第33話「古狼の仔」

 獣と獣の乱闘だった。

 槌が薙ぎ、爪が飛ぶ。

 エンジュが吠え、狼が声を上げる。


「あれは……」


 あっけにとられ、僕は立ちすくむ。

 目を爛々と輝かせた彼女は、まるで理性をなくしているように見えた。

 ただ槌を相手に打ち込むことだけを考え、白い毛並みを追いかける。

 初めて見る、彼女のギフト。

 理性を消失させ、力のある限り闘争を続ける狂気のギフト。

 彼女が何故一人で行動しているのか、その理由の一端が垣間見えた。


「御子様もよく動かれる」


 悔しそうに歯軋りしながらシロが言う。

 確かに、エンジュと相対する小さな狼もまた、機敏な動きで彼女の猛攻を避けている。

 とても、さっき生まれたばかりとは思えない。


「聖霊って、すごいんですね……」

「聖霊は個として完成された存在だ。生まれ落ちると同時にそれは完成されておる」


 だからあれほどまでに動けるのか。

 僕とシロは完全に外野を決め込んでいた。というより、下手に間に立ち入ろうものなら理性のない両者から弾き出されるだけだろう。


「そうだ、シロガは?」

「シロガ様は大丈夫だ。少し休めば、瞬く間に回復なされる」


 彼女はエンジュたちの向こう側で伏せていた。

 耳を倒し、長い尻尾をゆらりと落としている。かすかに開かれた目だけが、おぼろげにこちらを見ていた。


「彼女はこれからも子供を産むの?」

「当然。そのたびに大聖霊から贈り物がやってくるだろう」


 ただの人である僕からしてみれば、少し迷惑でもある。

 けれども、そこは精霊との価値観の違いなのだろう。


「あああああああっ!」

「グルルルウアアアッ!!!」


 爪と槌が衝突する。

 火花が散り、次の瞬間には二人は後ろへ跳躍して距離を取る。

 肉薄し、重なり合い、距離を取る。

 一連の流れが数秒のうちに展開される。


「とてもではないが、儂の出られる幕ではないな」

「僕もちょっと自信ないですね」


 仔狼は、戦いの最中にも成長を続けていた。

 今では僕の腰くらいまで成長し、声もより鋭くなっている。

 双方共に防御を軽視した猛攻だ。

 互いに傷が増えていく。


「グラゥ」


 荒い息を吐いて仔狼がエンジュの懐に潜り込む。

 彼女は瞳孔を見開き、前方へ転がることでそれをいなす。


「アアアッ!」


 ぶん、と空気が震える。

 風を纏って槌が振るわれる。

 狼の鼻先を掠める。

 それをものともせず狼は飛び込む。

 草を散らし、風を巻き、取っ組み合いの乱闘だ。


「まさかあの鬼人、あそこまで戦えるとは」


 未だ戦いに決着が付いていないという事実が信じられず、シロが言葉をこぼす。

 真っ先に逃げるよう促した彼だけにその驚きは一入だろう。


「僕もびっくりしてます。彼女のあの姿を見るのは初めてなので」

「ぬ? 貴公らはまだ付き合って時が浅いのか?」

「つ、付き合ってるわけじゃ。パーティを組んでるんです。四日前くらいに」

「若い男女が行動を共にするというのはそういうことではないのか?」

「僕らの場合は違います。……多分」

「なんじゃ、貴公……」


 しらっとした目を向けられ、僕は顔を反らす。

 なんだか、とても緊張感がない。


「……あの二人、落ち着いたようじゃな」

「え?」


 シロの声に前を向く。

 目の前で展開されているのは、未だ少しの油断が命を刈り取る凶悪な戦場だ。

 互いに生傷が増え、血の匂いもかすかに漂っている。

 あれが落ち着いたと思えるなら、この世は平和なのでは……。


「よく見てみろ。二人とも、呼吸が合ってきておる」

「……?」


 じっと見る。

 エンジュが槌を振るい、それを飛び越えて狼が斬りかかる。

 それを避け、体を当てる。

 バランスの崩れた脇腹に槌が向かう。

 身をよじりそれを避け、地面を蹴って弾む。


「……乱闘だ」

「だが、二人とも殺意はない。むろん、理性もないがな」

「どういうこと?」

「命を掛けた真剣勝負ではあるが、殺すことは考えておらぬ。互いの技量を比べ合っておる」


 よく分からない。

 けれど、なんとなく、かすかにだけれど、二人の口元が楽しげに揺れているような気がする。


「ァァアアアアアアッ!!」

「ギャゥルルルッ!」


 絶叫が絶叫をかき消す。

 獣と獣がぶつかり合っている様は、壮観とも言えた。

 ――そして、


「ぐっ」

「きゅぅ……」


 どちらともなく膝を折る。

 エンジュは槌を放り出し、狼はぺたんと耳を伏せる。

 あまりに唐突な変化に、思わず困惑する。


「え、あれ。どうしたの?」

「どちらも体力切れのようだな。どちらか一方でも少し余裕があれば、その瞬間に喉首かっ切っておったじゃろうが」

「同時に倒れた……」


 はっと気を取り直す。

 慌ててエンジュに掛けより、倒れ込んだ彼女の顔を覗く。


「だ、大丈夫? エンジュ!」

「うぐ……ぅ……」


 苦しそうに呻く。

 僕は水筒を取り出して水を含ませる。

 口の中を切っているのか、吐き出された水は血の色がした。


「薬飲ませるから、ちゃんと飲んでね」

「うぅ」


 ぐったりと弛緩した彼女の上体を起こすのは、僕だけだと苦労した。

 けれど後を追ってきたシロが、その頭で支えてくれる。


「ほら……」


 瓶の栓を引き抜いて、彼女の唇に付ける。


「う……」


 けれど、彼女にはもう余力が残っていないのか、飲むことすら出来ない。

 傷が多すぎる。体力もない。

 危ない状況だ。

 ……他に方法はなかった。


「んぐ……。んっ」

「んむっ」


 口に水薬を含む。

 青臭い味に耐え、嚥下しないように注意しながら、彼女の方へ顔を近づける。

 しっとりとした感触。

 鉄錆のような味がした。


「リューク殿、よければその薬分けてもらえぬか」

「ほえ……。えっ!?」


 ぼうっとしているとシロが話しかける。

 僕は慌てて彼の方を振り向いた。


「御子様も傷が多い。見たところかなり品質の良い薬のようじゃ。少しでよいから分けてもらえぬか」

「そ、それはもちろん」


 新しい瓶を取り出し、近くでぐったりと伏せる小さな狼の元へ寄る。

 少しだけ目を上に向け、彼はくるると唸る。

 けれども、すでに立ち上がる力も残っていないらしい。


「飲めるかな?」

「振りかけてもらえればよい」


 シロの指示を受け、薬を狼の体に振りかける。

 それは柔らかい、土に汚れた毛皮にしみこんでいく。


「……これは」

「聖霊じゃからな。ただの獣とは違う」


 薬の効果はてきめんだった。

 すぐに、二人とも呼吸を落ち着ける。

 目を開かないことに少し心配したが、深い眠りに入っているだけらしかった。


「まさか、互角の勝負を繰り広げるとはな」


 未だに信じられない様子でシロが言う。

 僕もまさか、エンジュが聖霊と渡り合えるほどの力を持っているとは思わなかった。


「……ご迷惑をおかけしましたね」


 優しげな声が響く。

 顔を上げれば、シロガがこちらを見ていた。


「シロガ、体は大丈夫?」

「ええ。もう随分と回復しています。それよりも、我が子がご迷惑を」

「いや、元はといえば掟について忘れていた僕たちが悪いわけで……」

「それでも、命の危険にさらしてしまったのは、こちらの不手際です。私がもう少し耐えていれば」

「そんな……」


 足下でくうくうと穏やかな寝息を立てる小さな狼を見る。

 毛皮は柔らかで、驚くほどに小さい。


「よければ、その子に名前を付けてくれませんか?」


 唐突に、シロガがそう言った。

 僕は驚いて一瞬反応が遅れる。


「ええっ!? ぼ、僕がですか?」

「ええ。貴方方のおかげでこの子も落ち着きました。この子がそのことを忘れぬよう、なにか」


 降ってわいた責任が重大すぎる。

 受け止めきれず、狼狽する僕に、シロが笑った。


「ぬはは。それは良い。これだけの仕合を見届けた貴公なら、必ず良き名を授けてくれるだろう」

「そういうのはエンジュに言った方が……」


 言い掛けて、やめる。

 せめて僕が付けた方が平和的な気がした。


「……ルリなんてどうでしょうか?」

「ルリ……。ふむ、その子の故郷の色ですね」


 さすがは大聖霊、よく知っている。

 僕はすうすうと眠る仔狼の、あの瞳を思い出す。激戦のなかでもよく目立つ、綺麗な瞳だった。


「いいでしょう。私も気に入りました。今から、この子の名前はルリです」


 シロガが高々に宣言する。

 すうっと冷たい風が吹き渡り、空気が変わる。

 肩のシルフィが緊張するのが分かった。


「リューク、エンジュ。二人にはお世話になりましたね。――町に戻って、詳細を報告してください。また長き時を、友好と共に過ごせることを望んでいます」

「え、あ……。はい。こちらこそ、ありがとうございました」


 シロガが立ち上がる。

 間近で見ると、更に大きく感じる。

 まさしく、山のような存在感だった。


「さあ、森の入り口まで送りましょう」

「もう動いて良いんですか?」

「ええ。任せてください。ほら、背に」


 恐れ多いと思うのだけれど、ここで退くのも無礼な気がした。

 丁寧に地面に伏せてくれた彼女の背中に登る。

 地面で眠っているエンジュは、シロガが柔らかな尻尾で巻き込んで上まで運んでくれた。

 彼女を受け取り、ぎゅっと腕を回す。


「それでは、行きましょうぞ」


 シロが張り切って駆け出す。

 それを少し見送って、シロガも走り出す。


「う、わっ!?」


 ぎゅん、と世界が縮む。

 単位が変わる。空間がゆがむ。

 木々が独りでに避け、ただ道を進むように彼女は森のなかを駆けた。


「すごい……」

「ふふ」


 思わず零れた言葉に、シロガが笑みを浮かべた。


「着きましたよ」

「え、あ。ほんとだ……」


 あっという間のことだった。

 僕らは気がつけば森の入り口まで来ていた。以前、シロによって飛ばされた場所だ。


「私はここまで。ここから先はいけません」

「そっか、掟……」

「掟は両者の間で結ばれたもの。これからも、よき隣人としての関係を望みます」

「はい。……ありがとうございました」


 きゃうん! とかわいらしい鳴き声が聞こえた。

 足下を見ると、シロガの側に寄り添うように、ルリが立っている。驚くことに、彼はもう回復したらしい。


「うぅ……」


 腕の中のエンジュが声を上げる。

 慌てて覗き込めば、彼女の橙色の瞳が見えた。


「う? うわっ!?」


 状況を理解した彼女が飛び上がる。

 けれどもここはシロガの背の上。下手に暴れられて落ちても困る。

 僕はぎゅっと彼女にかけた手に力を込める。


「な、なんだこれ。なんだこれ!?」

「決着が付いたから、シロガが森の入り口まで送ってくれたんだよ」

「森の入り口? ……ほんとだ」


 あたりを見渡したエンジュが言う。

 彼女が起きたので、二人とも地面に下ろして貰う。


「ささやかながらお礼を送りましょう。リューク殿には、その精霊たちに少しの力を。エンジュ殿には、その力へ僅かばかりの加護を」

「そんな、いいんですか?」

「いいのですよ。私が言うのですから」


 そう言って、シロガが片目を瞑る。思いがけない茶目っ気に、毒気を抜かれる。


 対面したシロガが少しだけ毛並みを逆立てる。それだけで膨大な力が湧き上がる。

 白銀色の魔力が、杖の魔石に流れ込んだ。


「うわっ!?」


 精霊たちが歓喜する声が脳に響く。濃密な魔力が、彼女たちと溶け合っていた。


「力が……!?」


 エンジュも不思議そうに自分の腕を見下ろしていた。

 彼女のギフトが、強化されているらしい。


「それでは、これで」

「はい。お元気で」

「邪魔をしたな」


 短く別れの言葉を交わす。

 シロガが身を翻し、森の暗がりへと消える。

 後を追うように、シロも。


 気がつけばもう夜にさしかかっていた。

 忘れていた疲れがどっと押し寄せて、鉛のように体を重くする。


「つ、疲れた……」

「私も。もう一歩も動けん……」


 どっかりと地面に腰を下ろす。

 どうやってギルドに報告しようか、そんな事を考えかけてやめる。

 頭上に、紫紺の空に一番星が輝いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る