第18話「水の令嬢」

 シーニは僕たちを桟橋に着けられた1艘の木舟に案内してくれた。


「漁船はもっとでかいんだが、小回りが利かねえからな」


 そう言って、彼は舟底に置いてあった櫂を握る。

 桟橋を蹴ると、舟はゆっくりと陸地を離れる。

 櫂が水を泡立て、徐々にその速度が上がっていく。


「あいつらも、人がいるこっち側には来ねえんだ」


 舟の動きが安定した頃合いに、穏やかな湖面を眺めながらシーニが言った。


「いつもは森の中に隠れて生活して、魚やらを獲るときだけこっちに来るのさ」

「それじゃあ、サハギンに襲われたような人はいないんですか?」

「今のところはな。でもまあ、魚を横取りされたんじゃあ、首を絞められてるようなもんさ」


 ゆらゆらと揺れる舟の縁に掴まる。

 そっと舟の外へと顔を向けてみると、思った以上に水面が近くて水しぶきが頬を叩いた。


「とりあえず、俺が見てる限りはこの辺には今もいないな」

「水中が見えるのか?」

「『水眼』ってギフトさ」


 シーニが自分の目を指さして言う。

 彼の目は、まるで水のような薄い青色をしていた。


「驚いたな。それなら、お前には舟の上というのは――」

「ま、最初はビビってたさ。でも今じゃあ空を飛んでるような感じがして、案外悪くないぜ」


 そう言ってシーニは肩を竦める。

 『水眼』というのは、魔眼系に分類されるギフトだろう。その効果はおそらく、水の中を見通すこと。

 つまり、彼はまるで空中に浮いているような視界で今の舟を操作しているらしい。


「魚の群れも見つけやすいし、重宝してんだ」

「そうか。適材適所という奴だな」


 エンジュの言葉に、シーニは気のいい笑みを浮かべて頷いた。


「そら、そこの森だよ」


 しばらく湖面を揺られていると、シーニが前方を指さす。

 どこまでも代わり映えのしない風景に若干意識が麻痺していた僕は、慌てて正気に戻って背筋を伸ばす。

 彼の指の先に、こんもりと茂る濃い緑色の森があった。

 土と湖の混じり合った湿地帯に広がる小さな森だけれど、キルシュの断崖から細く続いてシュルク湖に流れ込む支流の一つをぴったりと覆っている。

 断崖に近づけば近づくほどに森は広く深くなっていき、生息する魔獣も多様になっていくのだけれど、今までは湖畔近くに危険な魔獣は確認されていなかった。


「森で均衡が崩れて追われてきたか、人の怖さを忘れてしまったのか……」

「どちらにしたって危険なことには変わりないよ。ちょっと心苦しいけれど、退治しなきゃ」

「それが私たちの仕事だろ。そこに何の引っかかりもないさ」


 エンジュは淡々と言って、背中の槌を下ろす。

 小舟はゆっくりと岸に近づき、ざりざりと砂の湖底を擦って着岸した。


「そいじゃあ俺はこのへんで。湖の真ん中あたりで待ってるから、終わったり何かあったりしたら声掛けてくれ」

「ありがとうございます。助かりました」


 湖をまっすぐ横切れたおかげで、ずいぶんな時間短縮になった。

 僕とエンジュが頭を下げてお礼を言うと、彼は照れくさそうに無精ひげを撫でた。


「さて、それじゃあ一仕事しようか」


 槌の具合を確かめて、エンジュがニヒルな笑みを口元に浮かべる。

 僕も精霊杖を握り、気持ちを入れ替える。


「シルフィ、よろしく」

『――っ!』


 シルフィを呼び出し、周囲の哨戒を頼む。

 彼女はぴしりと敬礼をするように腕を上げると、勢いよく木々の上空へと飛び上がった。


「シルフィは空を飛べていいな……」

「彼女の視界にはすごく助かってるよ。ま、僕らは歩きだけれどね」


 羨ましそうに緑の光を眺めるエンジュ。彼女の袖を引っ張って、僕らは森の奥へと足を踏み入れた。


「歩きにくいな」

「ぬかるみに足を取られないでね」


 森とは言っても、ミモザの森の風景とはまるっきり違う。

 地面全体が水分の多い泥で覆われていて、立ち並ぶ木々も太い根っこで自身を持ち上げた奇妙な姿ばかりだ。

 幅の広い葉っぱが茂っているおかげで日差しはそこまで強くなく、その上で視界はある程度明瞭だ。


「サハギンはどのあたりにいるんだろうな?」

「頻繁に目撃されてるってことは、川沿いか湖の畔。畔には居なかったから。川沿いを上流に向かって歩けばそのうち見つかるんじゃないかな?」


 シルフィからの報告も特にはない。

 僕らは最低限の警戒はしつつ、緊張しすぎない程度に肩の力を緩めて、緑の匂いの濃い中を進んでいった。


「本格的に戦闘となると、僕は補助にしか回れないからね」

「分かってるさ。その時こそ私の出番だ」


 精霊術士は戦闘に向かない。

 強力な精霊や聖霊、悪魔や神使なんかと契約できているならいざしらず、僕と契約してくれている四体はみんなごく普通の精霊だ。


「魔熊を拘束していたあの、炎の蛇は召喚できるのか?」

「サラマンダー? うーん、どうだろ……。ここは水の気が多いからかなり弱体化してると思うよ」

「そうか。じゃあ、ウンディーネは?」

「水辺なら一番活躍してくれると思う……。そうだ!」


 突然声を上げた僕に、エンジュが驚く。

 謝りながらも、僕は今気がついたことを彼女に話した。


「ウンディーネにこのあたりを探してもらおうと思うんだ」

「シルフィみたいに空が飛べるのか?」


 怪訝な顔の彼女に、僕は首を横に振る。


「ううん。でも、きっとウンディーネの方がすぐにサハギンを見つけてくれるよ」

「リュークがそう言うなら、私は何も言わないさ」

「ありがとう。それじゃ、少し待っててね」


 僕はあたりを見渡し、シュルク湖に注ぎ込む川の側まで近づく。

 泥の混じった濁水だ。


「……ウンディーネ、ちょっと良い環境じゃなさそうだけれど、力を貸しておくれ」


 杖の先を水に浸ける。

 ゆったりと流れる水面に、白い筋が引かれる。


「ウンディーネよ、顕現せよ」


 体内の魔力が杖に流れ込む。

 幾重にも重なる緻密な回路を流れ、それは意味のある形を構築していく。


「う、嫌なのは分かるけど君の力が必要なんだ」


 少し怒気を孕んだ感情が杖を震わせる。

 魔力を多めに渡すことでなんとか宥め賺して、術式は最終段階へ到達する。

 魔力が解放され、杖を中心として灰色の湖面に魔方陣を展開する。魚の鱗のようにも見えるその魔方陣は次第に回転を速め、やがて極小の円に収束する。


「うわっ」


 最後に一際大きな光が放たれ、後ろで見ていたエンジュが狼狽える。


「ありがとう、ウンディーネ」

『――!!』


 僕が声を掛けると、水色の彼女はぷいっとそっぽを向いた。

 水の中から頭だけを出している彼女が、ウンディーネ。人魚のように上半身は人で、下半身がすらりと長い魚の精霊だ。


「このあたりに居るはずのサハギンを探してほしいんだ。多分岸に近い場所に巣を作ってるはずだ」


 そう言うと、ウンディーネは仕方ないなとでも言うようにもったいつけて頷くと、ちゃぽんと飛沫を残して川の中に潜っていった。


「……少し気難しそうな精霊だな」


 見ていたエンジュが少し呆れた様子で近づいてきた。


「潔癖症なんだよ。契約したときに居たのが、森の中の小さな泉だったからね」


 ウンディーネは、僕が最後に契約を成功させた精霊だ。

 エルフの森の奥にある静かな泉に何ヶ月も通って頼み込んで、なんとか契約してもらった。

 その割にはあまり出番を作ってやれなかったのも、彼女の機嫌が芳しくない原因なのかもしれない。


「精霊の契約というのも、私はあまり知らないな」

「精霊のいるところに行って、気に入ってもらえれば契約できるんだよ。それがなかなか大変なんだけれどね」


 ウンディーネからの報告を待つ間、少し手持ち無沙汰になって、僕は話した。

 いつの間にかシルフィは帰ってきて、僕らの少し上空を戯れるように飛んでいる。


「サラマンダーは火山で、ノームはドワーフの廃坑で出会ったんだ。二人はまだ楽だったかな」

「シルフィは?」

「あの子が一番大変だったんだよ」


 その時のことを思い出して、思わず笑みがこぼれる。 僕の言葉に、エンジュは意外そうな顔になった。

 たしかに、今みたいにシルフィを多用しているのを見たら信じにくいかもしれない。


「風の精霊はすごく自由奔放でね、束縛されるのを何より嫌うんだ」

「それじゃあ、精霊術師との契約なんてもってのほかなんだな」

「そういうこと」


 それに、と言葉を続ける。


「風精霊は他の精霊と違って好む土地をあまり限定しないからね。どこにでもいるけれど、どこにもいない。探し出すのがとても難しい」

「精霊術師というのは……。精霊を使役する前にも苦労をするんだな」

「まぁね」


 エンジュの視線が少し柔らかくなる。

 精霊術師の苦労というのは、なかなか分かってもらえないものだ。だから僕は彼女の反応が嬉しかった。


「その分、強い精霊が契約に応じてくれた時の喜びっていうのは一入みたいだよ。師匠は六百六十六の精霊と契約してるって言ってた」

「――それ、本当なのか?」

「さぁね。ただ、実際あの人は――」

『――っ!!』


 僕の言葉を遮り、ウンディーネの声が川から届く。

 慌てて振り向くと、彼女が顔を出してこちらを見ていた。


「見つけた?」


 そう聞くと、彼女はコクコクと頷き、細い腕を上流に向けてまっすぐ伸ばす。


「シルフィ!」


 上空を旋回していたシルフィを呼び戻す。


「ごめん、エンジュ。話はまた後で」

「分かってるさ」


 エンジュも槌を撫でて臨戦態勢に入る。

 水面を泳ぐウンディーネの後を追って、僕たちは走り出す。


「近い? 数は?」

『――』

「そっか。ありがとう」


 嫌々ながらという感じではあったけれど、ウンディーネはちゃんと仕事を完遂してくれた。

 彼女のおかげで、詳細な情報がもたらされる。


「リューク、私には精霊語はさっぱりなんだが」

「すぐそこの対岸に、五体いるらしい。狩りが終わったのか食事中だから奇襲にはもってこいだって」

「あれだけの声にすごい情報量だな!? というか、ウンディーネは案外えげつ――きゃっ!?」


 エンジュの悲鳴に慌てて顔を向けると、彼女は顔面に水を浴びていた。

 ウンディーネを見ると、彼女はふいっと顔を背ける。


「ウンディーネ!」

「いや、私が失礼だった。すまない」


 先を急ごう、とエンジュはまた走り出す。

 僕は気難しいお嬢様に小さくため息をつくと、彼女たちの後を追った。

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