第17話「シュルク湖の漁師」

 焼き魚定食は、すぐにタコ足の少女が運んできてくれた。


「お待たせしましたー」


 八本の足を器用に使い、抜群の安定性を見せる彼女の動きはとても滑らかなものだ。両手に抱えたお盆は一切動かず、付け合わせのスープには波一つ立たない。

 運ばれてきた焼き魚定食は、まるまると太り脂の乗った魚が主役のメニューだった。シュルク湖で今朝釣られたばかりだと少女が教えてくれる。


「魚は東区だとなかなか食べられないから、楽しみだよ」

「うふふー。このお魚は生でも美味しいんですよー」

「そういえば、人魚族は生食文化なんだっけ」


 水中を生活の基盤にする彼女たちに火を熾す文化はない。そのため、彼女たちの作る料理も生のものが多いというのは昔なにかの本で読んだことがあった。


「ニシンのパイ、お待たせしましたー」

「おお、きたか!」


 焼き魚定食の到着からそれほど待たずに、次はエンジュの頼んだニシンのパイがやってくる。

 思わず立ち上がるエンジュに吊られて僕も首を後ろに回す。


「ニシンのパイ、デラックスメガドスコイサイズですー」


 山だった。

 巨岩をいくつも重ねたような、いっそ神々しさすら感じる山が、テーブルの真ん中に鎮座した。

 それは圧倒的な存在感で、僕たちを威圧する。


「……あの、エンジュ。これは?」

「ニシンのパイだが?」

「僕の知ってるニシンのパイと違う……」


 立ち上がってパイの表面を見ると、虚無を映す瞳のニシンが何匹も突き刺さっている。

 彼らは一心不乱に天を見上げ、なにを祈っているのだろうか。


「さあ、食べよう」


 冷めないうちに早く早く、とエンジュが急かす。

 僕はなんだか見ただけでお腹一杯になってしまったけれど、彼女と一緒に食事を始めた。


「おいしい……」


 焼き魚はとても美味しかった。

 ぱりっと破ける皮の下には、みっちりと詰まった白い綿のような肉がある。たっぷりの脂を吸い込んだそれを一口食べれば、じゅわりと熱い旨味が川のように流れ込む。

 小鉢に盛られた小エビのオイル煮も、濃厚な甲殻類の旨味がぎゅっと凝縮されている。カリカリに焼かれたパンに乗せて食べると、思わず目を瞑ってしまうようなおいしさだ。


「お魚はやっぱり美味しいよね」


 パイの向こう側にいるエンジュに声をかける。

 彼女は一心不乱に口を動かしているのか、返事らしい返事は返ってこなかった。


「ごちそうさま」

「ごちそうさま」


 至高の時間もいつかは終わる。

 どれほど名残惜しく思っても、お皿の上はどんどんと綺麗になってしまう。

 なぜか僕とほぼ同時に巨大パイを食べ終えたエンジュと共に、僕らはお腹一杯の満足感とほんの少しの寂しさに束の間身を委ねた。


「さて、腹ごしらえも済んだしそろそろ行くか」

「もう動けるの……」


 水を一杯飲み干した後、そう言ってエンジュが立ち上がる。

 あれだけの量を食べ尽くして、けろりとした顔だ。

 僕は彼女の鯨飲馬食ぶりに戦慄を覚えつつ、お代を払って店を出た。


「シュルク湖は西の門からどれくらいだ?」

「そんなに離れてなかったと思うよ。小さな水路が流れてるから、それに沿って行けばいいみたい」


 シュルク湖への道のりは昔に調べていたことがある。

 今の今まで行ったことはないけれど、その情報は確かなはずだ。


「あそこが門か」


 エンジュが前を指さして言う。

 その先には巨大な石造りの壁があった。南区の港湾を除く、サルドレットの全方位を守護する大壁だ。その壁の足下に、立派な門が一つ開かれている。

 両脇には衛兵達が目を光らせる関所が置かれ、町の内外から絶えず人が移動する。時には馬車や竜車もやってきて、そのたびに先を急ぐ人々が眉間に皺を寄せていた。

 僕たちは人の流れに乗って関所まで行き、そこの衛士にギルドカードと依頼書の写しを見せる。そうすることで、僕らの通行税はギルドが負担してくれるのだ。


「シュルク湖はこの先で合ってますか?」

「ああ。そこの水路の上流だよ」


 一応、西区の人にも確認を取っておく。情報というのは新しければ新しいほど良いものだ。

 そうして僕たちは意気揚々と門をくぐり、町の外へと飛び出す。

 門を抜けた瞬間に視界は急激に広がり、茶色い木や煉瓦で作られた風景は緑と青の絶景へと変化する。

 涼しい風が首もとを撫で、僕はコートの襟を直した。


「このあたりは東とそう変わらないな」


 エンジュが手で庇を作りつつ遠方を眺めて言った。


「まあ、どっちも大きなくくりで見たらサルティーア平原っていう一つの土地だからね」

「開拓団がやってきた頃は、それこそ途方もない広さだったんだろうな」


 この地へ最初にやってきた人々は、どのような風景を見たのだろうか。

 エンジュの言葉を受けて、僕は胸の底からふつふつと興味がわき上がるのを感じた。


 道沿いに水路を辿り、晴天の下を歩く。

 少しすると水路は街道を外れて遠く北の彼方に見えるキルシュの断崖へと延びていく。


「シュルク湖の水源は、キルシュの断崖か」

「たぶんね。雪解け水なのかも」


 うっすらと青に滲む山頂は、白銀の光を放っている。

 町を見下ろすキルシュの断崖もまた、サルドレットに多くの恵みをもたらす存在だった。


「キルシュの断崖と湖の間に、森があるんだ。そこは魔獣がたくさん住んでいるから、未だに人の手は入っていないらしいよ」

「となると、今回のサハギンはそこからやってきたのか」

「かもしれない」


 サハギンは、水棲の魔獣だ。しかし人魚と同じように陸上でもある程度活動することができる。

 森の水辺に住んでいたサハギンが、何らかの事情でシュルク湖まで迷い込むというのは、それほど荒唐無稽な話ではない。


「あいつ等は全身が鱗で覆われているから、斬撃はあまり通らないんだ」

「じゃあ、代わりにその槌の出番なんだね」


 そう言うと、エンジュは不敵な笑みを浮かべて頷いた。

 天然の鎧を纏う彼らは、いわば剣士にとっての天敵だ。しかし全身が鎧ということならば、打撃はより効率的な攻撃手段になる。


「水辺ということは、ウンディーネに手伝ってもらえるね」


 僕は精霊杖の先端に埋め込まれた魔石のうち、水色に輝くものをそっと撫でた。


「ウンディーネは水の精霊か?」

「うん。だから水辺が一番力を発揮してくれる環境なんだ」


 普段であればシルフィーが最も安定した力を貸してくれる。それは風がこの世界に普遍的に存在するものだからだ。

 しかし、普遍的であるが故に、彼女たちの総合的な力は他の精霊と比べるとどうしても見劣りする。

 火の多い場所ではサラマンダーが、そして水の多い場所ではウンディーネが、無類の強さを発揮してくれるのだ。


「あ、見えてきたよ。あそこがシュルク湖だ」


 水路のせせらぎを遡ること数十分。僕は前方に広がる銀の水面を見つけた。


「すごい……。まるで海みたいだ」

「水平線が見えるな。舟も浮かんでいる」


 幅の広くなった水路の隣に立って、僕はしばし初めてのシュルク湖を堪能する。

 青空よりも幾分濃い青い湖面は細やかに波立ち、降り注ぐ陽光が乱反射している。

 湖畔にはいくつかの小さな建物と、細い桟橋が組まれ、今も湖の真ん中を人間や人魚の漁師たちが網を牽いて進んでいた。


「なんとも長閑な風景だが、本当にサハギンがいるのか?」

「釣り小屋に行って、話を聞いてみる?」

「そうしよう。サハギンの場所が分かれば手っ取り早い」


 僕たちは湖の縁を歩いて木造の小屋に向かう。

 魚の匂いの立ちこめる簡素な小屋の前には、絹糸の網が広げられていた。

 少し開いた小屋の引き戸の隣に、『水霊の小舟 シュルク湖漁業組合』と彫られた木の看板が立てかけてある。


「ごめんくださーい」


 小屋の外から声をかける。

 少しするとどたばたと何やら慌ただしい音が鳴り響いた後、半裸にぼろぼろの上着を引っかけた男の人が現れた。

 黒々と焼けた、まるで鉄のような腕だ。無精髭をザリザリとさすりながら、彼は胡乱な目で僕らを見た。


「あんたら、なんか用か?」

「僕ら、依頼を受けてやってきた傭兵です。サハギンが出たという話を聞いたので」

「おお、あんたらが引き受けてくれたのか! 依頼を出したのはウチなんだ」


 ギルドカードと依頼書の写しを見せながら言うと、彼は打って変わって笑顔を浮かべて近づいてくる。

 鼻と鼻がくっつきそうなくらいまで近づき、彼は僕の手を握って歯を見せる。


「俺ァここで漁師をしてるシーニだ。他の仲間は今ちょうど漁に出かけててな」

「僕はリュークです」

「エンジュだ」


 互いに名前を伝えると、彼は早速詳しい事情を説明してくれた。


「最近になって急にサハギンが出てきやがってな。網は切られるわ魚は食べられるわで、こっちは商売上がったりなんだよ。この前偵察とか行って傭兵の三人組が来たんだが、いや、今度こそ追っ払ってくれるならありがたい」

「任せろ。私たちがちょちょいのちょいっととっちめてやる」

「え、エンジュ……」


 嬉しそうに早口でまくし立てるシーニ。彼に乗せられたのか、エンジュが鼻をひくひくとさせて啖呵を切る。

 そんな安請け合いをしてしまっていいのか、僕はその間に挟まれてはらはらとしていた。


「そ、それでサハギンが出たのはどの辺なんでしょうか」

「ああ、そうだな。森の方の岸辺だよ。森から養分がぼんぼん流れてくるから、いい漁場だったんだがな……」


 シーニは遠くの方を指さして嘆く。

 じっと目を凝らせば、なんとなく森のような影が見える気がするけれど、どうやら随分と距離がありそうだった。


「これは、向こうに行くだけでも大変だね」

「なんとか今日中に終わらせたいんだがな」


 ギルドの依頼は日帰りが基本だ。ミモザの古狼の件ならいざ知らず、今回は特例も着いていない。


「足に困ってんのかい? それならあそこまで、とはいかねえが近くまでは舟で送ってやるよ」

「ほんとですか!?」

「ああ。俺らだって困ってるんだ。できることなら何だってやるさ」


 シーニがぐっと親指を立てて断言する。

 彼の有り難い提案は、まさに渡りに船だった。


「それじゃあ、お願いします」


 そう言って頭を下げると、シーニは照れくさそうにザリザリと無精髭を撫でて笑った。

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