第76話 スローサイクリング

 あぶなっかしい。


 ものすごいハラハラする。


 長男として生まれた俺のお兄ちゃん回路が、オーバークロックモードで駆動している。でも、見守るしか出来ないんだろうな。これ。


 俺の前方数メートルを、真奈美さんと川底から奇跡の復活を遂げた自転車が進んで行く。しかし、真奈美さんと言えば二足歩行時もたまに首筋を掴んで方向修正が必要な生き物である。自転車の危なっかしさは、見ていられない。


 見ていられないものを、数メートル後ろからずーっと見ていなければいけない俺のお兄ちゃん回路は、溶解寸前だ。


 でも、声をかけて振り向いたら、補助輪を無視してひっくり返る。子供用自転車に乗った十八歳の重心は、補助輪で支えられるほど低くないのだ。


 俺に出来ることは、ゆっくりゆっくりと真奈美さんについていくことだけだ。




 始まりは今朝のことだ。




 真奈美さんに呼ばれて…正確には、由利子お母様が俺に電話をしてきたのだが…真奈美さんには、電話はもう少し練習しないと難しい。とにかく真奈美さんに間接的に呼ばれて、朝から市瀬家に行った。


「真奈美さん?」


「なお…と、くん」


行くと、庭に自転車の部品をずらりと並べて真奈美さんがしゃがんでいた。立ち上がって、俺の手を引く。


「自転車の…部品、そろった、から…」


「そうだってね。組み立てる?」


「…うん」


自転車の組み立てには、少し立派すぎる工具を借りて作業を始める。


 自転車と言えども、完全にバラバラな状態から組み立てるのには、時間がかかる。ひとつずつ、手順と向きを間違えないように組みつけて行く。グリスを塗るところには、ちゃんと塗ってはみ出した分はふき取る。


 俺がホイールにスプロケットを組みつけている間に、真奈美さんが例のチェーンガードに、霧吹きで水を吹き、つばめちゃん謹製の海賊版カッティングシートを貼りこむ。失敗しないかとハラハラしていたが、料理の腕でわかっていたように、基本的に真奈美さんの手先は器用だ。ちまちました絵でノートを埋め尽くす細やかさも持っている。ドライヤーを使って、段差も上手く伸ばしながら貼っていく。


 安心して、俺は籠の再塗装に入る。ダンボールを敷いて、ピンク色のスプレーを三十センチほど離れたところから、薄く何度も重ねるように吹き付ける。


 乾燥の時間は、お昼休み。


「サンドイッチ…つくるね」


真奈美さんが、手を洗って台所へ向かう。真奈美さん料理は、安心である。楽しみでもある。


 縁側にふたり並んで、組み立てかけの部品を見ながらサンドイッチと紅茶をいただく。安定の美味しさ。


「…あ、あのね」


「うん」


「じ、自転車…」


真奈美さんが、前髪の間から俺を見上げて話す。


「い、一度しか…乗れなかった…の」


あ。いかん。なにか、辛いことを思い出しそうになっている目だ。ニュータイプっぽい俺には分かる。


「これから、いっぱい乗ればいいんじゃない?」


今の真奈美さんには、この自転車は少しばかり小さすぎる気がするが身体に合うときには乗れなかったんだから、そこはがまんするしかない。


「う…うん…あ、あの…さ…」


今日の真奈美さんは、よくしゃべるな。そう思いながら、一生懸命に話す真奈美さんの声に耳を傾ける。


「…い、いっしょに…いく?」


「サイクリング?」


真奈美さんが髪を揺らしてうなずく。


 一緒に行きたいところだが、俺の自転車はいまだに水の下だ。それを引き上げようとしていて、真奈美さんの自転車を間違って引き上げたんだ。すごい偶然だ。


「行きたいけど、俺の自転車が今度は川の下なんだ」


「私の使っていいわよ。ちょっと女性っぽいお買い物自転車なんだけどいい?


いつの間にか、後ろに来ていた由利子お母様がそう言う。


「ちょっと、持って来るわね」


そう言って、カープールのほうにサンダルをひっかけて歩いていく。後姿はすらりとしていて、女子大生みたいだ。うちの親とたいして変わらない歳だとは思えない。いいなぁ。


「これなんだけど、いい?」


「ママチャリを想像してました。ごめんなさい。最高です」


カゴとライトのついたその自転車は、プジョーのシティサイクルだった。ものすごくお洒落だ。市瀬家は基本的にうちよりもお金もちなんだけど、それ以上にセンスがいい。


 それで、ふと気がつく。


 今、そこで坊ノ岬沖九十海里の海底から復活したみたいな真奈美さんの自転車は、市瀬家のセンスじゃない。市瀬家なら子供にでも、ビアンキとかを買いそうな気がする。


「その自転車って、真奈美さんが選んだの?」


真奈美さんが、だまってうなずく。


「あら。さすが、お兄ちゃんね」


俺の隣に、由利子お母様も座る。


「私、その自転車を買ったときしか、真奈美がわがまま言ったの覚えていないわ」


「ふーん」


ニュータイプの勘がお母様の言葉に裏付けられる。


「私の記憶だから、あてにならないけどねー。真菜ちゃんとは違うから」


「ああ。あいつの記憶力は病気です」


妹の記憶力は、知ってのとおり二十四時間三百六十五日完全録画だ。あいつ、いつか脳の容量超えてクラッシュするんじゃないかな。つーか、あいつの部屋に漫画とかあるけど、取っておく必要があるのか。たぶんあいつ、完全に再生できるぞ。


 そんなことを考えていると左腕に温かさを感じた。


「真奈美さん?」


「んー。おにーちゃん」


いつの間にか、真奈美さん的にも俺がお兄ちゃんになってるな。まぁ、あんまり間違っていないのでいいか。


「真奈美。お兄ちゃん、自転車見つけてきてくれてよかったわね」


「ん」


真奈美さんが俺の腕に、頬ずりする。真奈美さんは自転車のことになると、いつもに増して子供返りするな。それでも肉体のほうは、ちゃんと十八歳なのであんまり腕にすりすりされると、色んなところが当たるので、もっとやって欲しい。ちがう。困る。困るのだ。


「そ、そろそろ乾いたかな?」


そっと、腕を真奈美さんの腕の間と、とある柔らかパーツの間から引き抜いて再塗装したカゴを見に行く。


 うん。乾いている。


 マスキングテープをはがす。あとは、この剥げた金色の部分を金色のカッティングシートで復活させるだけだ。金色スプレーとどっちにしようかと思ったが、たぶん元はかなりキラキラの色だったはずだ。カッティングシートの方が近いだろう。


 カゴを持って、縁側に戻る。ドライヤーとカッティングシートで細かい作業に入る。下地がプラスティックだから、あまりドライヤーで温めるわけに行かずに難しい。


 真奈美さんが、食べ終わった食器を台所で洗っている。




 陽が傾く頃になって、ようやく形になった。


 車輪がついて、かごがついて、サドルがついて、チェーンをかける。変速機構が無い分、ディレイラーが無くてかえってチェーンをつけるのが難しい。


 かけてみると、チェーンラインがまっすぐになっていない。一度、後輪をバラす。大き目のワッシャーを噛ませて、少しだけ外に出す。今度は、チェーンラインも真っ直ぐになった。チェーンガードをつける前に、チェーンのコマ一つずつにメンテルーブをチビチビと注して行く。一周したら、ウェスでするすると一周ふき取る。


 チェーンガードをつける。


 ビビッドな色合いのチェーンガードがつくと、子供っぽい華やかさがぐっと増す。


 最後にクランクとペダル、それに補助輪をつけて完了。


「わぁ…」


真奈美さんが、後ろで嬉しそうな歓声を挙げる。


 真奈美さんの声に、怯え以外の感情が混じるのを聞くのは、けっこうレアだ。得した気分。


 ばふっ。


 抱きつかれた。


「おにーちゃん。ありがとー」


まさか、現実でこの台詞が聞けるとは…。これ、なんてエロゲ?


 現実とゲームの区別が少しつかなくなっていると、真奈美さんが離れて、自転車にまたがる。ジャージ姿なので、問題はないのだけど、髪の毛が後輪に達していて危ない。


「あ。真奈美さん待った」


「真奈美。ちょっと待ちなさい」


俺と、由利子さんが同時に真奈美さんをストップする。由利子さんが、ヘアブラシを持ってくる。真奈美さんを自転車にまたがらせたまま、腰より長いスーパーロングヘアを二人がかりで梳く。


「二つにする?」


「そうですね」


俺が左、由利子さんが右を担当して、せっせと三つ編み開始。


「直人くん、三つ編みもできるのね」


「子供の頃は妹のをやってましたから」


「真菜ちゃん、かわいいものねー」


ものは言いようである。今でも、小学生の頃と可愛いの方向性が変わっていないのだ。うちの妹は…。


 三つ編みを完了して、それをとぐろ巻きにする。超有名SF映画のお姫様がこういう髪型だったよなと思いつつ、頭の横で二つにまとめる。


 よし。


 これで危険なし。


「真奈美。できたわよ」


「う…うん…」


前髪まとめちゃったけど、大丈夫かな?


「夕食前に、近所を一周してくる?お兄ちゃん、一緒に行ってあげてくれる?」


「え、ええ。自転車借りますね」




 真奈美さんが、ふらふらと外に漕ぎ出して行く。


 自転車のサイズに比べて、さすがに手足のサイズが長すぎる。ものすごく不恰好だ。進路は左右にブレまくる。それでいて、乗っているのがセルロイド人形みたいな作り物じみた完璧美女の顔出しモード市瀬真奈美さんなのだ。なんのギャグだと言う状態だ。


 救いは、そのあまりに奇妙な事態に、行き交う人の注目が集まるのでふらふらと歩道を右に左にブレながら走っていても、歩行者のほうが避けてくれることだ。


 その後ろをハラハラしながらついて行く俺も超注目される。


 これ、俺が真奈美さんになにか特殊な羞恥プレイを強要しているように見えていないだろうか?


「真奈美さん。そこの公園で、一休みしよう」


真奈美さんのふらつきが大きくなってきて、補助輪があってもバランスが危なくなってきた。自転車を降りて、押しながら公園に入る。いつか、真奈美さんに遊具の中で抱きつかれた公園だ。


 二人並んで、ベンチに座る。真奈美さんは、ベンチの上に体育座りだ。


「ちょっと待ってて。飲み物買ってくる」


そう言って、自動販売機に向かう。お金あったかな…ぎりぎり百円玉二枚と十円玉六枚があった。


 俺は、コーラ。真奈美さんは…お茶かな?


「ちょっとすみません」


背後から、声をかけられて振り向く。おまわりさん登場。


 くっそ。どこの善意の市民だ。通報したのは?俺、そんなに不審だったか?なにそれ。超美人の真奈美さんを子供用自転車に乗せて、後ろから、俺が女性向けプジョーシティサイクルに乗ってついて歩くのってそんなに不審?いやまぁ、少しは不審だな。


「ああ。なんだ、君か?」


はい。俺ですよ。なんで、俺は警察に顔を覚えられているんだ。


 それは登場したおまわりさんが、例の俺が川に自転車ごとダイブしたときにお世話になり、なおかつ川から自転車をサルベージしようとしているときに強制的にお世話になり、さらに今回復活した真奈美さん自転車の拾得物を届けたときにお世話になったおまわりさんだからだ。そりゃあ、覚えられる。当然だ。


「なんです?」


「二宮くん、君、あの子とどういう関係?」


真摯に答えようとすると難しいことを聞かれた。


「同じ学校の友達です。市瀬真奈美さん。自転車を直したんで、サイクリングしてます」


「ああ…まさか、あの自転車、直したのかい?」


「そのまさかです。真奈美さんは、超物持ちがいいんです」


「ご協力感謝します」


ようやく、おまわりさんが立ち去って、真奈美さんに飲み物を届ける。


 少し残っていた陽も、最後の光になってきた。


 半分ほど飲んだペットボトルの蓋を閉めて、カゴに放り込む。二人で、また自転車に乗って、来た道を戻る。歩いても五分ほどの道を四分近くかけて戻る。




「ご飯食べて行ってね。今日、うちの人は遅くなるって言っていたから余っちゃうし」


二人で自転車を庭に入れて、縁側の柱にチェーンロックで繋いでいると、由利子お母様が声をかけてくれる。


「にーくん、ごはんっすー」


妹が居間から声を張り上げる。あいつ、また来てるのか…。まぁ、俺も来てるんだけど。


 洗面所に行き、先に真奈美さんが手を洗う。鏡に映る真奈美さんの顔は、セルロイド人形のそれ。だが、今日は運動をしてきたからか、少し頬に朱がさして目が少し柔らかい。完璧に整った顔に、ほんの少しの人間っぽさが混じり、俺の心臓が緊張する。


 これが前髪をどけた真奈美さんか…。


 真奈美さんが手を洗い終わり、俺も石鹸を手にとって洗う。


 ふと上げると、鏡の中に美沙ちゃんがいた。


「あ…」


脳裏に、先日の夜のことが思い出されて顔に血液が上がってくるのを感じる。


「お兄さん…」


小さくつぶやくと、体当たりをするように俺を洗面所の奥に押し込み、ドアを閉める。


 うわっ。やばいの?


 正直、びびる。


 美沙ちゃんが、俺のシャツを両手で掴む。そして、顔を胸に押し当てる。


 え?


 なんか、別の意味でまずそうな気配を感じる。


「また、お姉ちゃんにばっかり優しくしてる…」


「う…」


ぐうの音も出ない。俺は知っていたはずだ。美沙ちゃんが、俺が真奈美さんにばかり過剰に親切にするのを嫌がっていることを…。なのに、また丸一日かけて、真奈美さんの自転車を修理していた。美沙ちゃんをほったらかしにしてだ…。


 いや。美沙ちゃんと付き合っているわけじゃないんだから、束縛される道理が無いのはわかっている。だけど美沙ちゃんは理屈じゃない。感情だ。女子力最強は感情最優先。悪を正義に見せるには、理屈が必要だ。理屈を並べなくてはいけないなら、それは悪なのだろう。


「ごめんなさい」


あやまる。


「…なんであやまるんですか…」


泣いていた三島がフラッシュバックする。俺は、なんで何度もこんなことをしているんだ。呪われているのか?


「…お兄さん。なんで、私にだけは優しくしてくれないんですか?」


「え?そ、そうかな?」


「そうですよ。お姉ちゃんには、あんなに優しいです。真菜にだって、優しいです」


妹には頭を踏み潰したり、天井にぶちあてたりしているんだが。


「佐々木先生にまで優しいです。お母さんもお父さんも、お兄さんにとても感謝してるって言っていました。三島先輩が泣いたら、丸一日デートまでしてました。」


そう言って、美沙ちゃんの両手が俺の背中にまわる。ぎゅっと抱きつく。胸にヘヴンな圧力がかかるが、それも今は嬉しくない。


「優しくしてくれないのは、私にだけです…。なんでですか?」


なんで…か。


「それは…」


俺は答えを知っている。でも、それは言っていいのか。


「教えてください。私、どんなに傷ついてもいいですから…」


美沙ちゃん…。


 そうだ。言わないといけない。美沙ちゃんは、今でもずいぶん闇化している。リアル闇化は洒落にならない。もう、俺は地獄行きが決定するほど美沙ちゃんを傷つけている。


「それは…美沙ちゃんのことを好きだから」


「……」


「だから優しくしたりしたら、止まらなくなる」


美沙ちゃんの背中をさすろうとしていた手を横に下ろす。一度、その手で抱きしめてしまえば後戻りできなくなる。


 そうだ。


 だから、俺は三島とはデートしても、美沙ちゃんとはデートしないのだ。美沙ちゃんとデートしたら、止まらなくなる。二十四時間美沙ちゃんのことばかり考えてしまうようになる。真奈美さんが俺を必要としても、妹が俺を呼んでいても美沙ちゃんのことばかり考えるようになる。


 俺はどこかでそれを知っていた。だから、美沙ちゃんとはデートできない。


「…そうしたら、お姉ちゃんも、真菜も、三島先輩もみんなが傷つくから?ですか?」


「…わからない…けど」


「……」


美沙ちゃんの小さな頭が俺の胸に押し付けられる。


「お兄さんの心臓…ばくばく言っています。緊張してる…。おびえてる?」


「まぁね」


心拍数は百くらい行っていると思う。


「私を傷つけるのが怖いですか?」


「うん」


「私に抱きつかれると、緊張しますか?」


「うん」


「嬉しいですか?」


「うん」


「ちゃんと言ってください」


「美沙ちゃんに抱きつかれると、嬉しい」


「じゃあ、抱きついてあげません」


美沙ちゃんが離れる。顔を俺に見せてくれないうちにタオルを取って、可愛い顔をごしごしと拭く。眉根を寄せたまま、笑顔を作る。


「これからは優しくしてくれたら、抱きついてあげます。優しくしてくれないとだめです。もう、私からだけのサービスしませんからね!」


そう言って、ぱたぱたとダイニングに向かって走っていく。




 美沙ちゃんも…真奈美さんの妹だな。


 なぜか、そんなことを思った。




(つづく)

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