第27話「出発」

「くしゅんっ!」

「大丈夫か?」

「うぅ……。大丈夫だよ、ちょっと鼻がむずむずするだけ」


 翌朝、『銀猫亭』でいつものようにモーニングを食べる。

 鼻をこすり、僕はコーヒーを一口飲んだ。

 エンジュは飲み物を変えて、オレンジジュースを選んでいた。


「今日はミモザの森に行くつもりだが、その前に何か準備は必要か?」

「ミルラさんのところでいくつか買い揃えたいものがある。……それくらいかな」

「分かった。それじゃあ出発前に寄ろう。私も鍛冶屋に槌を見てもらいたいんだが」

「それなら、分かれて行動する?」

「いや、一緒に行こう。昼頃に出られれば十分だ」


 最後の一口を放り込み、彼女は頷く。

 モーニング三人前をペロリと完食し、彼女は立ち上がった。


「朝からよく食べるね」

「昨日は少し足りなかったからな」


 だからといっていきなり三倍に増やすのはどうなんだろう? 結局食べきっているからいいのかな。

 本当に、彼女の健啖ぶりには相変わらず驚かされる。


「それじゃあ行こうか」


 僕も立ち上がり、お皿の載ったプレートをカウンターに返す。


「行ってらっしゃーい」

「行ってきます」


 チェシャさんの元気な声を背中に受けながら、僕たちは『銀猫亭』を発った。



「いらっしゃいませー。おはようございますー」

「おはようございます、ミルラさん」


 通りを進み、水路の側の路地裏にあるお店に入る。

 朝の早い時間だったけれど、『リージュ薬舗』は既に開いていた。

 僕たちがドアをくぐると、おっとりとした声でミルラさんが出迎える。


「二日ぶりですねー。また何かご入り用ですか?」

「切り傷に効く薬をいくつか見繕ってくれませんか? あと三等聖水を五本、一等聖水を三本。オリーの葉と麦穂を一束」

「承りましたー」


 手帳を開き、メモを見ながら注文する。

 ミルラさんはすぐに店の奥へと消え、商品の入った籠を抱えて現れた。


「ありがとうございます。後は、黒炭を一袋と、蜂蜜が一瓶欲しいんですけど」

「ありますよー」


 頼もしい。

 ここに来れば大体のものが揃うというのは本当にありがたかった。


「リューク、ここは本当に薬屋なのか?」


 後ろで商品棚を眺めていたエンジュが困惑して囁く。彼女の疑念ももっともだけれど、ここはれっきとした薬屋さんだ。


「うふふー。この大陸のどこかで薬として使われているものならなんでも、取り揃えていますよー」


 耳聡くエンジュの声を拾っていたミルラさんが、糸のような目を更に細めて言う。

 どこか掴み所のない彼女の雰囲気に飲まれたのか、エンジュがたじろいだ。


「はい、黒炭と蜂蜜です」

「ありがとうございます」


 すぐに揃えられたそれらを収納箱の中に放り込む。ミルラさんの示した金額を渡し、商談は成立した。


「しかし大量に買い込んだな」


 ぽいぽいと収納箱の口の中へと吸い込まれていく品々を見て、エンジュが言う。


「まあ、精霊術師っていうのは色々と不安定だからね。その分、こういうアイテムで補っていかないといけないんだ」

「そういえば、そんなことも言ってたな」


 今まで実感してなかった、とエンジュが言う。

 そう言えば、今まで彼女の前で登場した精霊たちは皆安定した力を出してくれていたと思う。

 けれどもそれは、単純に環境が良かったせいだ。

 今から行くところで、今までと同じように安定した力を発揮してもらえる確証はどこにもない。


「本当はもっと場を染めるくらい強力なアイテムが欲しいんだけどね」

「場を染める?」


 エンジュが首をかしげる。


「その場の環境を無視して、精霊が問答無用で一定以上の力を発揮できるように属性を上書きしちゃうくらいの強力なアイテムさ。星の欠片とか、空の鉄とか、南風の貴石とか、死を穿つ水の槍とか」

「……そんなものがあるのか?」

「本で読んだことはあるよ」


 いまいち信じがたい、とエンジュは眉間に皺を寄せる。

 僕だって、そんなものが実際に存在していると完全に信じ切ることができないんだから、それも当然の反応だろう。


「とはいえ、ミルラさんの用意してくれたアイテムでもある程度の環境は構築できるはず。ほんとに、ありがたいよ」

「うふふ、そう言って頂けると嬉しいですねー」


 ミルラさんが口元を手で覆って言う。

 僕の言っていることは嘘ではない。彼女の店の商品で命が助かったことも数え切れないくらいなのだから。

「気をつけて、行ってらっしゃいませー」


 去り際、ミルラさんがそう言った。

 僕たちがどんな依頼を受けているのか彼女は知るよしもないはずだけれど、買うものを見て察しているところもあるのだろう。

 だから僕とエンジュも、それにはしっかりと答える。


「ありがとうございます。行ってきます」


 そうして、僕たちは『リージュ薬舗』を後にした。



 鍛冶場の熱気は相変わらずひ弱な僕の体には堪える。

 平然と立っているエンジュが信じられなかった。


「おうおう、また力任せにぶん回しやがったな」


 禿頭の親方はエンジュから槌を受け取ると、一言目にそう言った。

 エンジュがサハギンを殴ったと言うと、彼は呆れたように額を手で打った。


「サハギンを殴るか!? まあ、刃が通りにくい相手だがな……。もうちっとやりようがあっただろ」


 そう言って、彼はじろりと僕を見下ろした。


「魔法使いが付いてるんなら、雷撃で仕留められただろう?」

「いやぁ、あはは。雷の精霊とは契約していなくて」

「そうか……。あんちゃんは精霊術師だったな」


 どちらともなく、がっくりと肩を落とす。

 そんな僕たちに構わず、エンジュは工房長に向かって注文を投げつける。


「メンテナンスは必要か? できれば昼前に発ちたいのだが」

「お前はまた急に……。まあいいさ、これくらいならすぐ終わる」


 呆れた顔でエンジュを見た親方は、しかし即答で引き受けてくれた。

 彼は早速弟子達を呼び集めると、戦槌を奥の作業場へと運ばせた。


「小一時間も掛からねぇ。ギルドでも行って時間潰してこい」

「感謝する」


 心優しい親方にお礼を行って、外に出る。

 日はもうかなりの高さに登っていたけれど、やっぱり少し涼しかった。首筋ににじんだ汗が溶けていく。


「先に鍛冶屋に来ていた方が良かったな」

「まあ、道なりだとリージュ薬舗の方が近かったし、仕方ないよ。ギルドに行こうか」

「そうだな」


 僕たちは歩き出す。

 だんだんと人の増えてきた通りを進む。


「もぐもぐ……」

「朝ご飯あれだけ食べたのに……」


 途中、エンジュは露店で甘辛いタレに絡めたお肉を挟んだホットサンドを購入していた。

 少し前にモーニング三人前を平らげた人の食欲ではない。

 見ているだけでも少し胸焼けしてきた僕は、収納箱から水筒を取り出して口を付ける。


「食料もある程度買い込んで行った方がいいかな?」

「長期戦になるようだったら。じゃないと途中で倒れるぞ」

「それは困る」


 ということで、道すがら旅人向けの携行食糧を売っているお店に立ち寄る。

 干し肉や干し果物、塩漬けの魚など、色々な種類の保存に向いた食べ物が売られているお店だ。


「エンジュは何が好き?」

「食べられるものなら」

「……」


 簡潔な答えに思わずがっくりと肩を落とす。

 恐らく彼女は真面目に答えているんだろうけれど、あんまりだった。


「僕は果物かな。甘いものは頭の栄養になるらしいし」


 干した葡萄の詰められた瓶を眺めながら言う。

 彼女は少し考えた後、頷いた。


「私も果物は好きだ。故郷では柿や蜜柑を良く食べていたよ」

「柿かぁ、食べたことないなぁ」


 彼女の故郷に実る果実はどんなものなんだろう。

 真剣な眼差しで食料の並んだ棚を見つめるエンジュの横顔を見て、そんなことを思った。


「この堅焼きクッキーは腹持ちが良さそうだ。これにしよう」

「結局はそこが一番重要なんだね……」


 最終的に選ばれたのは、最も腹持ちが良いクッキーだった。

 口の中の水分が全て消えることを代償として、常人なら一日数個で凌げる優良な商品ではあるんだけれどね。


「よし、これで数日は戦える」


 両手いっぱいに抱えたクッキーを精算し、エンジュは幸せそうな笑顔を浮かべて言った。

 僕は彼女が幸せなら、と半ば思考を放棄して、その食料たちを収納箱の中へしまい込んだ。



「そう。それじゃあもう出発するのね」


 銀縁の眼鏡の奥に心配そうな瞳を瞬かせ、リュカさんが僕たちを見る。

 携行食糧のお店を出た僕たちは、今度こそギルドへと向かった。

 それは、これから僕たちがすることをあらかじめ知らせておくためだ。


「はい。これからミモザの森に行って、古狼との接触を図ります」

「なに、私が付いている。無事に帰ってくるさ」


 ぽんと胸当てを叩いてエンジュが言う。

 リュカさんは数度頷いて彼女をまっすぐに見つめた。


「そうね。ええ、信じてるわ。ギルドは全幅の信頼を寄せて、あなた達に期待しているわ」


 ただし、と彼女は続ける。


「きっと帰ってきて。それが第一の条件よ」

「分かってます。今日中に帰ってきます」


 僕も頷く。

 リュカさんの背後では、他の職員さんも心配そうに僕たちを見ていた。

 彼らも僕らの帯びている任務のことを多少は知らされているらしい。


「それじゃあ、行ってきます」

「行ってくる」

「ええ。気をつけて」


 リュカさんが微笑む。

 彼女の青い瞳に、僕は笑顔を返した。

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