第75話 三島由香里

 勉強が忙しくなった。


 受験勉強に加えて、さっぱり分からない分野を学ばねばならなくなった。俺よりはマシかもしれない相手に教えを請うことにする。聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥という。一生の中で、こんな知識を使うのは最初で最後かもしれないが、一度でも知らねばならぬものは、知らねばならぬ。


 ということで、妹の部屋のドアを叩く。


「お願いがある」


「人にモノを頼む態度って知ってるっすかー」


ぶっ殺す。


 違う。殺意を抑えて、床に手をつき額をこすりつける。


「真菜さま、お願いです。無知で阿呆なこの兄めにどうぞご教授ください」


のし。


 妹の紺色のソックスを履いた足が、俺の頭に乗る。


「すこぉーしばかり、まだ頭が高いなぁぁあああ」


ぐりぐりぐりぐり。


 頭上から頭蓋骨を床にめり込ませる圧力と屈辱が加わる。


「ほーれほれほれぇえええーッ!こびろ、こびろーっす!わたし様に這いつくばってこびるっすーっ!」


ごすごすごすごすごす。


 ぷっつん。


「貴様ぁっ!いい加減にしろぉーッ!」


ごすんっ。ぐわぁん。


 立ち上がって、妹を高々と釣り上げる。天井からぶら下がった蛍光灯に妹ヘッドがヒットして、埃が落ちてくる。


「お、教えな、くていいっすか?」


「いや。すみません。教えてください」


「て、手を離すっすー。く、苦しいっすー」


「私めの頭は床より下に潜れないから、せめて真菜様の頭の位置をですね。お高い位置にお持ち上げしようかと僭越ながら思いましてのしだいでございます」


妹の襟元を掴む両手をまっすぐに持ち上げる。ごしごし。妹の頭が天井に当たる。こっちの頭も、これ以上は高い位置に行かなくなった。


「このくらいの上下差でご勘弁いただけるでしょうか?」


「い、いいから降ろすっすー」


妹を、そっとベッドの上に着地させる。


「に、にーくんはケンシロウっすか。アホっすか?」


「俺がケンシロウだと、お前の立ち位置がなくなるから、ラオウにしておいてくれ。そして、お前はジャギ」


「そういえば、ジャギって『兄より優れた弟など存在しねぇ!』って言ってるっすけど…」


「まぁ、ジャギなりにトキとラオウは認めてたんだな」


「そうっすね」


「いや、そうじゃなくて。教えてくれ」


そう、この妹に教えを請わねばならないのは三島対策だ。具体的には、三島デート対策だ。


「適当にやればいいんじゃないっすか?」


「そうは行くか。全力でやらねばならんだろう」


「全力でヤるなら一ヶ月くらい毎日出しておいて、デート前の一週間だけ溜めるといいらしいっすよ」


「そっちじゃないらしい」


「そっちだったら、美沙っちに電話をかけて三時間くらい留守にするっす」


いつのまにか、妹が召還魔法を覚えていた。


「お願いだからやめてくれ。そーじゃなくて、女子を喜ばす方法を教えてくれ」


「なおとー。あら。真菜の部屋に居たの?珍しいわね。なにしてたの?」


そこに母親がやってくる。


「にーくんが、私に女の喜ばせ方を教えろって言うっす」


「直人?」


「誤解を招く言い方をするな。そうじゃなくて、ちょっとクラスメイトと出かけるんで、なるべくいい思い出にしてやろうと思って聞いてただけだよ」


「…あら。直人、真奈美ちゃんはいいの?二股はダメよ」


「そうじゃないからっ」


真奈美さんは彼女じゃないし。


「二股どころか、にーくんは四股のハーレムルートまっしぐらっすよ」


「直人?あんた、本当にあのお父さんの子?」


「親父って、そんなにモテなかったの?」


「破滅的にモテなかったわ」


「なるほど」


まぁ、あれだけネガティブで覇気がなかったらなぁ。


「まぁ、いいけど。女の子を泣かしてもいいけど、一線は守りなさいよ。お母さんちょっと出かけてくるからね」


そう言って、母親がドアを閉めて階段を降りて行く。


 泣かすのはいいのか?いまさらダメと言われても、美沙ちゃんも泣いて、三島も泣いてしまった。まぁ、閻魔様の罪状リストにはきっちりと並んでいるんだろう。地獄で罪滅ぼしをするしかない。一度臨死体験をしている俺は、ある意味悟っている。


 それと、一線か。


 その線を見つけられなくて困っているんだよ。見つけられるものなら、一線ぎりぎりまで美沙ちゃんとイチャイチャしたい!


 あ。だめだな。美沙ちゃんは一線を踏み越えるどころか、ワープして飛び越えてくる。先日は非常に危なかった。というか、思い出しただけでいろいろムズムズする。思春期男子パワーが高まっている時期(婉曲表現)などは、惜しいことをしたなどと思ってしまうほどだが、人として間違っているので、自らを戒めたい。戒めた後、慰めたい。セルフ飴と鞭。


 話がそれた。軌道修正。


 妹に向き直る。


「それでさ。お前も、一応、本当に一応だが、女子だろ。どんなデートだと嬉しいんだ。甘々に甘やかしてくれと言われているんだ」


「んー。そーっすねー」


そう言って、妹が立ち上がり漫画と小説をいくつか取り出す。


「これの百七十八ページ目五行目八文字目からと、こっちの七十二ページ三コマ目からと…」


「ちょっと待て。メモさせろ」


妹が異常記憶をいかんなく発揮して読み上げる『女子がどきどきするはずの甘々デート描写』をメモする。


「…あたりが、読んでて『女子メンドクセー』って思ったとこっすから、そこを丸コピすれば完璧っすよ」


「めんどくせーって思ったのかよ」


「女子の喜ぶものは、たいがいメンドクセーっすよ」


まぁ、それは俺もわかる。


「萌えたとかじゃないのかよ」


「私は、めんどくせーっす。乙女ゲーとかやってらんねーっす」


なるほど。こいつはそうだな、と妹の部屋に並ぶエロゲタイトルを見ながら思う。


「女子的に完璧デートなら、私より美沙っちに聞いたほうがいいっすよ。美沙っち、女子力最強っすよ」


「美沙ちゃんに、俺が三島とデートする方法を聞くのか?」


「……。ぜったい聞いちゃダメっす」


「俺もそう思うんだ」




 そして、週末。


 駅前に向かう。妹の本に描いてあるような服は持っていないし、買うほどの金もないというか、買うとデートする金がなくなるので、仕方なくいつものジーパンに長袖のTシャツ。それにシャツを羽織って出かける。まず、出かける前に参考書どおりに出来ていないあたりが付け焼刃で敗北フラグを感じるが、勝利ルートはない。


 片道分だけの燃料を積んでの出撃。


 なんだろう。この悲壮感。


 駅前に着く。約束の十一時の十五分前。妹の参考書によれば、約束の時間よりも早く到着して、女の子が到着したら「ぜ、ぜんぜんお前のことなんて待ってねーし。じ、十五分も前からなんて来てねーし」と言わねばならないらしい。


 あれ?


 待ち合わせの時計台の下に、先客が居る。髪を二つに束ねた女の子だ。まぁ、待ち合わせに使いそうな場所だしな。仕方ない。それにしても、あの子いいスタイルだな。薄黄色のカーディガンに白地に青のストライプが入ったミニのプリーツスカート。それに黄色のロングソックスがすらりと引き締まった脚線美を彩っている。しかもツインテ。どんな萌えキャラだよ。二次元なの?二次元から抜け出してきたの?どこのLCDモニタから出てきたの?


 あんまり近づくと不審者扱いされそうだ。少し離れて、三島を待つ。


「に…な、直人くん、は、早いね」


「え?」


うおっ!?


 なんと、萌えキャラは三島由香里だった!


「み、三島っ!?」


「ち、ちがう…」


「ちがうのか?」


たしかにいつもの三島とは、ずいぶん雰囲気も違うし、ツインテだが、俺には三島に見える。


「そうじゃなくて、きょ、今日は…な、名前で呼んだほうが、それっぽいじゃない」


ああ。しまった。あまりに、三島がいつもの三島じゃない雰囲気だからつい勉強してきたことを忘れていた。


 そうそう。下の名前で呼ぶのは基本。


「そ、そうだな。えと…ゆ、ゆかり?」


「うん。な、直人…」


「……」


「……」


時計台の下で、ふたり向き合ったままうつむいてしまう。この距離でお互いうつむくと、三島の襟元から奥がちらりちらりと見える。らっきー。薄桃色の下着だ。


「ど、どこ行こうか?わ、私は直人の行きたいところでいいよ」


ちゃんと勉強してきたから分かっている。これの意味は『今日はどこで私を楽しませてくれるの?』だ。


 秋とは言え、まだ日差しは強い。日焼けが気になる屋外はだめだ。


「す、水族館とかどうかな?」


「うん…いいよ」


よしっ。今だ。いくぞ。気づかれないように覚悟を決める。


 おりゃあっ。心の中で掛け声をかけて、乾坤一擲の覚悟を持って三島の手を掴む。デートの最初に、さりげなく男の子の方から手を握ってリードするのだ。彼のほうから手をつないであげないと、女の子を困らせてしまうらしい。そう書いてあった。なるほどめんどくせー。妹に同意できる。だが、そういうものなら仕方ないのだ。


「ひゃうっ。に、にの…な、直人…」


「『なんだよ』」


漫画でイケメンは、こういう台詞を言っていた。


「な、なんでもないわ」


三島が握った手を握り返し、もう片方の手も俺の腕に添えてくる。


 うっ。


 この体勢になると三島の胸が、絶妙に俺の腕に触れたり離れたりするんだが…。


 水族館に行くために電車に乗り込む。それほど混んでいるわけでもないが、座れるほどでもない。ドア付近にふたりで立つ。そうだ。このシチュエーションも漫画にあった。丸コピするぞ。ドアを背にして立った三島に斜めに向かって片腕をドアについて、もう片手で手すりを握る。ゆるい壁ドン状態だ。


 つーか。これ。やっぱダメだ。


 なんだか、三島が手を胸のあたりに当てていて、ありえないことだが怯えて見える。


 身体を反転させて、三島と並んでドアにもたれかかる。電車が揺れるたびに俺の腕に、三島の腕がちょんっと触れる。


 するり。


 何度目かのときに、三島の腕が俺の腕に絡みつく。


「き、今日は、わ、私、にの…直人の彼女なんだから…て、手はつ、つないで…いるもの…でそ」


でそ?


 三島の手を振り払う。


 三島が、びくっとして手を引っ込める。身体の前でそろえる。その手を少し乱暴に掴んで引き寄せる。


「お前からつないで来たら、俺がお前の手を握れないだろバカ」


そう言って、三島の腕をぐいぐい引き寄せる。妹の持ってた漫画通りのセリフを言うことに成功した。自分で言って、自分でキモいと思う。こんなセリフをリアルに言う日がくるとは思わなかった。


「…う、うん。ご、ごめん」


三島が腕ごと身体を倒してくる。本当に妹の漫画にあったとおりのセリフが効果を出している。世の中、複雑なようでチョロいかもしれない。それにしても、このセリフは自分で言うと、けっこうな精神ダメージがあるぞ。俺、これで夕方まで持つのだろうか。


 水族館に到着する。学割で、チケットを二枚買う。そのまま入り口の係員に二枚まるごと渡してゲートを通過する。


 少しひんやりした館内。筒状の水槽の中をイワシが泳いでいる。魚屋さんで見ると食材だが、ここだと女の子とならんで鑑賞するものだ。魚屋さんでは食われる一方のイワシだが、ここではエサまで貰っているんだな、こいつら。イワシさんと、さん付けで呼んでやってもいい。


「…そ、そういえばさ。な、直人」


俺の右腕に捕まったままの三島が、上擦った声で話しかけてくる。


「うん」


「イワシが元気に泳がなくなった水族館で、イワシの水槽にカツオを放り込んでイワシに気合を入れたらしいねっ!」


「うん?」


「動物園とかさ!たいてい動物って昼寝してて、つまんないじゃん?アレもさ、鹿とかキリンとかの檻にライオンとか虎とか放り込んだら、元気に動いて面白いかもね!」


三島らしいと言えば、三島らしいが、いつもよりオクターブ上がった声は冷静さを欠いている。たぶん、こいつ、なにを言っているか自分で把握してない。意味が分からない。その動物園は面白くないと思う。惨劇だと思う。


 三島をこのまま暴走させると、帰ってから三島の黒歴史化する。思い出作りのはずが黒歴史作りになってしまう。


「由香里、無理しないでいいぞ」


「あ…。う、うん」


「一緒にいられれば、俺は楽しいから」


妹の貸してくれた小説にあった台詞だ。


「うあ…う、うん。わ、わたしも…嬉しい」


ふにゅ。俺の右腕に柔らかな圧力がかかる。うおお。三島、そんなにくっつくな。手はつなぐと言ったが、お前、それほとんど腕にパイズリみたいな状態になってるぞ。三島の胸が平らだからいいものの。それでも、妹に比べればかなりあるんだからな。あと腕の長さ的に、手を動かすと、すごいところに触っちゃわないか?俺の手!?


 精神力をいろいろな意味で削られながらも、水族館の少し湿度の高い館内を二人で歩く。


 俺も三島も、もともとあまりおしゃべりな方じゃない。


 ふたりで黙って、水棲生物を見て周る。落ち着いてきた。しゃべらなければ、妹の貸してくれた参考書で学んだ精神を削られる呪文を唱えずにすむ。楽だ。


 三島も、リラックスしてきたらしく、俺の手を握り締める力をゆるめる。指や手の甲を指先でもてあそびながら、ぶらぶらと見て歩く。


 ヒトデに触ってみようというコーナーで、ヒトデをひっくり返す。ふたりで並んで、ヒトデが起き上がるのを見る。


「意外と速いのね」


「もっと、植物みたいのかと思ってた」


ちゃぷん。起き上がってきたところで、もう一度ひっくり返す。


「怒ってるかな?」


「かもな?」


「ヒトデさんごめんなさい」


「ヒトデは…」


「海の星って書いてヒトデって読むのよね」


「うん。女子力高そうだな」


「近くで見ると小さな触手が生えてて、けっこうグロいあたりも女子力高そうね」


…女子は女子に厳しいな。まぁ、真奈美さんをいじめた連中を思えばヒトデに失礼なくらいでもある。あいつら、巨大イソギンチャクに放り込んでやりたいな。




 深海魚コーナーでオウムガイを見る。


「これって、アンモナイトとは違うのか?」


「違うわ。アンモナイトは、どちらかというとタコやイカらしいわよ」


「ニセモノめ。どこかにシーラカンスとかいないのかな?」


「生きたシーラカンス見たいわね。シーラカンスってバックできるらしいわよ」


「魚って、バックできないの?」


「だいたい出来ないわ」


「へー」


ふたりでいることに慣れて、緊張がほぐれてくると、いつもの三島が戻ってくる。違いは、俺の手を握ったり、腕にぶら下がったり、たまに首を傾けて肩にもたれかかったりしてくるくらいだ。


「海ガメね」


「肺呼吸のはずなのに、ぜんぜん息継ぎしないな」


「目が意外と可愛くないわね」


「丸いフォルムにだまされるけど、こいつ顔はけっこう怖いぞ」


「あと、子ガメのときの海に向かうしぐさにだまされてるわね」


「ああ。あれは可愛いな」


「鴨川シーワールドに行くと、たまに放流イベントがあって見られるらしいわよ。一目散に海に走る子ガメ」


「そうなんだ」


「……」


そこで、三島が黙る。


「…一緒に行きたい…けど、わがまま言っちゃだめね。もうずいぶん無茶言ってるわ」


「三島…」


「名前で呼んでくれるんじゃないの?」


「そうだった。由香里」


「直人…」


わっ。


 三島が目を閉じて唇を寄せてくる。すんでのところで避ける。軌道を逸らした頬にちゅっと冷たい感触が当たる。


「み、ゆ、由香里?」


「ふふふ…今のは、恋人だったらキスするタイミングじゃない?」


「そ、そうだけど…」


「キスは、オプション料金?」


「やめろ。バカ。マジで怒るぞ」


「怒るの?」


「怒る。キスとかはダメだけど、自分から、そんなこと言うな…今日は」


俺は、本当に三島の望みをかなえてやれない自分が嫌いなのだ。流されてしまいたい。実際、こうしてふたりで水族館を回るのは楽しい。神経がときほぐれていくような時間だ。


「うん。ごめんね。自分で水差しちゃった。好きよ。直人」


妹から借りた参考書だと、ここでは『俺のほうがもっと好きだ』とか言って、どっちの方が相手のことをより好きなのかを言い合って喧嘩しなければいけない。


 でも、今の俺はそれが言えない。


 照れる。


 ちょっとまずいな。電車の中では、まだ参考書どおりに漫画や小説の甘々台詞をコピーできていたのに、今は照れて言えない。


 それは、たぶん俺が三島のことを今日一日で少し好きになってきているからだ。


 今日の三島は、着ているものも髪型も女の子っぽくて(ツインテだ!)しかも繋いだ手の柔らかさ、押し当てられる身体の頼りなさが女の子だ。ほぼ黙って水族館を回って、たまに低いテンションでぽつぽつと話す。その空気の温度と速度が、とても自然で、まるでずっと三島と恋人同士だったみたいだ。


 あたりまえに隣にいて、あたりまえに手をつなぐ。


 そんな空気に俺は「好き」とウソをつけなくなってしまう。言えば、本当になってしまう。嘘が言霊を得て、本当になってしまう。




 イルカが跳ねる。尻尾で立ち泳ぎをしながら、ひれにボールを挟んでトレーナーに渡す。


「あれやってみたいねー」


「やってみたいなー」


「イルカさんが、ボール持ってばしゃばしゃやってくるとか、可愛くて悶絶しそう」


「トレーナーさん、満面の笑みだもんな」


「間違いなく営業スマイルこえてるよね」


「こえてるなぁ」


「ね。イルカさんと、私、どっちかわいい?」


「なに言ってんの?」


小型肉食恐竜ヴェロキラプトルとバンドウイルカさんのどちらが可愛いかなんて、質問としておかしい。


「私、直人にかわいいって言われたい」


隣に座った三島が、すっかり気に入ったらしい俺の腕に頬をすり寄せながら言う。ニコニコとすっかり和らいだ笑顔は、間違いなくかわいい。あのヴェロキラプトルがかわいい。イルカさんよりヴェロキラプトルがかわいい。


「う…うん。かわいいぞ。まちがいなくかわいい」


言って、自分の顔に血液が駆け上ってくるのを感じる。うあー。だめだ、こりゃ。


 三島に翻弄されそうだ。


 おかしい。俺が、一日限定彼氏になってあげてるはずなのに、いつの間にか攻守逆転していないだろうか。




 女の子って怖いな。




 水族館を出ると、陽が傾いていた。お互いに何も言わずに、手をつないで駅へと歩く。スイカをタッチして改札をくぐる。プラットホーム。電車。座席に座って、手だけは三島の膝の上で握られている。


「ついたな」


「…うん」


ふたり、電車を降りる。昼に待ち合わせた時計台の下。


「送っていこうか?」


「…ううん…いい」


「そうか、気をつけて帰れよ」


「……うん」


三島が、右手と左手で俺の手をひとつずつ握る。


「三島…?」


「二宮」


三島の瞳が揺れる。


「二宮。ありがとう。すごくすごく楽しかった」


「俺も、楽しかったよ」


「本当に?」


「本当だから困る」


「…そう。よかった。二宮を困らせられたのね」


「なんだそりゃ」


「だって、ずるいじゃない。二宮ばっかりモテてさ。私、市瀬さんに敵わないのは分かってたんだけど…」


三島が、俺の両手をぷんぷんと玩具のように振りながら、寂しそうに笑う。


「美沙ちゃんは…天使級の美少女だからな。でも三島だって、すごく可愛いぞ。それは、本当にそう思う」


「ちがうわ」


首を傾げる。ぐいっと握った両手を引き寄せて、俺の胸に額を押し付ける。


「敵わないって言ったのは、お姉さんの方よ」


「真奈美さん?」


「そうよ。相手が妹さんの方なら、もう少しがんばってたわ。でも、あの子が相手じゃ勝負にならないわ」


「真奈美さんは…恋愛とかじゃないよ」


「そのくらい、勝負にならないのよ…。私は…」


三島が背伸びする。


「私は、二宮のファーストキスだけでいいわ」


「え?」


三島の手がすばやく俺の頭を押さえる。


 そして。


 唇にぬれた感触。


 一瞬離れそうになって、するりと舌が入ってくる。


「んっ…ふぁ」


口の中で三島が柔らかに動き、するすると舌が絡みつく。女の子の甘い匂いが、口を通って鼻に抜ける。


「ありがとう。二宮。好きよ。大好き。じゃあね!」


濡れた音ともに、三島が離れる。そして、ひらひらと手を振って綺麗な脚で三島が走り去っていく。ゆれるツインテールは、瞬く間に見えなくなる。




 俺は、呆然と灯り始めた駅前のネオンの中で、ひとり唇に指を当てる。


 三島?


 三島とキスをした。




(つづく)

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