第31話「古狼の付き人」

 白い犬はゆったりと近づいてきて、少し離れたところで立ち止まった。

 依然として黒い瞳が僕たちをまっすぐに射貫いている。


『――ふむ』

「っ!?」


 小さいけれど、よく響く声だった。

 何より驚くべきことは、それを僕が理解できていることだ。

 彼は、低い嗄れた男のような声をしていた。


「な、今、喋った……?」

「エンジュにも聞こえたの?」


 コクコクと彼女が頷く。

 確かに、聞き間違いではなかったらしい。

 いつの間にかその場は、彼に支配されていた。一歩も動けず、ただその小さな体を注視する。


『奴の匂い――。西の主の匂いもあるな――』

「何を……」

『む、この言葉は通じるか』


 思わず口を開く。

 犬はすっと目を細め僕を見る。

 彼はてくてくとまた歩を進めると、魔除けの陣を軽々と飛び越える。


「ふむ。魔除けは通じんよ。魔に類する者ではないからな」


 その声は更に明瞭になった。

 口は動いていないというのに、はっきりとその声が聞こえる。


「あなたは……一体……」

「案ずることはない。ただの案内役。貴公らが謁見に値するかどうかを見定める、ただの老骨だ」


 流暢な共通語で彼は言う。

 しかし言葉は分かっても、意味が理解できない。


「謁見? なんのことだ?」


 エンジュが尋ねる。

 白い犬は少し驚いたように眉を上げた。


「なに? 知らずに来たのか。その割には、以前よりずいぶんと礼儀をわきまえた姿だが」

「私達はミモザの古狼に会いに来た。境界線の掟を修復するためだ」


 エンジュの言葉に、白い犬はやはり、と頷く。


「やはりそうではないか。ハクガ様に謁見したいと申すのだろう?」

「ハクガ様というのは、ミモザの古狼の名前なんですか?」


 いかにも、と彼は頷く。


「そう言えば、紹介が遅れたな。儂はハクガ様の付き人、いやこの言葉なら付き狼とでも言った方が良いか。名を、ハクと申す」


 少し笑みを含めたような声色で、ハクはそういった。

 僕たちも彼に倣い、それぞれに名乗る。彼はそれを頷きながら聞き届け、「あい分かった」と今一度頷いた。 互いの名前が判明したところで、僕は言葉を切り出す。


「ハク……。ミモザの古狼に付き人がいたの? 初めて知ったよ」

「私もだ。つまり、ハクの眼鏡に適わないことにはミモザの古狼とは会えないということか」

「いかにもいかにも」

「それで、今回の僕たちはどうでしょう?」

「ふむ……」


 首飾りと全身の精霊紋を見せる。

 ハクはそれをじろりと舐めるように見た後、目を細めて考え込む。

 じっとりとした汗が、首筋を伝う。


「――良いだろう。ギリギリ、といったところだがの」

「ありがとうございます」


 大きく息を吐き出す。

 ひとまず、一山越えたらしい。


「しかし今の時期、ハクガ様はご多忙だ。歩きながら話そう」

「は、はい」

「魔獣はどうする?」

「儂やその同行者を襲うほど愚かな者はおらぬよ」


 眉を寄せるエンジュに、ハクは軽い口ぶりで言った。

 そうして彼は身を翻すと、元来た道を歩き始める。

 僕らは一度顔を見合わせ、その後を追った。


「ハクは、なぜ共通語を? 以前は古代精霊語だったから、解読が大変だったんだけれど」


 横たわる太い根を飛び越えながら、少し前を歩くハクに尋ねる。


「古代精霊語がもう伝わらぬとは思わなかったからの。少し前の人間達は儂らの言葉をちゃんと解した」

「……精霊の時間は僕らと違う典型か」


 精霊は悠久の時を生きる。それこそ、エルフなんて目じゃないくらいに。一説には、寿命という概念すらないとも言われる。

 だからこそ彼らの文化の変遷は、僕らの速度より驚くほどゆったりとしている。

 過去に一致していたことが、今では大きく異なっていることは、考えておくべきだった。


「まあ、伝わったようだから良かったがの。ちゃんと町の主と西の主と会ったらしい」

「町の主は……魔女のユーラさんですよね。西の主っていうのは?」

「ぬ? 会ったのではないのか?」


 肩越しに僕を見て、ハクが首をかしげる。

 見た目はただの犬なのだけれど、ずいぶんと感情が豊かだ。


「リューク、恐らくは湖の……」

「あの、白い大魚?」

「今はそのような姿を取っておるのか」


 ハクが「そうかそうか」と頷く。

 彼の言葉が理解できず、ほぼ偶然ということは黙っておいた方が良さそうだった。


「それで、二人から粗方の事情は聞いたのだろう?」

「い、いえ。それが……」


 僕はユーラさんとのやりとりを話す。

 そして、彼女は境界線の掟が綻び始めていると考えていて、その修復を僕らに依頼したことも。

 するとハクは信じられないと目を見開き、足を止めてまでまじまじと僕を見た。


「本当に、その魔女はそう言ったのか? 何も伝わっておらんではないか!」


 ブンブンと短い尻尾を振り、ハクは憤る。

 僕らは状況が掴めず、眉を下げた。


「その、掟は綻んでいないんでしょうか?」

「大聖霊様が直々に結んだ掟だぞ。数百年やそこらで綻ぶはずなかろうが」


 荒々しい声が飛ぶ。

 それならなぜ、平時には見られない魔獣が頻繁に現れるようになったのか。


「その、当代の魔女は契約を結んだ本人ではないんです。一度代を変わった、別の人なんです」

「だとしても引き継ぎはきちんとするべきであろう。掟を舐めておるのか」


 申し開きもございません。というしかなかった。


「……西の主からも聞いておらぬのか?」

「そちらは姿を見ただけで、言葉も交わしていなくて……。あ、司祭とか掟とか言っていたような」

「あやつは口下手すぎる!」


 ハクは声を荒げ、バフバフと手近な木の幹を叩く。

 僕らがどちらからも正確な情報を得られていないのは、予想外だったのだろう。

 彼はどっと疲れた様子でとぼとぼと歩き始める。


「……分かった。貴公らが何も知らないことは」

「申し訳ない」


 エンジュが頭を下げる。

 ハクは「よいよい」と投げやりに答える。


「――そうなれば、ハクガ様本人から聞くのが良かろう。案ずるな、あの御方はお優しい。大聖霊が第二十四階位に座する御方だ。西の主が言っておった司祭というのは、あの方の役職なのだ」


 少ししょげた様子のハクが、小さく呟く。

 ハクからは教えてもらえないのだろうか、と少し思いが過る。

 しかし、それを口に出す前に、ハクが立ち止まる。

 あまりに唐突なことで思わず踏みそうになってつんのめる。


「ど、どうしたの?」

「ここから先は深奥の中の深奥。ハクガ様の神域だ。――心して踏み入られよ」


 声色が変わる。

 厳かな声が脳に響く。

 僕とエンジュは揃って唾を飲み込み、気を取り直す。


「分かりました。大丈夫です」


 一度ハクが頷く。

 前方には、複雑に絡まり合った木々が乱立している。

 まるで僕らの行く手を阻むように、殆ど隙間すらない密集具合だ。

 けれど――


「うわっ」

「これは……」


 ハクが一歩進むごとに、木の幹が解ける。

 まるで水にさらした生糸のように、やんわりと隙間が広がっていく。

 それは急激に動き、木々のトンネルを形成する。その中央を、ハクが軽い足取りで進んだ。


「空気が変わった」


 トンネルを進むこと数分。

 不意に温度が下がった。

 どこまでも純粋な、清純な空気だ。

 それだけで、世界が変わったことが分かった。

 ここからが、深奥の深奥。


「ここが、古狼の神域……」


 トンネルを抜ける。

 驚くほど広い、空けた空間に出る。

 色とりどりの小さな花が咲き乱れ、天然の絨毯のように柔らかく地面を包む。

 瑞々しい若葉を揺らす木々の天井の向こうから、燦然と豊かな光が差し込んでいた。


「リューク、あそこに」

「っ!」


 いち早く見つけたのはエンジュだった。

 その声に従い、空間の中央を見る。

 そこには――


「ようこそ。外界の客人よ」


 金の目をした、山のように巨大な白い狼が座っていた。

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