第10話 好事魔多し
好事魔多し、という言葉がある。
物事が順調に進んでいるときこそ、予期しない不幸が起こるということだ。
そのときまで、まさに好事ばかり続いていた。真奈美さんは、日に日に登校することに慣れて行ったし、美沙ちゃんと(妹がジャマだったけど)デートみたいな買い物をしに行った。明日の日曜日は美沙ちゃんと(妹がじゃまだけど)プールという順風満帆。素敵な高校二年の夏をエンジョイしてた。
そして、好事魔多し…。
いつものように真奈美さんを教室に送り届け、佐々木先生に後を任せ出て行こうとしたときだ。
「ひっ」
真奈美さんが、悲鳴をあげて椅子から転がり落ちた。
「お姉ちゃん?」
「どうしたの?市瀬さん」
「どうしたんだ?」
様子を見に、三人とも集まっていく。
「あっ。二宮くん。こっちに来ちゃダメ!」
佐々木先生に止められる前に、真奈美さんが這いよるように飛びついてきた。
「ぬあっ、ちょ…」
「ひぐっ…」
ぎゅーっ。けっこうすごい圧力でしがみつかれる。
「と、とりあえず、保健室に行くから。二宮くん。そのまま連れてきて」
「この状態で階段下りるの無理ですよ」
「真奈美さん?ちょ、ちょっとでいいから離れ…」
むぎゅうううーっ。
ダメだこれは。しかたない。
腰を落として、膝の裏に腕を差し込む。お姫様抱っこできる筋力が自分にあるといいなと願いながら持ち上げる。
あれ。つめたい。あ…そうか。それで、佐々木先生に来るなと言われたのか。
気にしてる場合じゃないな。
よたよた。よたよた。
「美沙さん。わ、悪いんだけど、掃除しておいて貰っててもいい?」
「あ、はい」
階段で転んだり、真奈美さんを落としたりすると大惨事だ。持ってくれ。俺の筋肉。
もっと筋トレとかやっておけばよかったなぁ。
よたよた。
保健室到着。
「コンビニで、下着買ってきたわ」
どこかに消えたと思ったら、コンビニに行っていたのか。佐々木先生。
「二宮くん。出てなさい」
「…えと、でも」
ぎゅうううううーっ。真奈美さんが離してくれない。あいかわらず、俺の胸に顔の形取りをしようと全力で作業中だ。
「じゃあ、目を閉じてなさい。開けたらダメよ」
「ぜったい開けません」
「ほら。市瀬さん。下着だけでも履き替えないと…」
ぎゅううううーっ。ごそごそ。
うわ。ごそごそ?
いや。エッチなことなんて考えてないよ。真奈美さんだからな。そういう対象以前の問題だし。でも、同じ学年の女の子なのは女の子なんだよな。
ぎゅううー。
視覚を遮られると、他の感覚が鋭敏になるよね。
やわらかいな。細いな。薄いな。これ以上、触覚に感覚が集中にしちゃうとやばいかも…。なんかいい香りもするし、リンスの香りともちょっと違うんだよな。嗅覚でもやばい。
「拭いているから、今は絶対目をあけちゃだめよ。二宮くん」
ふ、拭いているって、どこを?!聴覚も攻撃受けてる。想像しちゃって、よけいやばいよ佐々木先生。
がらがらっ。
「佐々木先生、とりあえず掃除してきました」
ああ、美沙ちゃんか…。え、美沙ちゃん?この状態やばいんじゃね?いや、事情を知っているから、まだマシなんだけどさ。それにしても。
「……」
やっぱり、俺、ニュータイプ能力に目覚めてる。美沙ちゃんのドン引きな空気感を感じるよ。私にプレッシャーをかけるとは!
「さ、目を開けてもいいわよ。二宮くん」
「だめですっ!」
美沙ちゃん?
「だめですよ。先生。まだパンツ丸出しじゃないですか」
「パンツはいてればいいわよ」
「だめです!お兄さんは、レベル99ですから。ちょっと待っててください。スウェットかなんか買ってきます!」
ぱたぱたぱた。
もしかして美沙ちゃんが戻ってくるまで、このままなのかな?
ぎゅぅうぅうぅー。ぐりぐりぐりぐり。
はいはい。ちょっと痛いから、力ゆるめてくれないかな。背中をタップしてみたりして。ぽむぽむ。
◆◆◆◆
結局、そのまま、二時間近くぎゅーぎゅーされた後、そぉっと引き剥がすことに成功して佐々木先生にタクシーを呼んでもらった。
帰り際、佐々木先生に呼び止められる。
「二宮くん、ちょっと…」
「はい…」
「思った以上に、いい男ね」
「い、いけませんよ。教師と生徒で」
なにを言い出すんだ、佐々木先生。
「思った以下に、頭悪いのね。そうじゃなくて…ね。多少卑怯でも臆病者でも頼りにならなくても、そのほうがいいこともあるの。だから、ただ今日のことも、このあとしばらくのことも、以前のこともなかったものだとしておいて頂戴。いいわね」
最後だけは、力の入った少し脅すような声だった。
「…でも」
「真奈美さんも、今、近くにあなたがいればいいのよ」
理不尽さと優しさ。佐々木つばめ先生は、優しい大人の人なのだ。
「…わかりました」
臆病な俺は都合のいい大人の入れ知恵に流される。俺は卑怯者で臆病者だ。そう思って、佐々木先生に先を読まれてたと気づく。
校門の先で待っているタクシーに佐々木先生と乗り込む。美沙ちゃんと佐々木先生で真奈美さんを挟むように座って、俺は助手席。
市瀬家につくと、真奈美さんはまた自分の部屋に閉じこもってしまった。またか。
◆◆◆◆
「お兄さん、今日はおつかれさまでした。たいへんでしたね。あの…これが…、姉の座っていた机に入ってました」
夕食をご馳走になって、家を出たところで美沙ちゃんが一枚の切った紙を渡してくる。予想通りのもの。
美沙ちゃんは、臆病者でも卑怯者でもない俺を期待しているのだろうか。
「…俺は、臆病だから」
「それでいいです。でも、お兄さん知りたいだろうなと思って」
なんで女の子って、こんなにさっさと大人になってしまうんだろう。年下なはずなのに、佐々木先生と同じくらい大人だ。
『勝手に座ってんじゃねーよ。ルンペン』と書かれた紙をポケットに押し込んで、思う。子供なのは、俺だけだ。
二階の窓を見上げる。
真奈美さん。ごめんな。
そのまま一言もしゃべらず美沙ちゃんと二人、駅まで歩く。
「あしたの日曜日」
「うん」
「プールとか行く気分じゃなくなっちゃいましたか?」
「うん俺は、ね。真菜は連れて行ってやってくれる?」
「…はい。まかされました」
「じゃあ、また、あした」
「…。はい。またあした」
◆◆◆◆
翌日は日曜日。補習もない。
不幸中の幸いだと言っていいかもしれないね。
「えー。にーくん、プール行かないっすかー」
「…ああ、考えてみれば、俺の海パンは買わなかったしな。あと、ちょっと今は真奈美さんを放置できない感じでさ」
市瀬家までは、妹と一緒だ。
久しぶりに、日が昇りきってからの街中。いつもよりも人通りが多くて、暑い。セミは、まだ鳴き始めていないから、夏本番という感じには少し欠ける。
「ぎぎぎ…今日は一日中、にーくんに美辞麗句を尽くして私のセクシー水着姿を褒めてもらう予定だったっすのに」
勝手な予定を立てるな。
約束の十時ちょうどに市瀬家に到着。呼び鈴を鳴らして、返答の前にドアを開けるという妹のいつもの無礼っぷり。
「美沙っちー。行くっすよーっ」
「あ。はーい。じゃあ、行って来るねー」
奥から、ぱたぱたと七分丈のシャツと、キュロット姿の美沙ちゃんが出てくる。かわいい。かわいい。
「あ、お兄さん。おはよー。行ってきますー。またあとでー」
かわいい。
美沙ちゃんとプールに行けるチャンスを棒に振るとか、自分のバカさ加減に呆れる。バカか俺は…。
「じゃあ。にーくん、またっすー。私のエロエロ水着姿を見ないとか、今晩のおかずに困るっすよー」
とっとと行け。おかずには困らない。エロゲがある。次はハーレムエンドだ。
それにしても、あの二人がきゃぴきゃぴころころ笑いながら走っていく姿はまぶしくてかわいくて、まさに高校一年生夏の思い出なう、といった風情だ。
さて…と。
こっちは、夏というより冬というイメージの夏しますかね。わけわからん?俺もわからん。
「おじゃましまーす」
玄関をあがり、そろそろ慣れた感のある廊下を進む。
「あら?二宮くん?」
「え?佐々木先生?」
居間に佐々木先生がいた。
「…」
佐々木先生が、きょとんとした顔でこちらを見ている。あまり見ない表情だな。おまけに、学校じゃないからか、いつもとは若干違ったカジュアルな服装をしている。そうしていると、ちょっと若く見える。まぁ、ほうれい線がうっすら浮かんじゃっているんだけど。
くすっ。
ほうれい線深くなった。言ったら処刑されるから言わないけど。
「言いつけを守って、たいへんよくできました」
「言いつけって…?」
「行ってらっしゃい。私が行っても緊張させちゃうだけみたいだったから」
「はいはい」
「返事は一回」
「へい」
「『はい』よ」
佐々木先生。真奈美さんを心配して、日曜日なのに家庭訪問に来たのか。
先生って…たいへんな仕事なんだな。
階段を上がり、真奈美さんの部屋のドアをノックする。
がちょ。
あれ?向こうから開いた。
「…きて…くれた…んだ」
「入って、いい?」
こくっ。
ドアを少し多めに開いてくれる。
促されるまま、中に入る。
昨日着ていたジャージとスウェットの下だけが床に脱ぎ捨ててある。今日の真奈美さんはパジャマ姿だ。
「…あ。ごめ…ん」
「なにが?」
「…きのう、掃除…しなかった」
「いや。毎日やらなくても」
ってか、毎日やってたんだね。道理でCGみたいなチリ一つ落ちていない部屋なわけだ。そのまま真奈美さんはベッドの上に上って、体育座りをする。また、この体勢に戻ってしまった。
「お風呂も…はいらな…かった」
「まぁ、いいんじゃない。一日くらい」
夏場は毎日入ったほうがいいと思うけど。まぁ、昨日は普通じゃなかったしね。
「……」
「……」
会話が途切れる。というか、会話にもなってない。とにかく、なんか話すことがなくなる。
どこかに話題はないかなと部屋を見渡す。
いつもと違うのはひとつだけ。ベッドの上の体育座り。
パジャマ姿だ。
ジャージのときは分からなかったけど、手足、長いんだな。背中を丸めてさえいなければ、すらっとしたモデルみたいな体形なのかもしれない。
不意に、昨日しがみつかれていたときの感触がよみがえってくる。やわらかくて、それでも華奢でしなやかな感触。
二十四時間経ってから、ようやく顔に血がのぼってきた。
この子に、抱きつかれていたんだよな。
「……ないで…」
「え?なに?」
真奈美さんが、なにかを言ったけど声が小さくて聞こえない。ベッドに片手をついて屈みこみ、耳を近づける。
「きらわないで」
「…なんで?そんなこと、しないよ」
「掃除…しなかった…し」
「だから、毎日じゃなくてもいいってば」
「お風呂も…」
「臭くないよ。べつに…」
まぁ、ほんのり甘い香りはするけど。どっちかと言うといい香り。なんの臭いだろう。女の子の臭い?フェロモン?
「それにわたし、昨日、学校…サボった」
「行ったじゃないか。ちゃんと」
「なお…とくんの言ったこと、ひ…ひとつも…でき…」
ひぐっ。ひぐっ。
うわぁ…。なんで泣くの?
「大丈夫だって。部屋は、俺の部屋の十倍は綺麗だし。俺の部屋は、片付けるとすぐに妹が散らかすからな!あいつ、すげーぞ。あと、別に真奈美さん、お風呂に一日入らなくても臭かったりしないから、大丈夫!」
女の子に泣かれると、慌てちゃうのは、あれかな。もう遺伝子に書き込まれているのかな。ホントに困る。本能レベルで、どうしようって思う。
「…おもらしまでして、迷惑かけて」
「迷惑じゃないよ。ってか、そういうときのために一緒に学校に行っているんだから」
「…じゅ、授業も受けずに…か…帰っちゃったし…」
「そんなに怖いのに行ったじゃないか。俺なら、漏らすほど怖いところには近づけもしない。真奈美さんはとても勇敢だったよ」
「…きらって…ない?」
「嫌わないってば」
「……」
「明日も、明後日も、来るよ。学校は、怖くなくなったらまた行けばいいよ」
またえぐえぐと嗚咽が聞こえてきた。
なんで泣くかなー。男のどうしよう遺伝子が励起されるよ。でも涙は心の澱を洗い流すとも言うしね。泣きたいだけ泣いてくれたほうがいいかな。
あと、なにをしたらいいんだ?誰か教えてくれ。あー。あれか。佐々木先生の言ってた「今、近くにいればいいのよ」ってのをすればいいのか。
とりあえず、近くにいますかね。暇だけど。
「漫画、貸してね」
ちょうどいいや。この間の続きを読もう。仲間がバクバク魔獣に食われてるところから。
埃一つ落ちていない本棚から、漫画を取り出す。本の立ててある裏側まで埃がない。本を抜いて、掃除して、またもどしているのか…。徹底してるなぁ。
床にクッションをしいて、ベッドに背中を預けて漫画を読み始める。
夏のいい天気の日に、なんという不健康な楽しみ方であろうかとも思うけど、まぁ、しかたない。お天道様の下に駆け出すには、助走が必要なのだ。
こわい。
俺は、ダークファンタジーの漫画を読んでいるんだが…。
後ろには髪の毛で顔を隠した女の子がしくしくしくしくしくしくしくしくって泣いていて、かすかな泣き声だけが聞こえて来るんだ。
これを怖いと言わずして、なにが怖くないのか。
だめだ。心の澱を洗い流すとか言ってられない。泣きやんでもらわないと。こわすぎる。
ぐるっと、振り返る。
そういえば真奈美さんの着ているパジャマ、貞子のパジャマに似てるね。こわい。
「真奈美さん」
「(しくしくえぐえぐ)」
「まぁーなみすぁーん」
「(しくしくえぐえぐ)」
肩を、つんっ。
「…ひぁっ」
「ね。真奈美さん」
「…えぐ…」
「わらってみてよ」
「……」
しまった。脅してしまったかな?今の俺は、真奈美さんの目から見て「無抵抗の村のラオウ」みたいになってないかな。そもそも笑っても、この前髪じゃ顔が分からないな。
前髪、どけてみていい?
手を伸ばして、真奈美さんの前髪を左右に分ける。
「……」
嫌がって、ない、よね。
「あ…」
なんとなく予想はしてたけど、やっぱり。
真奈美さんは、とても整った…というより整いすぎた顔をしてる。あの美沙ちゃんの姉で、あのご両親の娘なんだから不器量なはずはないんだけど。まさか、ここまでとは思わなかったな。
美沙ちゃんより、わずかに目尻が上がっていて、眉毛も目に近いのが表情以上に寂しそうな印象にさせてる。すらっと伸びた鼻は美沙ちゃんと同じだ。あごもすごく細い。美沙ちゃんも、作り物じみた可愛さだけど、真奈美さんは人によっては、不気味だと言いそうなくらい作り物っぽい。表情らしいものは、口元が不機嫌そうに「へ」の字をしているくらいか。
「笑ったほうが、いいと思うよ」
「え…う…」
あ、しまった。これじゃまるでホストのセリフだ。どこのレディスコミックだよ!自分の言ってたセリフの臭さに、顔が火照る。
「あっ。えっと、そ、そうじゃなくて。ほら、これ読んでる後ろでしくしく聞こえると、正直ちょっとこわい!」
「あ…う…うん…ご、ごめん」
「ああ。いや。いいんだ。いいんだけど、その。あの。」
だめだな。締まらない。
「う…うん。わら…う…ね」
真奈美さんが、無表情のまま言う。そして、口元だけちょっと歪めた。お世辞にも可愛い笑顔とは程遠い。むしろ、片側だけゆがめていて「にたりっ」という擬音が似合いそうな笑い方だった。
微妙。このくらい整った顔で笑えば可愛い予定だったんけど、世の中、そうはいかない。
ばさばさっ。真奈美さんが前髪を戻す。顎まですっかり隠れる。
「…はずかしい…」
下着姿でゲームしてたり、下着姿のまま部屋から出てきたりするくせに、顔を見られるのは恥ずかしいんだな。
恥じらい回路、人それぞれ。
これ以上、真奈美さんの素顔を見てるとパジャマ姿の女の子と部屋に二人きりとかが色々健康に良くないというか、むしろ健康な若い男女が二人っきりだったりするから、顔を隠すことには賛成。少し、冷静さを失っているな。俺。
漫画読もう。後ろは、静かになったしね。
今頃、美沙ちゃんは水着なのか…。あー。なんで、一緒に行かなかったんだろう。一生悔やむことにならないかな…。
(つづく)
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