが愛なのか。


 俺の恋愛は、二つに引き裂かれる。




(つづく)

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