第21話「シュルク湖の伝説」
湿地帯の森を抜け、シュルク湖の畔に立つ。
木々の枝葉の下から離れ、細かな砂地の上に立つと、降り注ぐ日光が頬をじんわりと焼き焦がす。
「シーニさーん!」
手で影を作って目を凝らすと、湖の中央に木舟が浮いている。
僕が声をあげて呼びかけると、舟の上の人影が手を振り返してゆっくりと近づいてきた。
「早かったな。サハギンはいなかったのか?」
「いえ、七体のサハギンが居たので討伐しました」
舟底を擦って着岸したシーニに、収納箱にしまっていた証拠品の入った袋を取り出してみせる。
紐で結ばれていた口を開くと、彼はのぞき込んで感嘆の声を漏らした。
「お前ら、見掛けによらず結構なやり手なんだな」
「見掛けによらずとは失礼だな」
シーニの軽口に、エンジュも半笑いで答える。
「ただ、エンジュが少し怪我をしちゃったので、早く町に戻りたいんです」
「そんな、急くほどのものじゃ――」
「一応看てもらわないと駄目だよ」
エンジュが何か言いかけるが、僕はそれを封殺する。
シーニさんは任せろと胸を叩くと、早速僕らを舟の上へと促した。
「いやぁ、助かったよ。これでまた気軽に漁ができる」
「私達が倒したサハギンだけが全てとは限らん。一応注意は怠らない方がいいぞ」
「それくらいは分かってるさ。それでも当面の脅威が解消されたのはありがたいや」
口笛混じりに櫂を操り、シーニは上機嫌で言った。
遠くの方では、今も仕事中の漁師達の影が小さく見える。
ひと仕事終え、波の揺られるままに身を委ねていると、だんだんと意識がぼんやりとしてくる。
「寝ていても良いぞ。魔力をだいぶ使ったんだろう」
「いや、そんなに……疲れて……な、い……」
隣で頬肘を突いていたエンジュが声を掛けてくる。
なぜか僕は意地になって反抗してみるけれど、だんだんと瞼は鉛のように重くなっていく。
たまに飛び上がる白い水滴が、波間に落ちる。
水紋が揺れる。
金色の目が、僕を見つめる。
ぱくぱくと開く。
司祭、掟――――。
――古の、境界線――――。
「――ッ!!」
「どうした?」
何かを見た気がして、僕の意識は突然覚醒する。
夢と現の狭間のような曖昧な世界だった。
唐突に体を揺らした僕を見て、エンジュが怪訝な顔を向けてきた。
「……いや、なんだろう。ちょっと夢を見てたのかな?」
いまいち自分が信じ切れなくて、頭を振る。
立ち上がる波と波の間に、白い魚が見えた気がした。
「シーニさん、シュルク湖ってどんな魚が釣れるんですか?」
「うん? そうさな、そりゃあ色々釣れるが……。俺たちが網で獲ってるのは香魚がほとんどだぜ」
「それって、白くて大きい魚なんですか?」
重ねて問いかけると、シーニはきょとんとした後に大きく吹き出した。
「はははっ。何言ってんだ。香魚はちっこい銀色の魚さ。白い魚なんて珍しいもん、見たことねぇや」
「……そうですか」
長年この湖で漁をしていた彼の言うことならば、信憑性も高いはずだ。
だとしたら、さっき僕が見た魚は幻か錯覚なのかもしれない。
「リューク、何か見たのか?」
「白い、大きな魚を見たんだ。いや、見た気がする。顔だけこっちに向けてじっと見ていて、宙に飛び上がってから水に潜っていった」
「……」
「いや、エンジュ。そんな考え込まなくても、気のせいかも」
「そんなにはっきり見えていたんなら、何かしらある可能性も高いだろう」
彼女は僕の話を聞くと、顎に指を添えて俯く。
そこまできっぱりと断言されてしまうと、僕もなんだかそんな気がしてしまう。
「ああ、そうだそうだ」
そんな時、舟を漕いでいたシーニが思い出したように口を開く。
「むかーしからこの湖にはヌシが居るって話ならあるぜ」
「ヌシ、ですか」
言葉を反芻すると、彼は頷く。
「とは言ってもずいぶん古いお伽噺さ。サルドレットができあがるよりもずっと昔、シュルク湖は今よりもっとずっと小さかったらしい。そこには沢山魚が住んでたが、その小ささのせいで魚同士の争いがあった」
彼は記憶の底を掘り返しながらそんなことを語り始めた。
僕は耳を傾けながら、視線を湖に戻す。
これほどに蒼茫とした湖に、そのような時代があったとはにわかには信じられなかった。
「そんなときに、湖に注ぎ込む川の一つからでけえ魚がやってきたんだ」
「その魚は、白かったり?」
「はは、リュークは白色が好きなのか? ま、残念ながらその魚は七色に輝いてたって話だ」
七色に輝く大魚。
なるほど、確かにお伽噺や伝説に伝わりそうな風貌だ。
「それで、その魚は?」
いつの間にか聞き入っていたエンジュが続きを催促する。
「湖に行って、魚たちの話を聞いた。そんでもって、そいつは自分の腹をかっ裂いたんだ」
「ええっ!?」
予想外の展開に、思わず腰を上げる。
こういう伝承は得てして尾ひれ背びれがつくものだけれど、それにしても怒濤の急展開すぎやしないか?
「そしたら腹の中から青色の血がどばどば溢れて湖を満たして、それだけじゃ足りずどんどん広がって、今のシュルク湖の大きさになったってさ」
人に話すのは初めてだぜ、とシーニが目を細めて歯を覗かせる。
僕はまた湖の水平線を眺め、小さくため息をついた。
「リューク、少し思ったんだが」
「なに?」
そんな僕の肩を叩いて、エンジュが声を掛ける。
僕が振り向くと、彼女は真剣な眼差しを向けた。
「あのサハギンの巣にあった壁画。少し気になるんだ。さっきの話に出てきた大魚は、あの絵にあった魚なんじゃないか?」
「……そうなると、ミモザの古狼と同じような存在?」
「まだ分からん。だが、無視できないんじゃないかとも思う」
偶然にしては出来過ぎなのかもしれない。
なぜ、サハギンは巣の中にあのような絵を描いたのだろうか。
そもそも、僕たちは彼らがなぜ森を出て湖にやってきたのかも見当が付いていなかった。
「エンジュ、僕らは何か大きな事に巻き込まれているのかもね」
そう呟くと、彼女は長い赤髪を風になびかせ、ゆっくりと頷いた。
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