第22話「鬼人族の欠点」

「ふっ!? くぅ……っ、んぁ……」

「大丈夫?」

「く、だ、大丈夫だこのくらいぃぃっ!」


 白い布の衝立の向こう側から、エンジュの苦悶の声が届く。

 心配でつい腰が浮いてしまうけれど、覗き込むわけにもいかない。


「先生、具合はどうでしょうか?」

「ま、傭兵にはよくある切り傷じゃな。鬼人は傷が癒えるのも早いし、こうして軟膏を塗って保護しておけば二三日で治るじゃろ」


 くたびれた白衣を着たお爺さんは、至極冷静な声色だった。

 だから別に治療など、とエンジュが言い掛けてまた小さく悲鳴を上げる。あの軟膏はずいぶんと傷に染みるらしい。

 シーニの迎えでシュルク湖を渡り、サルドレットの大門まで戻ってきた僕たちは、その足でまず診療所へ向かった。

 エンジュは渋い顔をしていたが、僕がなかば引きずって連れてきた。

 僕が応急処置を施したとはいえ、サハギンの剣で傷つけられたのだ。何か毒が塗られていないとも限らない。


「――これでよし。亜人、サハギンと戦ったんじゃったか? それでまあこれくらいの傷で済むなら腕の立つ方じゃよ」


 ほっほっほ、と笑いながらお医者さんが衝立の向こう側から現れる。

 立ち上がってお礼を言うと、彼は僕の全身に視線を這わせた。


「それにしても、応急処置が見事じゃった。君がやったのかね?」


 僕が少し照れながら頷くと、お医者さんは何度か頷いて目を細める。


「あれは良かった。応急処置がなかったら、もっと染みる薬も使わないといけなかったろうな」

「――っ!?」


 衝立の向こうで彼女の息をのむ様子が感じ取れた。

 僕が驚いて小柄なお爺さんを見ると、彼は若々しい目を光らせて、子供のような笑みを浮かべた。


「……終わったぞ。ほら、行こう」


 服を整えたエンジュが出てくる。

 努めて無表情を保とうとしているようだったけれど、少し表情が硬かった。

 僕らは笑いをこらえて、密かに目配せした。


「これ、お代です。ありがとうございました」

「……ありがとう」

「うむ。傷が開かんとも限らんから、多少は安静にするんじゃよ」


 治療代を渡し、僕らは診療所を出る。

 西区の大通りに戻ると、途端に人々の喧噪に包み込まれた。


「良かったね、大したことなくて」

「だから行かなくても良いと言ったんだ」


 ぷっくりと頬を膨らませ、エンジュはそっぽを向く。

 なぜだか知らないけれど、彼女は大の病院嫌いらしい。傭兵なら、それも彼女みたいな戦士なら生傷は絶えないし、病院を利用することも多いはずなのに。


「エンジュ、今まで怪我しても病院行かなかったの?」

「……寝てれば四、五日で治る」

「鬼人族って……」


 種族の再生能力に物を言わせた力業だった。

 僕はがっくりとうなだれ、今後彼女が怪我をしたときも引きずって連れて行こうと胸に誓った。


「そろそろ日が暮れ始めるな。夜になる前に、ギルドへ報告に行こう」

「そうだね。馬車に乗って帰る?」

「歩けるさ」


 穏やかな昼下がりとはいえ、のんびりとしていたらすぐに太陽は大壁の向こう側に沈んでしまう。

 僕たちは少し早足で、東区に向かって歩き出した。


「リュークが契約している精霊は、あの四体で全員なのか?」


 人混みを避けて進みながら、エンジュが不意に口を開く。

 僕は頷き、手に持っていた精霊杖を指し示す。


「ここに四色の魔石が埋まっているでしょ? それぞれ緑がシルフィ、赤がサラマンダー、焦げ茶がノーム、青がウンディーネの封印されてる石なんだ」

「それはまあ、なんとなく分かってる」


 僕は指を魔石の下、杖の表面にいくつかある窪みに移した。

 それは、丁度魔石が収まる程度の小さな窪みで、杖にはまだいくつかそれが並んでいる。


「精霊と新たに契約したら、この窪みに魔石を当てはめるんだ」

「つまり、精霊術師の持つ杖に埋め込まれた魔石の数が、その術師の契約している精霊の数なのか?」

「そういうわけでもないよ。指輪とかネックレスとかイヤリングとか、他にも魔石を装填できるものは多いし」

「ふむ……。中々難しいな」

「まあ、ぱっと見たくらいで自分の戦力を悟られるというのもまずいしね」


 そういう割に、僕はこの杖を見られたらおしまいなのだけれど。


「リュークは、まだ他にも精霊と契約したいと思っているのか?」


 彼女の質問に、きょとんとする。


「それは、まあ。一応精霊術師の端くれだし、強い精霊と契約を結びたいとは……」


 杖を持つ手にジンジンと魔力の波が送られる。

 どうやらお嬢様の機嫌を少し損ねてしまったらしい。


「い、今はそんなに困ってないけどね」

「うん? そうか」


 彼女は頷くと、また少し考え込む。

 僕は少し魔力を杖に送って精霊たちに弁明していた。


「なあリューク、ミモザの古狼は精霊なのか?」

「えっ? ああ……。うーん、どうだろう?」

「森で出会ったあの白い犬は古代精霊語とやらを使った。つまりはあの犬と関わりのありそうな古狼も精霊語を使うのでは?」


 彼女の考えは分かった。

 古代精霊語を理解し使うのは、往々にして精霊だ。だとしたら、僕が古狼と契約を結べるかもしれないと思い至ったのだろう。


「残念だけれど、多分僕の力じゃミモザの古狼と契約はできないよ」

「古狼は精霊じゃないのか?」

「多分、精霊に近しい存在ではあると思うけれどね。町のできる前から生きているとするなら、それはもう自然を超越してる存在だから」


 ならば、とエンジュが言う。


「僕は精霊術師としてはそれなりの力量を持ってると自負してる、うん。まあ他の術師を余り見たことがないけれど。――でも、流石にあれは格が違う。精霊、聖霊よりも更に上位の階層の存在だよ。むしろ精霊より、神の方が近いかもしれないくらいには」

「……そうなのか」


 僕の言葉を聞いて、エンジュは絶句した。

 僕自身、まさかそれほどの存在が町に程近い森にいるとは夢にも思わなかった。

 けれど、あの犬でさえ聖霊クラスの存在だったのだ。となれば、古狼は更に上位である可能性は十分にあった。


「古狼か、もし契約できたなら、とても心強い戦力になってくれるんだろうとは思うけどね」


 冗談めかして言う。

 本当に、もしミモザの森を支配している古狼と契約を結ぶことができたのなら、小さな国程度なら滅ぼせるのではないだろうか。

 それほどに彼の者の存在は強大で、僕らは矮小だ。


「――それなら、シュルク湖の大魚も古狼と同じくらいの存在なんだろうか?」

「恐らくはね。もし実在していたらだけど」

「見たんだろう?」

「見たけど……」


 シュルク湖で見た白い大魚。金色の目を光らせる、威風堂々とした姿だった。

 けれど、その圧倒的な存在感が故に現実味がなく、昼間の日差しが湖面に乱反射して見せた幻だったのかも知れない。


「そうなれば、だ」


 僕が思い耽っていると、エンジュが口を開く。

 耳を傾けると、彼女は続ける。


「サハギンの巣にあった壁画。ミモザの古狼と、シュルクの大魚。それに並ぶ存在が、この町にいると言うことなのかも知れないな」

「そんなまさか。だって、あそこに描かれていたのは人の顔でしょう? そんなこと……」


 ない、とは何故か言い切れなかった。

 自分の中でも言葉にできない、どうしようもない違和感があった。


「ねえエンジュ」

「――た」

「え?」


 隣を振り向くと、彼女は俯いていた。

 ぶつぶつと何か呟いている。

 もしや傷が開いたのかと僕は焦る。


「だ、大丈夫!? 傷が痛むの?」

「いや、違う」

「じゃあ、どうしたの?」

「おなかが、すいた」


 ……。

 そうだった。

 人間を凌駕する身体能力と再生力を持つ彼女たちの欠点。

 ものすごく燃費が悪いというのを、つい忘れていた。

 彼女の腹の虫はぎゅるぎゅると痛烈な訴えを放つ。

 顔色も悪く、目も虚ろだ。傷の治癒にエネルギーを消費しているからだろうか。


「ちょ、待って落ち着いて! どこかお店に入ろう。それで、何か食べよう」

「うぅ、おなかが空いた……」

「分かった、分かったから! ほら、肩に手を、お、おもっ」


 ぐったりと力の抜けるエンジュを支え、震える足で歩く。

 全身をほとんど弛緩させた彼女は、かなりの重量だ。これは単純に僕がひ弱というのもあるけれど、エンジュの体格が他の女性と比べてもずいぶん大柄というのもある。

 僕は首の後ろで支えるようにして、よたよたと歩く。

 何事かと気付いた周囲の人たちが左右に避けていく。


「す、すみません。このあたりにレストランなんかは」

「そこが食堂だよ。お連れさん、大丈夫かい?」

「ええ、な、なんとか……。ありがとうございます」


 心配そうに覗き込むおじさんにお礼を言って、なんとか彼女を背負って建物に入る。

 席に座らせた頃には、彼女はもう殆ど力が残っていなかった。


「……これは確かに、パーティを組むのも苦労しそうだなぁ」


 対面の椅子に座り、僕はようやく彼女がなぜずっとパーティを組めなかったのか、その一因を実感した。

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