第30話「魔獣たち」

 一歩踏み入る。


「うっ」

「これは、きついな」


 思わず呻く。

 隣のエンジュもまた、辛そうに顔を顰めている。

 ただ足を踏み出しただけで、少し位置を変えただけで、世界が変わったのを肌で感じた。

 重力が反転するような奇妙な感覚。世界がねじれ、法則が変化する。

 胸を締め付けるような不快感を、唾と一緒に飲み込んだ。


「大丈夫?」

「ああ。なんとか」


 周囲を確認する。背後に、先ほどまで僕たちがいた場所は見当たらない。

 まるで異世界に迷い込んだ――いや、実際にここは異世界なのだろう。僕たち人間が入っては行けない場所だ。


「リューク」

「うん。シルフィも見つけてる」


 エンジュの張り詰めた声。

 姿は濃い緑の中に隠れて見えないが、隠しきれない存在感があった。

 僕は杖を構え、エンジュが僕を守るように一歩前にでる。


「ここまではリュークが頑張ってくれたからな。ここからは私の出番だ」


 そう言って、彼女が背中の槌を構える。

 長い柄の先を腰の横に寄せ、大きく足を広げて重心を低くする。どこからやってきても対処できるような姿勢だ。


『――!』

「っ! そこか!」


 シルフィの声。

 それとほぼ同時にエンジュが槌を前方の茂みに向かって振るう。


『ギャン!』


 突然の殴打に、獣が声を上げる。

 茂みから転がり出てきたのは、小さな黒毛の猿だ。


「魔猿、クロウモンキーだな」


 脳天を揺らされ一撃で意識を刈り取られた猿に近づき、エンジュが判別する。

 名前の通り、発達した長い足の先に鋭い鉤爪を持つ猿の魔獣だ。


「エンジュ、こいつらは群れで動く」

「知ってる。これは斥候だろう」


 そう言ってエンジュは頭上を仰ぐ。

 蔦の絡まる密度の高い枝葉は、空の一欠片すら見せない。


『ギャッ』

『キャッキャッ』


 代わりに、木々の間を俊敏に動き回る黒い影がいくつも見られた。

 それらは全て、小柄ながら鋭い刃爪を持つ凶悪な魔獣たちだ。


「シルフィ、できるだけクロウモンキーの足を止めて。エンジュが各個撃破できるように」


 僕の指示を受け、シルフィが飛翔する。

 太い枝の間を機敏に駆け、彼女は猿たちを翻弄していく。


『キキィ!』


 一匹の猿が枝から飛び出す。

 尋常ではない脚力から齎される、まるで矢のような勢いだ。


「ふっ」


 それをエンジュは難なく避ける。

 半身ずらすだけの、最低限の動き。彼女の長い髪が風に舞い上がる。


『ギャンッ!?』


 すれ違いざま、エンジュが槌を振るう。

 疾風のような早さが仇となり、小さな猿は顔面に鉄塊がめり込む。

 骨の砕ける音。

 一撃だ。


「次ッ」


 仲間の死に憤った猿たちが怒声を上げる。

 ギャンギャンと騒音は加速度的に大きくなり、枝葉を揺らす。


『――っ!』


 そこを突風が吹きすさぶ。

 猿たちの目に空気の棘が突き刺さる。

 シルフィが猛然と駆け回っていた。

 たまらず何匹かの猿が地上に落ちる。


「エンジュ!」

「ああ!」


 それを逃す彼女ではない。

 落ちた猿が地面に付く前に、槌で打って吹き飛ばす。

 殺到する猿たちもそのことごとくを弾き出す。

 鬼人の豪腕と鋭敏な第六感による、超人じみた動きだ。

 僕はシルフィに絶えず指示を送りながらも、彼女のまるで演舞のような動きに魅了された。


『ギャギャッ! ギャゥ!』


 そうこうしているうちに、猿たちは己の劣勢を悟った。

 リーダーらしい一際大柄な猿が咆哮を上げて背を見せると、それに追随するように他の猿たちも引き上げていく。

 まるで波が引くような、迅速な敗走だった。


「ふぅ。肩慣らしには丁度良いな」


 体が温まった、とエンジュは息も切らさずに言う。

 僕はといえば、頑張ってくれたシルフィに魔力を供給しながら、干し果物を食べている。


「ここから、どんどん魔獣が出てくると思う。多分、この先は魔獣の巣窟だよ」

「普通の森でも、それなりに魔獣はいたがな」

「ここまでは隠れながらでやり過ごせたけど、密度が違うよ。絶対に見つかるし、戦闘は避けられない」

「そうなれば、私がリュークを守るさ」


 顔料に彩られた顔に笑みを浮かべ、エンジュは胸を叩く。

 そのどこまでも頼もしい姿に、僕も思わず肩の力が抜けた。


『オォォォォォォォン!』


 どこからか、咆哮が響く。

 エンジュは小さく息を付くと、また槌を構える。


「どうやら休む間もないらしい」


 悪態を付く彼女の声色は、しかし喜色がにじんでいた。


『オォォオンッ!』


 木々をなぎ倒し、巨影が現れる。

 硬い毛皮を装い、四本の足に泥を付けた、異常なほどに巨大な猪だ。荒々しく鼻を鳴らし、金色の瞳で僕らを見る。


「魔猪、クレイボアだね」

「よく知ってるなぁ」

「見るのは初めてだけどね。彼らは泥を纏って乾かせて防具にしてる」

「つまりは槌でたたき壊せと言うことだな」


 だん、とエンジュが地面を蹴る。

 積もった落ち葉が舞い上がる。


「シルフィ!」


 シルフィが飛び出す。

 魔猪の眼前を掠め、怯ませる。


「ハァッ!」


 ゴン、とまるで岩を殴ったような音が森中に響く。

 槌がビリビリと揺れる。

 金色の瞳が、悠然と彼女を見下ろしていた。


「何を見てる、猪」


 にやり、とエンジュが口角を上げる。

 金に過る疑問。

 その時、灰色の硬く乾いた泥の装甲に亀裂が走った。


「ぁぁぁああああらぁああ!!」


 体を軸に、エンジュが戦槌を振るう。

 集中的な打撃は亀裂を広げ、破砕していく。


『グルゥゥゥッ!?』


 驚愕。

 同時に砕け散る。

 乾いた毛皮が露わになる。


「済まんな。剣ならお前の勝ちだった」


 ゴン、と毛皮を貫く打撃。

 今更になって魔猪は足を動かし走り出す。


「シルフィ、右だ!」


 けれどそれを僕が許さない。

 エンジュの槌のある方へ、シルフィが誘導する。

 エンジュもまた衣をはためかせて森を駆ける。


『ブモァッ!』


 足を折られ、魔猪が鼻先から腐葉土へ突っ込む。

 圧倒的な、そして致命的な隙。

 エンジュの鉄槌が、脳天を穿った。


「ふぅ……。リューク、こいつも持って帰るか?」

「そうだね。これくらいなら入ると思う」


 脳天からドクドクと血を流すクレイボアを見て頷く。

 血が抜けきったら、収納箱の中にしまおう。


「それじゃあ少し休憩しよう。腹が減った」

「そういうと思ったよ」


 どっかりと近くの丸太に腰を下ろした彼女に、用意していた食料を渡す。

 何度も続けて堅焼きクッキーも飽きると思ったから、今回はパンとチーズと燻製肉だ。


「む、おいしそうだな」


 バケットに入ったそれを受け取り、蓋を取ってエンジュが言う。

 あたりに生臭い血の匂いが充満しているのだけれど、それは気にならないらしい。


「気休めかもしれないけれど、一応魔除けの結界を張っておくよ」

「それも精霊術か?」

「まあ、その応用だね」


 言いながら、僕は聖水の瓶を出す。

 これを振りかけるだけでも多少は効果がある。


「やっぱりエンジュがいてくれて良かった」

「むぐ、どうした突然」


 陣を構築しながらふと言葉をこぼす。

 干し肉とチーズをサンドして食べていたエンジュがこちらを振り向く。


「僕一人だと、ここには来られなかったからね。境界線をまたいだ瞬間死んでたよ」

「ふっ。それを言うなら――」


 僕を見て、エンジュが吹き出す。

 彼女は優しげに睫を下ろし、言葉を続けた。


「私だって、一人ではこんなところへは来られないさ。リュークと出会わなければ、今だってどこかで一人魔獣を狩っていた」


 感謝してるよ、と言って彼女は残りのパンを一口で食べきった。

 僕の手のひらくらいの大きさはあった筈なのだけれど……。


「少し休んだら、また出発だな。……む?」

「どうしたの?」


 エンジュが首をかしげる。

 猪の様子を見ていた僕が振り返ると、彼女は前方の暗がりを指さす。


「その奥から、何か気配がする」

「魔獣?」


 陣はもう作動しているはずだけれど。


「いや。覚えがある。……っ」


 エンジュが息を切る。

 僕も目を凝らすと、確かにずっと奥の方に何かいる。


「あれは……」

「白い、犬だ」


 それはゆったりとした歩速でやってきた。

 艶々とした白い毛並みの、三角に尖ったピンと張る耳の、しっとりと濡れた黒い鼻の、小さな犬。

 その黒い瞳が、まっすぐに僕たちを見ていた。

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