第9話 おかいもの

 夏休み。補習の夏。


 赤点組の補習と追試が終わっても、真奈美さんの補習は続いていた。教室には佐々木先生と真奈美さんだけという日が多くなり、真奈美さんは日に日に足取りもしっかりしてきた。ばさばさの長い髪で顔もほとんど隠して、胸に抱きしめたカバンにすがるように背を丸めて歩くヤシガニ歩行スタイルは相変わらずだけどね。フラフラしたり、二分ごとにおなかが痛くなったりはしなくなった。


 よかった。


 夏休みの間、真奈美さんを毎朝学校に送り届けるのは意外なほど、夏休みの予定を阻害しなかった。朝十一時から午前三時の休み中の活動時間が、真奈美さんの補習の終わる十二時半から午後十一時までになっただけだった。さすがに、午後十一時以降に予定を組んだりはしていないし、午前中から遊ぼうぜという予定もめったにない。


 真奈美さんが補習を受けている間の四時間…これが、美沙ちゃんと過ごせる時間で実にいい。美沙ちゃんの言うところの「デートみたいな」時間なのだ。


◆◆◆◆


「バターが柔らかくなりやすいから、夏はクッキーとか作りやすいの。こっちのがチョコチップ入りでー、こっちがプレーン。食べてみて。食べてみて。」


今日の夏休み学食デート”みたいの”は、美沙ちゃんの手作りクッキーつきだ。可愛くて、しかもお菓子作りも上手。俺に対する話し方も、固さが取れてきた。なんだか、こうしてデート”みたいの”をしていると、本当に付き合っているんじゃないかと勘違いしそうで、幸せ度がヤバい。


 というか、これ、意外に告白したらオッケーもらえないかな。


 いや。やめておこう。


 これで振られたら、毎朝真奈美さんを迎えに行くのが気まずくなる。いいじゃないか。これでも幸せなんだから。”みたいの”でも。


◆◆◆◆


「あ、そろそろ時間だ」


「もうお昼ですかー。早いですね」


名残惜しいが、学食デート”みたいの”を切り上げて真奈美さんが補習を受けている教室に向かう。教室の後ろの扉をこっそり開けて様子をうかがうと、ちょうど補習が終わったところみたいだった。


「ちょうど終わったところだから入ってきていいわよ。二宮君、美沙さん」


佐々木先生に気づかれた。


「どもっす」


「しつれいしまーす」


佐々木先生もご苦労だな。夏休みなのに、ほぼ毎日補習を担当してくれている。専門じゃない数学や社会まで教えてる。


「それじゃあ、市瀬さん。この試験問題、明日までに一度解いておきなさい。明日、これをもう一度やるから。これ中間試験の問題だからね。わかった?」


「…はい」


真奈美さんに宿題を渡して、佐々木先生は教室から出て行く。


 今日も無事に終わった様子。


 後は、真奈美さんを市瀬家に送り届けて本日のミッションクリア。


 真奈美さんは、使っていた教科書とノートをプラスティックの書類ボックスに入れて、それをさらにタオルで包んで、ビニール袋に入れてからカバンにしまう。最初見たときは面食らう慎重さだったが、まぁ、個人の自由だし、したいようにすればいいよね。


「…おまたせ…」


「んじゃ、帰ろうか」


 三人で連れ立って、まずは駅へ。


 昼になると、電車の本数も少なくなり、それなりに待つ。線路を挟んだ向かい側のホームでは、楽しそうな女子高生三人組がきゃぴきゃぴと話している。うちの学校で見たことがあるようなないような…。あっちの電車に乗ると三十分くらいで都心に行く。買い物にでも行くのかな。


 ホームの壁際に立つ俺のさらに壁際の真後ろに真奈美さん。今日はヤシガニ・スタイルではなく、ウツボスタイルを目指しているみたいだ。一メートル弱離れた右に美沙ちゃん。


「美沙ちゃん」


「はい」


「あと一歩、こっちに近づいてみない?」


「え?いいですよ。なんでですかー?」


くすくすと笑いながら美沙ちゃんが一歩寄って、俺のすぐ横に来てくれる。まっすぐに下ろした手が触れるぎりぎり寸前の位置。ここも、まだデート”みたいな”距離。幸せみたいな位置。同時に真奈美さんの前を俺と美沙ちゃんの壁ができて、ウツボスタイルが完成する。サンゴ礁の穴にかくれるウツボさんだ。


「もう一歩近づきましょうか?お兄さん」


くすくす。


 美沙ちゃんが、そう言いながらこちらに体を揺らす。俺の左腕と美沙ちゃんの右手がかすかに触れて、離れる。


 心拍数どばんっ。


 どどどどどどどどど。


 今日は暑いねー。五〇℃くらいあるんじゃない?


「ふふふ」


美沙ちゃん、小悪魔。これを小悪魔と言うのだ妹よ。白塗りの顔にバットマークをペイントして、紫色の舌をべろーんと出しながら「かはぁっ!ファーック!」って言うのじゃない。


 ホームに暑苦しい音を立てて、ステンレスの列車が滑り込んでくる。ガラガラに空いている。夏休みになったからと言って、朝の混雑はあいかわらずなんだけどな。


 電車に乗り込むと、真奈美さんは連結部のドアの前にカバンを抱えたまましゃがみこんだ。


「お姉ちゃん?大丈夫?シート空いてるよ?」


「……」


返事がない。ただのヤシガニのようだ。


「具合悪くなったら、早く言えよ?」


ヤシガニ真奈美の丸めた背中に立ったまま手を置いてみる。ちょっと低いな。真奈美さんの奇行の理由をいちいち深く考えないことを覚えた美沙ちゃんは、カバンから残っていたクッキーを出してポリポリ。「お兄さんも食べる?」のアイコンタクト。いただきます。


 食べ物食べて、もぐもぐしてる美少女ってかわいいよね。


 列車は進む。次の駅で乗ってきた乗客が一瞬、ジャージで出来たヤシガニさんに目を向けるが無視してくれる。都会の人たちの優しい無関心にありがとう。どうせ、あと一駅。


 若干青ざめた真奈美さんに立ち上がってもらって、てくてくと市瀬家に向かう。真奈美さん、具合悪そうだな。早く寝るといいよ。たぶん。


 市瀬家到着。


 いつものように真奈美さんは、自室直行。今日は、俺もついて二階に上がらせてもらう。部屋に入るとベッド直行。まるまるまるまりヤシガニさん。


「この間言ってた漫画、読んでっていい?」


夏休み前にコンビニで言ってたことを思い出して、ダークファンタジー漫画を読むことを思いつく。


「…う、うん。いいよ」


真奈美さんが、本棚の奥の列から出してくれる。漫画が増えてくると、本棚って二重構造になるよね。奥の列と手前の列の。この漫画は気が付いたころには、すでにけっこうお話が進んでいたから、最初のほうとか読んでいなかった。何年続いている漫画なんだろう。一巻の奥付を見ると、二十二年前だった。最新刊は三十六巻。全部読んだら日が暮れるな。


◆◆◆◆


「お兄さん、夕食食べていきます?」


二十五巻の途中で日が暮れかけた。


「え?あ、いや、さすがに昼も夜もご馳走になるわけには行かないし…おいとまします」


「あらー。いいんですよー」


「いえいえ。すみません、読み始めたら終わんなくなっちゃって」


「……」


残り十一冊を本棚に戻し、挨拶をして市瀬家を辞する。


 日が長いおかげで、七時を過ぎてもそれなりに明るい。明かりの残る空と街頭の光。微妙な色に染まる雲。綺麗な空だなー。


 頭の上にはいつでも、雲とか、空とか、夕日とか、流行歌の歌詞に出てきそうなものばかりが浮かんでる。もう少ししたら月と星だ。アスファルトと自分の前髪と俺の顔より、いいものが空に浮かんでる。


 真奈美さんは、いつから雲とか空とか見上げていないのかな。


「おにいさんっ」


とん。


 不意に肩をたたかれる。


「あれ?美沙ちゃん?」


「コンビニに行くって言って、出てきちゃいました。駅まで一緒に行きましょう」


ワンピースの襟元がまぶしい。あ、いかん。視線を落としちゃだめだ。女の子は視線に敏感なんですよとしかられてしまう。


 しあわせだ。デート”みたいの”だ。


「お兄さんはさ…」


「う、うんっ」


声が上擦った。しまったー。


「…優しいですよね。ちょっとだけ姉がうらやましかったです」


「?…なにが?」


「とぼけちゃって」


くすくす。小悪魔くすくすだ。


 駅が近すぎる。駅まで十キロくらいあればいいのに。


「それじゃあ、明日も朝六時半ですね」


「あ、いや。明日は、六時で…」


「そうですか?」


「うん」


 美沙ちゃんと別れて、改札を通る。真奈美さんのご両親からスイカを貰ってる。たっぷりチャージされているやつ。


 振り返ると、まだ美沙ちゃんが改札のところに立っていて、肘から先だけ持ち上げて手首だけのばいばいをしてる。


 今日も美沙ちゃんが可愛すぎて、生きているのが幸い。辛いじゃないよ。幸い。


 自室のドアを開けると妹がエロゲをやってた。


「ひゃうぐっ!」


がしょんっ!妹が椅子ごと転んだ。


「おびょっぶっばっ!」


すごい勢いでパンツを隠す妹。


「お、お、お、おにい…にーくん、おかえり」


「…う、ん。ただいま」


「…っす」


遅い。


 パソコンの画面を見ると、貧乳同級生キャラ野村有紀のクライマックス・イベントCG回収中だった。別の言い方をすると、エロシーン真っ只中だった。俺が選ばなかったほうの「正常位でするぞ」を選択したんだな。初めて見るCGだ。


《んはぁ…おくぅ…おくがいいにょぉおおお。あっあっん…も、もっと、もっとぉ…》


オートモードにしてやがったな。パソコンが全自動であえいでるぞ。


「に、にーくん!けしからんっす!なんすか、これは!破廉恥っす」


やってたのは、俺じゃないんだが。


「は?お前、知ってたろ。これ。てか、先日、俺の精神を破壊するのに使ったよね」


「うるさいっすーっ。だいたい年頃の妹がいるのに、エロゲとか!配慮が足りないっす!青少年の目に入ったらどうするつもりっすか!きちんとゾーニングするっす!」


そのゲームは、引き出しを引き抜いた下に隠しておいたよ。隠し場所から発掘して、わざわざ起動して、さらにシナリオを進めたのはお前だろ。


 これを理不尽といわずして何と言おう。


 妹が将来、エロゲ規制推進のモンペになったりしないように教育しておいたほうがいいんだろうか?


「で。それのどこがいかんのだ?」


「え?え、エロいじゃないっすか?」


「それって悪いのか」


「え?だ、だって…」


「エッチが悪なのか?お前、ちゃんとシナリオ読んでるのか?まさか、スキップモードでエロシーンが始まるまで早送りしたのか?」


「んなわけあるっすかーっ!どんだけ溜まってるっすかーっ」


「じゃあ、なんで主人公が有紀ちゃんとエッチしてるのが悪いのだ?」


「い、いや…その…」


そう。たしか、このヒロイン野村有紀と主人公は相思相愛になって、あちらこちらでいちゃこらして、いつになったら助けが来るか分からない状況の中で、お互いにもっと愛情を伝える方法がないかと探しているのだ。キスだけじゃ愛情表現足りないから…という流れでエッチに至っているはずだ。


「『エッチなのは良くないと思います』とでも言うのか?」


「うう…にーくん…」


あ、涙目になった。最近こいつ、情緒の振れ幅でかいよな。


「ま、わかったら、ちゃんとセーブして終わっておけ」


肩をたたいて勘弁してやろうとした。したら…


「ひょうぅーっ!」


ばっ。妹が壁まで飛んでった。


「な、なにをするっすかーっ」


「え?いや。肩をたたこうかと…」


「き、気安く年頃の妹にさわるんじゃねーっす!ばーか!しねーばーかばーか」


がさささささ。ばたんっ!


 壁際をゴキブリのごとく超スピードで駆け抜けて、部屋から出て行ってしまった。


《んあーっ!くるぅ!きちゃううぅうーっ!》


 差分も含めてCG回収。セーブしとこ。


 夕食後、風呂に入って部屋に戻ると携帯電話のLEDが点滅していた。着信アリ。


 だれからかと思って開くと、美沙ちゃんからだった。風呂に入っている間に電話があったのか…。えと、この番号に通知アリで発信する…と。


 ぷーぷー。話中。


「ひゃはははは」


 隣の部屋から笑い声が聞こえてきてる。


 さては美沙ちゃん、妹と話してるな。


 ま、いいや。


 ベッドに転がって、読みかけの小説を手に取る。美沙ちゃんに貸してもらった「あなたを作ります」。リンカーン型のロボットとかが出てくる話。リンカーンと言っても、自動車のリンカーンじゃない。エイブラハム・リンカーンだ。アメリカ大統領。ヒトそっくりに作ったロボットを『シミュラクラ』と小説の中では呼んでいる。怖がるべきなのか郷愁を感じるべきなのか、不思議な雰囲気のお話だ。


 二ページほど読んだところで、意識が遠のいた。早起きしているから、毎日すんなり眠くなる。


 ぶぶぶぶぶぶぶぶ。


 わっ。


 携帯電話の震える音で目を覚ます。


「ふぁい…」


『あ、お兄さん。寝てました?ごめんなさい』


「あ、いや。だいじょうぶ」


そうだった、妹が電話終わったらかけなおそうと思ってたんだった。


『あの…メールでもいいかなって思ったんですけど、で、電話しちゃえって思って…』


「う、うん。なに?」


電話だと少し話し方が違うな。いるよね。そういう人。なんだか、緊張しているみたいな声。


『明日なんですけど。午後、真菜と買い物に行くんです』


「そうなんだ。じゃあ帰りは、俺ひとりで送るよ」


『あ、そうじゃなくて…えと』


「ん?」


『お兄さんも、いっしょに行きませんか?どうせ、私もいったん家に帰って、着替えてから出ますし』


「いいの?」


なんか、女の子同士の買い物に俺が混じっちゃ悪くないかな。妹にも「年頃の妹に配慮が足りないっすー」って言われたばかりだしな。


『あ、あの…。ほ、ほら、真菜も女の子が行くようなお店とかって、あんまり楽しそうにしないから、お兄さんと一緒のほうがいいかなって思ったんで…。あ、あの別に、お兄さんがオマケってワケじゃないんですけど…』


あーそーね。あいつ女子力ゼロというか、女の子の買い物にまったく興味ないからね。自分が女の子のくせにね。


「そっか。それじゃあ、一緒に行こう」


美沙ちゃんから、お買い物に誘われちゃったよ。妹のオマケだけど。


『は、はいっ!そ、それじゃあ、明日!おやすみなさい』


「ん、おやすみー」


「…っ。お、おやすみなさい…」


電話を切って、ほどなく眠った。


◆◆◆◆


 変な夢を見た。




 エロゲの舞台になってる無人島で、貧乳同級生ヒロイン野村有紀と逃げていた。なにから逃げているかといえば、妹だ。鉄パイプを持ってヒロインを襲ってくるんだ。


 ジャングルを駆け抜け、逃げ込むのに適当な洞窟を見つける。


「直人くん、あそこ!」


「だめだよ!妹だって、あそこしか逃げ込むところはないと思うはずだ!袋小路になる。こっちだ」


 茂みのさらに深いほうに、走りづらいほうに逃げる。


 茂みをしばらく抜けると海岸に出た。まずい。身を隠すところがない。


「見つけたっすーっ!」


二メートルほどのがけの上から妹の叫び声が聞こえた。


「走るんだ!有紀!」


「にーくんっ不潔っすー。しねーっ!」


鉄パイプを振りかぶり、妹が跳躍する。


「お兄さん!あぶないっ!」


いつの間にか、浜辺にいた美沙ちゃんがレーザー銃で鉄パイプを撃つ。真っ赤に発熱した鉄パイプは溶解して、飛沫になってヒロインに降りかかる。白煙を上げてヒロインが溶けていく。熱で合成樹脂製の肌が縮んで、その下から金属とジュラコンで出来た構造材が現れる。降り注ぐ鉄パイプの熱で金属とジュラコンが膨張し、膨張率の違いに軋みながら歪んでいく。絶縁メッキされた極細の電子ケーブルが、はじける。


 それを見ながら俺は、「そうだこの子はシュミラクラだったっけ」と思っていた。


「お兄さんっ」


ビキニ姿の美沙ちゃんが駆け寄ってくる。見事な揺れっぷり。俺の夢グッジョブ。


 そこにやしの木から真奈美さんが下りてきて告げる。


「あなたの妹も美沙も、ぜんぶシュミラクラなのよ。本物の人間は私だけ」


「そんなばかな?証拠は?」


「妹さんと美沙のおしっこしてるところ見たことあるの?」


「ないけど」


「シュミラクラだからおしっこしないのよ」


「真奈美さんのも見たことないよ」


「すぐに見ることになるわ」


「……」


「なおとくんは、シュミラクラの方が好きなのかしら」


 本当に変な夢だった。


 朝、五時十二分。目を覚ました。


◆◆◆◆


 フラフラと真奈美さんが歩く。相変わらず魔眼じーで、前髪の隙間から俺のほうをにらんでばかりなので、電柱などに突撃しないように時折進路を修正させる。その横には天使の美沙ちゃん。いつも饒舌な美沙ちゃんだけど、今日はなんとなく無口だ。話題がないのかな?ちらちらと話を始めそうになっては、止まっている。


 昨夜の変な夢の話をしようとして、おしっこだったり美沙ちゃんのビキニ姿だったりで、とても話せないなと気づく。美沙ちゃんは、本当に整った顔をしてる。すごくシンメトリーだし鼻の形とか自然の造形とは思えないくらいだ。


「シュミラクラじゃないよね。美沙ちゃん」


つい変なことを口走ってしまう。


「あっ!読んでいるんですね!あれ読むと、『この人、本当に人間なのかしら』って思っちゃいますよね!」


いい話題を見つけたとばかりに、美沙ちゃんが話し始めてくれる。いつもの朝の空気。


 いつもの学食。


 いつものデート”みたいの”。


「ところでさ」


「はい」


「今日の買い物って、なにを買いに行くの?」


「お兄さん、妹がいるわりにわかってないんですね。あ、真菜が妹じゃだめか…」


「?」


「女の子の買い物は、なにか買いに行くわけじゃないんです」


買い物という単語に挑戦状を突きつけているな。まぁ、わからなくもないけど。


「まぁ、でも、今日はちゃんと目的があるんだけどね。でも、お兄さんには教えてあげない」


ぺろっと舌を出す美沙ちゃん。


 くすくすくす。


「っていうか、お兄さんの反応を見るのが今日のメインディッシュだから」


くすくすくすくす。


「?」


美沙ちゃんの小悪魔笑いに胸の奥から湧き上がる萌え心を感じる。そこに雑な声が聞こえてきた。


「つーか、フケちゃえばいいじゃんー」


「そういうわけにもいかねーだろー」


がやがやと数人の女子生徒が学食に入ってくる。三人とも私服だ。一応、休み期間中でも学校に来るときは制服を着ろという規則なんだけど、まぁ、守るのは半分くらいか。


「なんかさー。紙コップで出てくるコーラって、まずくね?」


「あー。まじーよねー。くそまじーよねー。金返せって感じ」


「なー。このお客様カードってのに、まじーって書いたら金返してくれるのかな」


お前ら、もう少し綺麗な言葉を使えよ。女の子だろ。うちの妹だって、もう少しマシというかあれは変な方向だけど。ちなみに、理想は美沙ちゃん。


 ん?


 あいつら、あれか。昨日、駅の反対のホームにいた連中か…。ふーん。


「お兄さん。そろそろ時間ですよ」


「そっか。あ、あのさ。ちょっと先に教室行って真奈美さんに待っててもらって…。ちょ、ちょっと」


「あ、はーい」


美沙ちゃんが、ぱたぱたと先に駆けていく。


 さてと、こっちはちょっとお願い事…。だめかな。効果ないかな。


 お願い事を一応すませて、教室に追いつく。


◆◆◆◆


「あ、きたきたー」


と美沙ちゃん。


「あれ?佐々木先生。まだいたんですか?」


「悪いの?」


「いや、悪くないっすけど。いつもは補習終わると、すぐ行っちゃうじゃないですか」


「ばかね。補習が終わると行ってるんじゃなくて、二宮君にあとを任せて行ってるのよ」


「あー。そうか」


「じゃ、あとお願いねー」


ひらひらと手を振って佐々木先生が出て行く。佐々木先生のおしりってエロいよな。タイトスカートにストッキングの組み合わせがエロいのか。


 夏も本気出してきた。


 帰り道の暑さは本物。


 真奈美さんは、五月のころからずーっと同じ長袖ジャージ。あと、髪の長さもすごいことになってきてる。長さは胸の下くらいまでなんだけど、後ろだけじゃなくて、その長さで前にも来てるからな。皮膚の露出している部分がすでに手しかない。もう少し髪が伸びると、UMAみたいになりそうだ。


「暑くないの?」


「…あつい」


「見てるこっちが暑苦しいよ。お姉ちゃん。髪、切ったら?」


「……やだ」


そっすか。


 市瀬家到着。


「美沙っちー、おかえりー遅いっすー」


妹が、アイスのスプーン片手に出迎える。お前、なに他人のうちで自分ち感出してんだ。こいつの失礼さはあいかわらずの超次元級だな。


「ごめーん。あ、すぐ着替えてくるから待っててね。お兄さん」


ぱたぱたぱたぱた。


ごすっ。痛い。グーパンチはやめろ、妹よ。


「階段を駆け上がる美沙っちを見る目が犯罪っす」


「見えないから!階段くらいじゃ」


「試したってことっすね」


「うっ」


「あと『待っててね。お兄さん』ってなんすか?まさか、一緒に行くつもりっすか?」


「美沙ちゃんに誘われたんだよ。悪いのか?」


「聞いてないっすー。うー」


ごすごすごすごす。いたたたた。


「真菜。なんでお兄さんをボコってるの?」


美沙ちゃんが、空色のノースリーブワンピースに着替えて降りてきた。すげーかわいい。お嬢様風。


「この者は、美沙っちのパンツを見ようとしたでござるっすよ」


「してないでありますよ!」


動揺して、変な日本語になった。


「え?」


ほら。美沙ちゃん、どん引きしてる。


「してないからね!冤罪だから!」


くっそ、こうやって人生を破滅させられるオジサンとかが出るのか。妹はちゃんと更正させる。神に誓う。


「ほんとですか?」


「本当だよ!パンツ見ても仕方ないじゃん」


脚は見たくて見たけど。


「そのわりには顔、真っ赤ですよ。なにを見たんですか?」


く…誘導的な尋問で自白を引き出す戦法だ。やられはせんぞ。


「美沙ちゃんのお人形みたいな脚」


今度は美沙ちゃんが、真っ赤になった。


「見るっす。美沙っち。にーくんはレベル99っす。ステータス画面を開けるものなら、開いて脚フェチLV99になっているところを見せてやりたいほどっす。スケベメーター、カンストしてるっす。マジでこれを今日の買い物に連れて行く気っすか?」


人を指差すな。


「い、いいじゃない。脚くらい。真菜だって、そんな短いホットパンツ履いてるんだし。ねっ」


そういえば、今日の妹はホットパンツだったな。こいつが着ているものには、毎回「今日はどんなネタTシャツを着ているのかな?」くらいしか興味がないからな。


「脚フェチのくせに、私には無反応だったっすー」


「妹に反応しないだろ。ふつー」


「お兄さん。だめです。女の子は、妹でもちゃんと言葉にして褒めてあげないと。お兄さんは、そういうところがダメです」


そう?美沙ちゃんを可愛いと思うたびに言葉にして褒めていたら、それこそ大変なことになる。


「じゃ、行きますかー」


「あ、真奈美さんは、どうする?行く?」


一応、聞いておかないとね。


「……」


ふるふるふるふる。


 だよねー。


◆◆◆◆


 三人で駅まで歩き、そこから三十分。都心の駅ビルへ…。


 いつきてもすごい駅だよな。東口が三つくらいあるぞ。あと、駅ビルというか、駅と合体している施設がどんどん巨大化して、隣の駅が飲み込まれそうになっている。南口のホームの端から、次の駅のホームの端が見えてる。隣の駅は、早晩なくなるな。


「んで、今日は、なにを買いに来たの?そろそろ教えてくれよ」


「こっちっすー」


妹がスポーツ用品店へとすったすったと歩いていく。


「真菜。ちがうから。そっちでも売ってるけど女子力足りないから」


がしっ。美沙ちゃんが、妹のTしゃつの襟を掴んで制する。


「美沙っちー。以前から、美沙っちに教えようと思っていたっす」


「なにを?」


「いいっすか?世の中の買い物は、だいたいスポーツ用品店か、キャンプ用品店でやっていれば間違いないっす」


「そんなわけないでしょ」


「そんなわけあるか」


「だから女子力低いのよ」


「だから男子力上がるんだ」


俺と美沙ちゃんは以心伝心だ。価値観が共有できてる。


「うっわ。ステレオっす。いーや。負けないっす。いーっすか。スポーツ用品とキャンプ用品はだいたいが人類の英知の生み出したハイテク素材で出来た丈夫で長持ち、軽量快適なサバイバル能力の高い衣類とバッグとシューズが売っているっす。見るっす。私のこの足元っ。耐衝撃ジェルの入ったソールにゴアテックスで通気性と防水性を同時に実現したスニーカーっす。翻って、美沙っちの足元を見るっす。」


かわいらしいミュールじゃないか。とてもいいぞ。


「そんなのでゾンビが追いかけてきたら、どうやって逃げる気っすかー」


「ゾンビ、追いかけてこないと思うわ」


「それより、お前のゲーム脳をどうにかしないと」


美沙ちゃんが妹の襟を掴んだまま、エスカレーターへと連行する。


 上から、きらきらの女子力高そうなお姉さんが降りてくる。


 ん?


 ちょっとまて。


「美沙ちゃん、この上は…うわ。ちょっと、ここに俺も行くの?」


女性用水着売り場だ。


「美沙っち、まさか、ここに私も行くっすか」


いや、お前はおかしくないだろ。


「だって真菜。あさってプール行こうって言ってたじゃん」


「だから、スポーツ用品店っすよー。水泳というのは、オリンピック競技っすからね!」


「真菜、どこのプール行くつもりでいたの?」


「東京都体育館第二水泳場っす」


「お前、あそこはコースロープの張ってあるオリンピックプールだよな」


「波の出るところにしようよ。ウォータースライダーのあるところ。十メートルの飛び込み台はいらないから」


そう。それが普通の女の子の行くプール。


「ほらっ。真菜。行くよ。お兄さんも!ふふふ」


ふふふって言った。


 こういうことか、俺の反応がメインディッシュってのは。


 うわー。いたたまれねー。


 ビキニの水着って、ほら、あれじゃん。ほぼ下着じゃん。


 くすくすくすくす。


「お兄さん。顔、真っ赤ですよー。大丈夫ですよー。ここに並んでるのは水着ですからー」


「ってか、これ…ほぼ下着じゃね?」


「それって、男の人目線ですよねー。ぜんぜん違いますよー」


そうなの?


「ちがわないっす。美沙っち、まじで、この中から選んで、買って、しかも着るっすか?私が?」


妹も顔が真っ赤だ。お前は男か?ビキニの水着に囲まれておとなしくなっちゃってるぞ。


 くすくすくすくす。


 美沙ちゃん、エンジョイしてるなぁ。


「お兄さんには、いつもお世話になってますからね。お礼です」


これのどこがお礼なのだ。俺ってそんなにマゾっぽいかな。


「お礼に、お兄さんに選ばせてあげます」


「は?」


「美沙っち?正気っすか?」


「お兄さんの好きな水着を選んでいいですよ」


「え、えーと。それは、美沙ちゃんの水着を、お、俺が選ぶってこと?」


「はい」


「美沙っち!それは危険っす。にーくんは、絶対に紐を選ぶっす」


お前は、俺をなんだと思っているんだ?


「選んでいいですけど、NGは出しますから。そしたら選び直しです」


「いやいや。そんなエッチな水着選ばないから!」


「じゃあ、どれにしてくれるんですか?」


くすくすくすくす。


 う。


 この中から、美沙ちゃんに似合うものを選ばないといけないのか。本人の目の前で…。


やはりビキニか?いや、スケベと思われるかな?ビキニもいろんな形のがあるんだな。フリルがついているのとかが、やっぱりかわいいってことになっているのか?しかし、フリルが付いていると、なんだかすげーミニスカートみたいにも見えて、よけいエッチじゃないか?下着っぽくすらあるぞ。


 なんだか、脂汗出てきた。


「にににに、にーくんっ」


「な、なんだっ」


「わ、わたしも自分で選べなくなって来たっす。にーくん、選んで!」


無茶言うな!お前はやはり競泳用がいいよ!レーザー・レーサーとかどうだ?Speedoの!タイム上がるらしいぞ。


 妹の目も完全に泳いでいて、焦点が合っていない。


 美沙ちゃんは、くすくすくすくす。


 まてまてまてまて。どうしてもダメなものは、美沙ちゃんがNGを出してくれる。


 つまり、スケベじゃなければいいんだ。なにせ、着るのは美沙ちゃんなのだ、なにを着ても可愛いはずだ。


 あ、あれだ!


 いいものを見つけた。マネキンが一見水着に見えない普通のキャミソールにホットパンツみたいのを着けている。あれだ!あれなら間違ってもスケベに思われない。


「あ、あれ…なんか、どうでしょう。美沙さん」


「さすがです。センスいいですよー。じゃあ、試着してきますね」


し、試着!?


「ににに、にーくん。わ、私は?」


お前は、自分でなんとかしろっ。と言いたいところだが、妹のテンパり度合いも放置できないレベルなのが見て取れる。兄としてなんとかすべき。


 うーぬぬぬ。美沙ちゃん級の可愛さなら、なんでも大丈夫だと思うが、こいつだとなぁ。まず、ビキニはダメだ。引っかかるところがなさ過ぎて、ウォータースライダーとかで取れる可能性がある。ワンピース。ワンピース。


「えっと、これ」


薄桃色のフリルの付いたワンピースを渡す。


「さささ、さすがっす。いい、センスだ。じゃあ、試着してくるっすー」


妹よ、テンパりすぎてソリッドスネークみたいになってたぞ。


「お兄さんっ。こっちこっちー」


呼ばれて振り返ると、美沙ちゃんが試着室から顔を出して手招きしている。


「な、なに?」


「どうですか?」


しゃっ!うわっ。


 試着室のカーテンが開いて、中から美沙ちゃん。


 かわいい。ふつうに可愛い。よかった。


「う、うん。かわいいよ。いいんじゃないかな」


「ですよねー。さすがお兄さんです。でね」


くすくす。


 わぁっ。


 美沙ちゃんが上着に手をかけたと思ったら、脱いだ。


「ひうっ!?」


「これ、セットになってて、中がビキニなんですよー」


そう言いながら、ホットパンツのほうもするすると脱いでいく。


 ちょ…うわっ。


 目の前で美沙ちゃんが脱いでるよ!いや、中は水着なんだけど!ちょっ…うわ。どこ見たらいいの!?なにが正解!?世界はどうなっちゃってんのーっ。


 どどどどどどどど。


 心臓がマシンガン。


 くすくすくすくすくす。ぷっ。


「あはははははは。お兄さん、テンパりすぎですー。あははははは」


そりゃ、テンパるよ。美沙ちゃん?君は、自分の可愛さレベル分かってる?心臓破れるよ。


「じゃ、これにしますね」


しゃっ。


 カーテンが閉まる。


「あ、そうだ。お兄さん」


カーテンの隙間から美沙ちゃんが顔を出す。


「明後日、お兄さんもプール行きましょう。もっとゆっくり水着姿見せてあげますね」


…う、うん。


 美沙ちゃんの顔が引っ込んで、なかから衣擦れの音がしてくる。


 わぁ。ここにいちゃだめだ…。


 エスカレーター付近まで退散すると、妹が先に紙袋を持って待っていた。


「あれ?試着しに行ったんじゃ」


「行ったっすよ。サイズが合ったから、買ったっす」


効率のいい妹である。デザインとか気にしなかったのか。


「にーくん」


「ん」


「明後日、にーくんも一緒に来るっす。にーくんが選んだんすからー、にーくんも来るっす」


「まぁ、いいよ」


美沙ちゃんからも誘われたしね。


「それと、明後日は私のことべた褒めするっす」


「なんだそりゃ」


「にーくんが選んだんすからー、べた褒めするもんすよー」


良くわからん理屈だが、たしかに似合わないとか言っちゃいけない気はする。


「あ、ちょっとまて」


「なんすか?」


「金渡すから、真奈美さんの水着も買ってきてくれないか?」


「あー。そーっすね。行かないとは思うっすけど、一応誘ったほうがいいっすね。でも、にーくん」


「なんだよ。水着のサイズなんて、そんなに違わないだろ。たぶんだけど」


「いや、サイズはたぶん真奈美姉ちゃんなら9号Mで間違いないと思うんすけど…。にーくん、真奈美姉ちゃんに水着プレゼントするっすか?」


「あ…。やっぱり、そういうことになっちゃうかな」


「女の子に水着をプレゼントするのは、やらしいっす」


「なんの話ですか?」


あ、美沙ちゃん。


 いつの間にか会計を済ませて来てたのか…。かいつまんで説明する。


「姉は、たぶん私の去年のを着れますよ。今年のデザインじゃないとダメとか言わないでしょうから」


そう言えばそうか。今でもジャージしか着てないもんな。


「…ところで、お兄さん。罰としてパフェご馳走してください」


なんの罰だ?


「そーっすねー。パフェをおごるくらいしてもいいっすね」


便乗するな。いいけど…。


 そんな流れで、アイスクリーム屋でパフェ。


 妹と美沙ちゃんが並んで、互いのパフェをつつきあっている。自分の注文したの食べろよ。きゃっきゃうふふで微笑ましいけど。こうやって見ると、妹のかすかな女子力は美沙ちゃんの強大な女子力波動の影なのだと思う。


「なんだか、うまいことパフェを奢らされた気がする」


帰りの電車の中で言ってみる。


「あれは罰金ですよ。罰金」


「そーっすよ。罰金っす」


「なんの罰金なんだよ」


「デート中に他の女の子に水着をプレゼントするなんて話をした罰です。たとえ姉にでも許せません」


え?そうなの?デートだったの?


「そーっすよー。有罪っすー」


いや、お前がいなけりゃデートだったかもしれないんだけど、お前がいたからデートじゃないだろ。


 ま、いいか。


 美沙ちゃんの素敵な水着姿も見れた。パフェなら二つ分。白飯三杯分の価値はあったよ。


 今日も、いい一日だった。




(つづく)

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