第26話「お風呂」
カリカリとペンを走らせていると、それだけで思考が整理されていく。
順序もむちゃくちゃに散乱していた情報たちが、それぞれのあるべき場所に戻っていくような、そんな感覚を覚える。
「リューク、風呂には行かないのか?」
背後の声に振り返ると、赤い髪に白いタオルを掛けたエンジュが立っていた。白い頬が上気し、肌全体が湿っぽい。さっきまで『銀猫亭』のお風呂を楽しんでいたのだろう。
「もうちょっとしたら行くよ。まだ少し考えを纏めたいから」
「そうか。まあ、あれを聞いた後ではな」
エンジュは言いながらベッドの端に腰掛ける。
ぽふんと弾み、彼女は長い髪を広げて仰向けに倒れ込んだ。
「エンジュはどう思う? ミモザの古狼は、掟を忘れてしまったのかな?」
「掟を結んで数百年。並の人間なら数世代、鬼人でも一つか二つは世代を重ねている時間を経ているからな。もしかすると、という思いは拭いきれないさ」
小一時間前、秘密の書架でユーラさんから聞かされた話を思い返す。
彼女は、古狼が掟を忘れかけているのではないかと危惧していた。
けれども、
「僕はあまり腑に落ちないんだ」
「なぜ?」
「古狼は精霊に近い存在だと思う。それは、多分確実なんだ。となると、その寿命は魔女ですら敵わない。――きっと、そんなに大切なことをたったの数百年で忘れるはずがないんだよ」
古びた手帳に書き記した考えを読み上げる。
それは少し、精霊術師としての願望じみた考えが混じっているのかも知れない。
けれども、精霊という自然と共に生きる存在は、それだけに悠久の、僕らには到底信じられないほどの時を生きるのだと、僕は信じていた。
「それじゃあ、リュークはなんで古狼は掟を破っているんだと思う?」
「掟を破っている、というよりは、掟を破らざるを得ない何か事情があるんじゃないか、なんて思っちゃうんだよ」
「掟を破らざるを得ない事情、か――」
むぅん、とエンジュは唸って眉間を押さえる。
「考えるのは得意じゃないんだ。もっとこう、物理で解決できないか?」
「それはちょっと、どうだろね」
あまりに彼女らしい乱暴な意見だ。
僕は苦笑交じりに首を横に振る。
「なんにせよ、私はここで頭を悩ませたって何も進展しないと思う。――明日、森に行こうか」
「そうだね。あわよくば古狼本人、もしくは昨日の白い犬に出会えればいいんだけど」
そんなことを考えていると、僕まで頭の奥が痛くなってきた。
このままでは埒が開かない。
「お風呂、入ってくるよ」
「ああ。さっぱりしてこい」
僕はいったん考えるのをやめて、お風呂へと向かった。
「にゃぁ、リュー君こんばんは」
階段を降りて一階に顔を出すと、エプロン姿のチェシャさんが目聡く僕を見つけて近づいてきた。
昼までは食堂として使われている一階も、日が落ちるとアルコールの匂いが漂い始める。一日の仕事を終えた人たちを迎え入れ、連日のように賑わっている。
「こんばんは。お風呂借りて良いですか?」
「もちろん。今日も綺麗に掃除してあっつあつのお湯がたっぷり入ってるからね!」
働き者のチェシャさんは、広い『銀猫亭』のお風呂の掃除も担当している。
僕は彼女にぺこりと頭を下げて、裏口から宿の外に出た。
「うぅ、ちょっと冷えるかも」
外に出ると、途端に夜風が首筋を冷やす。
コートは部屋に置いてきたから、今の僕は簡素なシャツ一枚という出で立ちだ。
『銀猫亭』の裏庭には三つの建物が並んでいる。一つは馬や走竜を使う人のための厩舎、残りの二つが男湯と女湯だ。
二つの棟の見た目はそう変わらない。出入り口の上に掲げられている看板の色とマークが違うくらいだ。
けれども、実はお酒も入って気の大きくなる不埒者が多発したとかで、女湯には無数の警備魔法が張られているらしい。
「うっかり間違えて入っちゃうと洩れなく死を覚悟しなきゃいけないからね……」
昔、一度だけその惨状を見たことがある。
その時のことは、とても思い出したくない。男の尊厳というものが、ことごとく粉々に打ち砕かれたあの人は、今も元気にしているだろうか。
そんな事を思い耽りながら、僕は男湯に入る。
服を脱いで、更に奥へ。そこに広がっているのは、大きな大きな大浴場だ。
「ふぅ、やっぱりお風呂は気持ちいいなぁ」
体を洗ってからたっぷりのお湯に肩まで浸かると、一日の疲労が見る間に溶け出していく。
あまり入浴という文化がなくて、普段は濡らした布なんかで体を拭くだけで済ますけれど、今日みたいなよく動いた日なんかはやっぱりお風呂に入りたくなる。
「エンジュは元々お風呂に入る文化圏だっけ?」
彼女の故郷、鬼人族の住む島は確かそうだったはずだ。
だからこそ、この宿に移ってきてお風呂があることを凄く喜んでいたのだろう。
彼女はそれから毎日、宿に帰るとすぐにお風呂へと直行していた。
「……精霊もお風呂に入ったりするのかな?」
ふとした疑問が頭をよぎる。
彼らは魔力の高密度集合体であって、物質的な要素は半分くらいしかない。それでも一応、実体らしいものはあるわけで。
「精霊杖をここで取り出す訳にもいかないしな……」
周りには僕と同じようにお風呂を楽しんでいるおじさん達が並んでいる。
こんなところに突然火の蛇や土のお爺ちゃんを呼び出したら阿鼻叫喚だろう。
そもそも、二人ともそこまで水が得意ではなさそうだ。
「ウンディーネはどうだろう?」
彼女は水の精霊。清い水が何よりも大好きな子だ。
ここのお風呂の水は、毎日水の魔法使いが入れ替えてくれているらしいけど、どうだろうか。
「今度聞いてみて、興味を示したらエンジュに連れて行ってもらおうかな」
精霊にも、一応うっすらと性別はあるらしい。
外見や行動の他、本人の主張によってそれは決まる。サラマンダーやノームは男、シルフィやウンディーネは女だと、それぞれ契約したての頃に聞いた。
サイズ感や反応から少し幼い印象も受ける彼らも、実のところ僕よりよっぽど年上の存在だ。流石に子供のように彼女たちを連れて男湯に行くのはまずいだろう。
「……古狼にも文化という概念があるのかな」
お湯に浮かびながら、ぼんやりと考える。
狼とはいえ、悠久の時を生き、人々と契約すら交わした存在だ。その知能はかなり高いはずだ。
となれば、彼にも暮らしや文化、喜怒哀楽というものがあって然るべきと考えてもいいと思う。
「……掟を破らざるを得ない事情、か」
彼にどんな事情があるんだろう。
僕ら人間には理解できないようなものだろうか。
けれども、僕はできる限りそれを理解したいと思った。
「リューク、忘れ物だぞ」
「……ええええええ!? え、エンジュ!?!?? エンジュなんで? なんでここに!?」
突然ガラリと扉が開き、エンジュが現れる。
至極当然とばかりにやってきた彼女に、一瞬思考が停止する。
「うわあああ!!!??」
「きゃあああっ!!」
一瞬の間を置いて、男湯は阿鼻叫喚の様相となった。
おじさん達は肩までお湯に浸かって顔を背ける。
僕は慌てて立ち上がり、手近な桶で隠しながら彼女の側に行く。
「ななななんでここに!?」
「む、リュークがコートを忘れていたからな。届けに来た」
「それくらいいいよ! と、とりあえず早く出て!!」
「むぅ。私は別に気にしないが」
「みんなが気にするの!」
もう半分悲鳴だった。
僕はコートを持ったエンジュの背中を押して浴場の外に出す。
僕も撤収し、体を拭くのもそこそこに手早く着替えて外に出る。
「お願いだから、そういうのはやめて……」
「むぅ……。分かった、以後気をつける」
なんだか一気に疲労感が押し寄せてきた。
がっくりとうなだれる僕の肩に、エンジュがコートを掛けてくれた。
「エンジュは、あんまり女性としての自覚がない気がする」
「……正直、否定はできないな。男ばかりの中で育ったし。そこまで恵まれた体でもない」
思わず彼女の体に視線が向いてしまう。
人間としては十分女性らしいとは思うのだけれど、鬼人基準というのはどうにもハードルが高いらしい。
「……チェシャさんに頼んで、男湯にも警備魔法掛けて貰おうかな」
くしゅん、とくしゃみを一つ。
僕はコートの袖に腕を通して、温風の魔法を起動した。
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