第29話「精霊紋」
シルフィが吊り下がる葉っぱを掻き分けて森の奥を目指す。
その少し後方を、僕らは縦列で追随していた。
「道らしい道も無くなったな」
前方を歩くエンジュが、鬱陶しそうに頭上の枝を押し上げて言う。
踏みならされた歩きやすい林道はずいぶん前に逸れ、かすかな獣道もすでに消えかかっている。
ノームの根張りから得られた情報をシルフィに伝え、彼女に案内して貰っているわけだけれど、彼女の道というのは人間や鬼人にはどうにも道とは思えなかった。
「シルフィは迷っていないんだろうな?」
疑わしい目つきで、エンジュは前方をふよふよと浮かぶ薄緑色の少女を見る。
視線に気付いた彼女が振り返り、「まかせて」と胸を張る。
兎にも角にも、目的地への道を知り得るのは彼女たち精霊だけだ。僕ら矮小な人間達は粛々とその後ろをついて行くしか方法もなかった。
「エンジュ、おなか空いてない?」
「少し空いているな」
「なら、はい。食べられるうちに」
収納箱から出したクッキーを手渡す。
まだ境界線を超えているわけではない。けれども、この事態では、いつ、何があってもおかしくない。
それならば、常に万全の状態を構築しておくべきだろう。
「リュークはお腹空いていないのか?」
ポリポリと硬いクッキーをかじりながらエンジュが言う。
僕はコートの上から脇腹をさする。
「そこまで、かな。さっき少し干し果物を食べたから魔力も大丈夫」
根張りで消耗した魔力は、その場で粗方取り戻した。
新鮮な食べ物であればあるほど、回復できる魔力量も多いのだけれど、こういった外では干し果物が一番良い魔力回復食品になる。本当はそのあたりの獣を狩って捌いて食べるのが理想だけれど、そこまでしなくても十分だった。
『――』
ぱきり、と枝を踏む。
その時前方のシルフィが立ち止まり、警戒するようにこちらを振り返った。
「ここから先が、境界線の向こう側らしいね」
シルフィの足下から向こうは、僕たちが入ってはいけない領域だ。
エンジュの生唾を飲み込む音が聞こえた。
「シルフィ、少し待ってて。エンジュ、準備をするよ」
「う、うむ。……何をするんだ?」
意気込んだものの、何をするかはエンジュは知らない。
僕は彼女に見やすいように意識しながら、収納箱の中から買いそろえていたアイテム類を取り出した。
「まずは聖水で身を清める。これは三級で大丈夫だと思うよ」
取り出したのはガラス瓶に入った透明な水。一見すればただの水だけれど、その実驚くほど濃密な魔力が込められている。
エンジュも聖水の帯びている魔力を感じ取ったのか眉を少し寄せる。
「これで手を洗って、頭から少し振りかける。後は口の中もゆすいでね。飲まなくて良い、というか飲んだら魔力酔いするから気をつけて」
瓶を渡しながら言う。
彼女はおずおずとそれを受け取ると、僕の説明通りに蓋を外した。
「ひゃっ。……つ、冷たいな」
水温が思った以上だったらしく、彼女がかわいらしい声を上げる。
思わず小さく吹き出すと、彼女がむっすりと頬を膨らせた。
「聖水は普通の水以上に熱を持ちにくいんだ。それに、収納箱の中にずっと入れてたからね」
言いながら、僕も自分の分を開栓して手を濯ぐ。手のひらに水を溜め、頭上から振りかける。最後に口に含んで軽くゆすぎ、地面に吐き出す。
見よう見まねで、エンジュも倣う。
「……これはどういう意味があるんだ?」
「精霊に対する礼儀、みたいな? 基本的に僕らは異質な存在だし、それはつまり穢れとか汚れとかそういったものが纏わり付いているような存在なんだ」
誰だって、泥にまみれた客が部屋にずかずかと入り込んでいい顔はしない。
最低限の身なりを整えるのは、礼儀であり儀式だ。
「この前、入り口まで飛ばされたのはそれが原因か?」
「それだけじゃないとは思うけど、それもあるかもね」
言いながら、僕は麦穂とオリーの葉を取り出す。
麦穂を編み、円にする。そこに青々としたオリーの葉を飾り、首飾りのようにする。
「これ、首から掛けておいて」
「これは?」
素直に受け取りながらも首をかしげる。
「お守り? 僕らの世界で言えば、礼服みたいなものかな」
「ドレスコードがあるのか」
「そういうこと」
僕たちの存在を、彼らに認知させる意味でもある。
基本的に彼らは上位の存在であって、下位生命である僕らを識別することはない。ちょうど、僕らが虫や獣の区別ができないように。
「あくまで簡易のものなんだけれどね。本当なら、半年くらい掛けて作るんだけど」
「流石にそんなに掛けてはいられないな」
自分の首に掛かった首飾りを持ち上げ、彼女はしげしげと眺めていた。
僕が作ったものだけに、すこし気恥ずかしい。
「精霊は契約上対等な存在だけれど、前提として僕らは彼らよりも弱い立場にある。まして、これから会うのは精霊よりも上位の存在だからね。念には念を入れておかないと」
黒曜石のナイフを腰に差す。その柄には赤く染めた羊毛を縒った糸で編んだ飾り紐が付いている。
「あ、そうだ。武器にも聖水を掛けておいて」
「錆びないか?」
「大丈夫、たぶん」
訝しい目線を残しつつ、エンジュは従ってくれる。
僕も自分の杖に聖水を振りかける。
白い陶器をいくつか取り出す。中に入っているのは、それぞれ違う色の顔料だ。
「エンジュ、ちょっと目を閉じて」
「う? あ、ああ……」
「ついでに膝をついてくれるとありがたい」
「うむ」
エンジュが瞼をおろし、膝をつく。
深い森の中で静かな彼女と対峙すると、なんだか背中のあたりがむずむずとする。
とはいえ、そうは言っていられない。
僕は気を引き締めると、顔料の入った陶器に聖水を注ぎ、どろりとしたそれを指で掬ってエンジュの白い頬に近づけた。
「ひゃぅっ」
「ご、ごめん。少し冷たいよ」
「遅い!」
ごめんよ、と謝りながらも作業は続ける。
赤色、青色、紫色、黄色、緑色。いくつもの色を使い、時には混ぜ合わせ、十本の指のほぼ全てを使って、彼女の柔らかな肌をなぞっていく。
彼女はこの意味を知らないだろうけれど、それでも大人しくじっとしてくれている。
「これは、精霊紋を模しているんだ」
描きながら、少し落ち着かなくなって口を開く。
「精霊たちにとっては特別な意味を持つ模様で、僕ら精霊術師にとっても特別なものなんだ。精霊術師と言っても色々あって、僕みたいな精霊契約を主とする術師もいれば、この精霊紋を描くことを専門にする術師もいる」
「精霊紋を描くと、どうなるんだ?」
「精霊と言語外のコミュニケーションを取れるようになる。例えば僕らが笑顔になったとき、彼らは紋の歪みでそれを見る」
「……精霊には、私達の顔が見えないのか?」
「僕らが野ウサギの喜怒哀楽を表情から察せないようなものだよ」
難しいな、とエンジュは口の中で呟いた。
全くだと僕も思う。精霊術の門を叩き、この紋様を習ったとき、同じ事を思った。
なぜ彼らは僕たちを見てくれないのだろうと、憤ったこともある。
結局は、住む世界が、存在する次元が違うのだ。
「――よし、完成」
最後の一画を描き終え、僕は満足げに全体像を見る。
綺麗な彼女の顔に顔料を塗りたくるのには多少の罪悪感もあったけれど、これもしなければならないことだ。
「む、終わったか。どうだ?」
格好良いか? と言外にエンジュが聞いてくる。
色とりどりの顔料で彩られた彼女の顔は、確かに綺麗だった。真っ白な肌も好きだけれど、少し民族的な雰囲気を纏う彼女も神秘的で良い。
「あとは、腕と足だね」
「そ、そこにも描くのか!?」
エンジュが驚いて声を上げる。
両腕を胸の前で組み、後ずさる彼女に、僕もにじり寄る。
「ごめんね。これもしなくちゃいけないことなんだ」
深々と頭を下げて許しを請う。
彼女は長考した後、しぶしぶ頷いた。
「優しく、してくれよ?」
「分かってるよ」
そう言って、僕は彼女の柔肌に再び指を落とした。
エンジュがむず痒そうに身をよじる。とはいえ大きく動かれて紋様がずれるとそれも大変だ。
僕は慎重に、集中して紋を描く。
糸と糸が重なるように、風を表すように、炎のような猛々しさで、大地のような雄々しさで、静謐としていて、安穏としていて。
全ての線に意味がある。
何年も掛けて体に叩き込まれたそれらの意味を思い出しながら、一心不乱に描く。
「――よし」
正真正銘、最後の最後まで一分の狂いもなく描けた。
いつの間にか息を止めていたのか、胸が新鮮な空気を求める。
「……終わったのか」
ぎゅっと目を閉じていたエンジュが、恐る恐る目を開く。
自分の腕、そして足に描かれた紋を見て、彼女はほうと息を吐いた。
「綺麗だな」
「ありがと」
思わず、といった調子で彼女の口から言葉が漏れる。
描いた僕が見ても、彼女の様子はとても美しかった。神秘的で、どこか人の触れてはならないような怖いくらいの魅力を纏っていた。
これならば、精霊の目に留まるだろう。
現に、シルフィが彼女のすぐ側までやってきて、しげしげとその姿を注視している。
「それじゃ、少し待っててね。僕もやっちゃうから」
「自分で出来るのか?」
「まあ、練習は沢山したしね」
そう言って、また顔料の壺に指を突っ込む。
自分の体に描くのに遠慮はいらない。慣れた手つきは何度も何度も練習した証だ。
僕は、彼女に掛けた時間の半分にも満たない早さで、自分の体に精霊紋を描いた。
「これで準備は終わりか?」
長い赤髪を聖水でしっとりと湿らせ、首から首飾りを掛け、極彩色の紋を描いたエンジュが言う。
僕も似たような外見だろう。
「うん。これで、向こう側にいけるよ」
シルフィを呼び戻す。
彼女はいつもと様子の違う僕たちを見て嬉しそうだ。いつにも増して活発に手足を動かし、全身で興奮を表している。
「それじゃ、行こう」
「ああ。境界線の向こう側へ」
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