第32話「ミモザの古狼」
それは、まさしく神獣と呼んで違わない姿だった。
歴史を感じさせる金色の瞳が輝く。長い毛並みは落ち着いた灰がかった白色で、細く柔らかい。頭だけを持ち上げて、それはこちらをじっと見ていた。
ピンと立った三角形の耳は、シロとよく似ている。
悠久の時を生きた、聖なる獣がそこにいた。
「あなたが、ミモザの古狼……」
思わず言葉が口をついて出た。
巨狼は目を細め、鋭い牙の並んだ口を開く。
「古狼と呼ぶには、まだ千年にもみたぬ年しか重ねていませんが。この森を纏めているのは、私で間違いありません」
驚くほど優しい声色だった。
彼、いや彼女は金色の目を光らせ、僕たちを悠然と見下ろしていた。
「シロガ様、以前外界より踏み入ってきた者たちです。しかし、この度は礼儀も弁えておりましょう」
「見れば分かります、シロ。――どうやら、貴方は私達の世界を知る者のようですね」
僕を見て彼女が言う。
その圧倒的な、酔いそうになるほどの存在感にあっけにとられていた僕は、慌てて正気を取り戻す。
「は、はい。僕は精霊術師のリュークといいます」
「私はエンジュ。一応、狂戦士ということになっている」
少し不本意そうな説明で、エンジュも後に続く。
シロガは少しだけ足を動かし、体を傾けた。
「ミモザの主、大聖霊が二十四階位の司祭を務める、シロガです。――人に会うのは数百年ぶりですね」
彼女は心底嬉しそうに声を和らげた。
予想していたよりも、ずいぶんと親しみやすい印象を受けてしまうけれど、彼女は人の力を易々と凌駕する上位存在だ。
「シロ、この方達の要件は伺っていますか?」
「もちろん。ですが……」
シロが言いよどむ。
シロガに促され、彼は僕らの境遇を話した。
「……ふむ。長い時というのは、時に困ったものですね」
少し眉を顰め、シロガは頭を下げる。
面目ない、と僕が低頭すると、彼女はゆらゆらと首を振った。
「貴方方が悪いわけではありません。人と精霊の住む時間が違う、ただそれだけのことです」
何も含むところはなく、ただ淡々と事実を述べる。
それだけに、より如実に僕たちはそれを実感させられた。
「それでは、一つ伺ってもいいですか?」
僕が投げかける。
ピンと立てた耳を少し揺らして、シロガは頷いた。
「境界線の掟が綻んでいないのなら、どうして人の領域に凶暴な魔獣が多く現れるようになったんでしょうか? そこを解決しない限り、僕たちは何もできないんです」
「確かに、掟は今も守られ続けています。……掟のことは、どのくらい知っていますか?」
シロガの問いかけ。
僕は思考を整理したあと、答えた。
「境界線の掟は、サルドレットの町が開拓された時に結ばれたもの。その内容は森の恵みを人々が享受できるよう、魔獣たちとの境界線を分かつこと。契約は当時の魔女とミモザの古狼との間に結ばれ、どちらかに知らされる事なく無効とされることはないこと。立会人は、西の大魚。――僕が知っているのは、これだけです」
「そうですか。おおむね、合っていますね」
シロガが言った。
その言葉に、少しだけ引っかかるものがあった。
「おおむね、ですか」
「はい。少しだけ、欠落しているものがあります」
そこが、鍵なのだろう。
「来たるべき時が来たとき、その時期にだけ森の外から多くの魔獣たちがやってくる。その但し書きが、欠落しています」
「来たるべき時が来たとき?」
エンジュが首をかしげる。
僕にも、その正体は分からなかった。
けれど、恐らくその来たるべき時というのは現在のことなのだろう。ということは、森の中に頻発している強力な魔獣の出現は、境界線の向こう側からではなく森の外側からやってきた魔獣によるものだということだ。
「その、来たるべき時、というのは?」
「――私が、仔を孕む時です」
電撃のような驚きが、全身を走り抜けた。
エンジュもあっけにとられ、あんぐりと口を開く。
そんな僕たちの様子が可笑しかったのか、シロガはクスクスと笑い声を漏らした。
「私がずっと座っているのは、何故だと思いますか?」
その言葉を受けて、僕ははじかれたように彼女の腹を見る。
見上げるような巨体と、柔らかな毛皮に紛れて気がつかなかったけれど、確かに彼女の腹は大きく膨らんでいるように見えた。
しかし、俄には信じられない。
精霊が、ましてや聖霊が仔を孕むといった話は聞いたことがなかった。
彼らは自然と共にある種族だ。その身は自然から孵り、自然へと還るというのが、僕たち精霊術師の中での定説であるはずだ。
「シロガ様は身重なのだ。そのため、普段ほど機敏には動けぬ」
簡潔にシロが言う。
確かに、あれほど張った腹を抱えては、いかな狼であろうと歩くのは大変だろう。
「つまり、妊娠してしまったから支配力が薄れて魔獣が寄ってくるのか?」
「無礼者! この程度でシロガ様の力が一寸でも薄れる訳がなかろう!」
「ええ……」
エンジュが頬に指を添えて言うと、シロが牙をむいて怒鳴る。
普通そう考えてしまうだろう。ていうか、僕もそう考えた。
「……魔獣は他の土地から送られてきているのですよ」
助け船を出すように、シロガが言う。
「それは、もしかして、他の大聖霊が送り込んでいるんですか?」
少しの可能性が浮かび上がる。
その言葉に、彼女は頷いた。
「とはいえ、血生臭い理由ではありませんよ。むしろ、彼らは皆私の知己の仲の聖霊たちです」
「ではなぜ魔獣を送り込む? 土地を奪おうという訳ではないんだろう」
「……彼らからすれば、祝いなのですよ」
「祝い?」
エンジュが首を捻る。
どうにも点と点が繋がらないらしい。
「ご祝儀、ですか」
「リューク!?」
絞り出す。
エンジュが驚いて振り返る。
そんな中で、シロガが目を細めて頷いた。
「仔を懐に宿すと、どうしても力がそちらに割かれる。それを埋め合わせるために、魔獣の力を喰うのです」
「待ってくれ。つまり、私達は、貴方宛に送られていたものを狩っていたのか?」
僕たちの頭を悩ませていた魔獣たちは、懐妊祝いの品々だった。
「そんなこと、どう考えてもたどり着くはずがないだろう……」
へなへなと、毒気を抜かれてエンジュは地面にしゃがみ込む。
僕も同じような気持ちだった。
たった一文の但し書きが抜けていただけで、この有様だ。
ふと肩に座っていたシルフィを見ると、おめでたいと手を叩いて喜んでいる。
「私は獣上がりの聖霊なので、他の聖霊とは少し勝手が違うのですよ」
「獣上がり?」
「ただの獣だったものが、長い時を経て聖霊と至った者のことです。長い時を経て、瞳が金の色へと変わり、更に時を経ると聖霊となります。しかし、聖霊となっても獣の特徴というものは中々抜けるものではなく、私も数百年の周期で仔を身籠もってしまうのです」
「獣上がりの聖霊だけが、仔を残すんですね」
シロガが頷く。
「もう、ずいぶんと多くの魔獣を喰らいました。力は十分蓄えられています。じきに生まれ、調和は取り戻されるはずです」
「ええっ、もう生まれるんですか!?」
「はい。――というより、もうかなり限界が……」
「え、ちょ……」
ぐるる、とシロガが唸る。
平然としているようで、かなり耐えていたらしい。
「貴公ら、下がれ! シロガ様が産気づいておられる」
シロが吠える。
困惑していた僕らは弾かれたように距離を取る。
神域の端まで移動し、木の幹に背を預ける。
「ぐぅぅ、ううううううっ」
巨狼が立ち上がる。
太い足で地面を抉り、ひしと掴む。
白い牙を剥き、苦悶の表情を浮かべる。
浮き上がった腹は、異様なほどに膨らんでいた。
「聖霊の出産は危険だ。それぞれ、身を守れ」
「そんなに!? なんとも凄いタイミングに来ちゃったみたいだ!」
「悠長なことを言っている場合か!」
狼が吠える。
ぶちぶちと何かが千切れる音が響き渡る。
シロが僕たちの足下へ寄ってきて、守るように立ちはだかった。
「ぅぅぅぅううおおおっっっ!!!!!」
甲高い声が突き抜ける。
思わず瞼を閉じた。
べちゃべちゃと、水っぽいものが落ちる音が響く。
「――きゅぅ」
少し間を置いて、苦しげな吐息に紛れて小さな別の声が聞こえた。
「……あれ?」
もう生まれたの?
恐る恐る目を開く。
荒く短い呼吸を繰り返すシロガ。その足下に、羊水にまみれた小さな狼が立っていた。
金色の小さな瞳が、僕たちを見る。
「ッ、まずい! 速く逃げろ」
「どうしたの?」
切迫した声でシロが言う。
状況が理解できない僕が尋ね返すと、彼は苛立ったように振り返った。
「大聖霊の仔は、生まれたばかりでは理性がない。人など見たら見境なく襲ってくる!」
「えっ」
「ぐるるるるぅ」
低いうなり声が届く。
顔を上げると、姿勢を低くした仔狼がこちらを睨んでいた。
「いかな子供と言っても相手は聖霊。太刀打ちできるものではない!」
「しかしシロ、これは私達が逃げ切れるものなのか」
「……分からん」
エンジュの鋭い指摘に、シロが顔を伏せる。
「それならば」
「ちょ、エンジュ。何する気!?」
エンジュがおもむろに武器を構える。
その行動が信じられず、僕が狼狽する。
「つまりは、正面からたたきのめせばいいんだろう?」
「話聞いてた!?」
聞いてない。
彼女は好戦的な笑みを浮かべ、一歩前に出る。
白い毛並みの狼も、受けて立つとばかりに唸りを上げる。
「ちょ、シロ止めてくれない!?」
「努力はするが……」
複雑な表情を浮かべ、シロが煩悶する。
その前で、突如としてエンジュがうなり声を上げた。
「うぅぅぅぅぅ……」
槌の柄をぎゅっと握りしめ、頭を下げる。
背筋を曲げ、ぶるぶると震えていた。
初めて見る彼女の姿に、僕は何も言葉がでない。
「うぅ、う゛う゛う゛う゛う゛っ!!」
まさか――。
それは、以前彼女の言っていた。
「【狂獣化】!?」
絶叫が木々を揺らす。
赤い炎のように揺らめき立つ長髪。
爛々と光る瞳が小さな狼を見定める。
突如として雰囲気を変えた彼女を見て、狼すらたじろいだ。
「あぁぁあああああああああっ!!!!」
「ぐ、ぐるぅぅぅぅ!」
声が混じり合う。
そして、戦いの火蓋が切られた。
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