第12話「サンドウィッチとコーヒー」

 朝は早い方だ。

 まだ日が昇らない、薄暗い時間になると決まって自然と目を覚ます。昔、師匠の元で修行をしていた時に体の芯にまで叩き込まれた習慣、もはや本能と言ってもいい。

 エンジュはまだ隣のベッドで静かに寝息を立てている。薄い布団がわずかに上下するのを見て、確かに彼女と一夜を明かしたのを今更ながらに理解した。

 昨日は二人とも極々平和な夜を過ごした。というのも、僕がお風呂に行って部屋に帰ってきたときにはもう、彼女は自分のベッドを決めてすやすやと入眠していたのだ。

 信頼してくれているのはとてもうれしいけれど、こうも無防備だというのもそれはそれで男として少しもどかしく思う。

 ともあれ、僕はしっかりと睡眠をとることができて、すっきりと目覚めることができた。


「さて、エンジュが起きる前に済ませちゃおう」


 ベッドに広がる赤い髪を見て、僕はあくびを一つ漏らした。

 僕はまだ温もりの残るベッドから這いだすと、収納箱の中から一冊の手帳を取り出す。くたびれた黒い革の表紙の、少し大きい手帳は、僕が精霊術師を志したときに貰ったものだ。

 そこに掛かれているのは僕のほぼ全て。昨日食べたご飯から、精霊術に関する秘密まで、実に様々なことを書き留めている。

 毎朝その手帳を開いて中身を確認して、また考えたことを書き連ねるのが、僕の朝の習慣だった。


「ミモザの古狼か……」


 昨日の夜、ページを一枚使って書き連ねた文字の群を見る。

 一つの名前を中心にして、僕が考えられるだけのこと全てをそこに書き出した。

 まだ確証はないけれど、思考の密林は少しずつ整理されていっている。


「古い約束、開拓団……。森の狼……」


 キーワードを探しだし、ペンでぐりぐりと囲んでいく。

 満天の星の中から星座を見出すように。


「麦穂、オリー、豊穣の女神……」


 新しく書き足すのは、昨日リージュ薬舗で購入したもの。

 それらも、僕の推察が正しければ使うときがあるはずだった。


「ふぁ……。おはよぉ……」

「お? あ、おはよう。エンジュ」


 一心不乱にペン先を走らせていると、不意に背後から声がかかる。

 振り返れば、ラフな格好をしたエンジュが寝ぼけ眼を擦りながら大きくあくびをしていた。

 長い深紅の髪は荒れ放題で、四方八方に飛び跳ねて中々面白い事になっている。


「昨日はお風呂、どうだった?」

「うむ。あれはなかなかいいな。いい湯加減だった」


 手帳を閉じつつ尋ねれば、エンジュは昨日のことを思い出したのかうっとりとした顔で答えた。

 今までずっと水浴びで済ませていたという彼女には、よほど気持ちがよかったんだろう。


「すっかり疲れが取れたのは良かったが、少し逆上せてしまったらしい。部屋に戻ったらすぐに寝てしまった」

「あはは。みたいだね。僕が帰ってきたときにはもうぐっすりだったよ」


 僕が笑うと、エンジュは面目ないと細い眉を下げる。

 別に逼迫した予定があった訳でもないし、よく眠ってくれたならいいのだけれど。


「今日はひとまず様子見に森まで行こうと思うんだけど、いいかな?」


 話題を変えて、今日の予定のあらましを伝える。

 彼女はベッドの上に座って頷いた。


「構わないさ。私はリュークに付いていく」


 彼女は簡潔にそう言うと、顔を洗ってくると行って部屋を出る。

 それを見送って、僕は思わず苦笑した。

 もう少し、エンジュからも意見を聞きたかったのだけれど……。


「ともあれ、僕も着替えようかな」


 まだ寝間着のままだったことを思い出して、僕は収納箱から服を取り出す。

 今日は町の外に出るから、布の服とは別に革の防具も。

 それとカーキ色のコート。これは色々と魔法の掛かった特別製で、軽くて丈夫な上に多少の攻撃なら防いでくれる防御力もある便利な代物だ。魔法使いは基本的にローブみたいなゆったりとした服装をしていることが多いから、それに倣っている部分もあるけれど。

 最後に忘れてはいけないのが、精霊杖。取り出して柄をそっと撫でると、魔力が少し吸われて魔石の中の精霊達のごはんになる。


「今日もよろしくね」


 そう声をかけると、杖が少しだけ震えた。


「む、もう着替えたのか。……コートはもう暑くないか?」


 準備が終わるのと丁度同じ頃に、さっぱりとした様子でエンジュが戻ってくる。

 彼女は僕の格好を見て怪訝な顔をした。確かに、もう春から初夏と言っても良いくらいの季節で、日差しもだんだんと強くなってきた。戦士職の彼女からすれば、このコートは暑そうに見えるかもしれない。


「大丈夫。魔法使いが着てるコートとかローブは、大抵魔法が掛かってるから」

「冷風の魔法だったか。確かにそれなら涼しいのか?」

「むしろ日差しが遮られる分快適だよ。ある程度魔力を消費しちゃうけど、魔法使いなら気にならない程度だし」

「ほう……。確かにひんやりしてて気持ちいいな」


 エンジュがコートの裾を掴んでほうと声を上げる。

 魔力をよく通すミスリル糸と、丈夫なアラクネ糸を織り交ぜた特別な生地は、魔力親和性はもちろん手触りもいい。


「鬼人族は魔力をほとんど持たないからな、恐らくそのコートを着ても暑いだけだろう」


 そう言って、エンジュは羨ましそうに僕を見た。

 彼女たち鬼人族は、獣人族と同じように体内に保有する魔力のほとんどを身体の強化に充てている。だから魔法布のコートを始めとした魔法使いがよく使う魔導具の殆どが扱えない。


「まあ、私はずっとこれでやってきたし、今更だけどな」


 そう言って、エンジュは自分の荷物の中から服を取り出す。

 一枚の布を縫い合わせたような、ゆったりとした服だ。腰の部分で帯を締め、袴を穿く。


「異国の……、エンジュの故郷の服だったっけ」

「ああ。産まれた頃からずっとこれを着ていたから、このあたりの服はあまり馴染めなくてな」

「そっか。って、ちょ、ま、エンジュ!」


 話を聞いていた僕は、目の前のエンジュに慌てて声をかける。


「どうした?」


 エンジュが不思議そうな顔でこちらを見る。

 ゆったりとした服の、前を留めている結び紐を解こうとしながら。

 藍色の布地の向こう側に、うっすらと白い肌が見え隠れする。

 僕は極力視線を上に向けて、エンジュに向かって叫ぶ。


「突然脱ぎ始めないで! ぼ、僕は外に出てるから!」

「え? ああ、そうか。忘れてた」

「忘れることじゃないでしょ!?」


 なんで僕が悲鳴を上げているんだ。

 そんな事を思いながら、僕はダッシュで部屋を出る。

 エンジュ、まだ寝ぼけてたのかな……。もしくは一人暮らしが長くて感覚が麻痺してる? ともかく、これからも一緒の部屋で過ごすなら、気をつけて貰わないと。


「終わったぞ」


 廊下で壁に背を預けて悶々としていると、ドアの奥からエンジュの声がかかる。

 その至極冷静な声色に、一人で慌てていた僕はどこか納得のいかない思いがした。


「開けるよ」


 一言断って中に入る。

 ゆったりとした寝間着から、昨日と同じような服に着替えたエンジュが立っていた。

 髪も紐で一束に纏めていて動きやすそうだ。


「それじゃ、行こうか。とりあえず下で朝ご飯食べて……」

「工房で槌を受け取らないといけないな」

「そっか。じゃあその後で森に行こう」


 簡単な予定を共有して、僕たちは『銀猫亭』の一階、酒場へと降りる。

 朝はそれなりに静かな酒場では、起き出した宿泊客や近所の住人が朝食を楽しんでいた。


「にゃぁ、リュー君にエンジュちゃん、おはよー」


 階段を下りていると、お盆に料理を乗せて歩いていたチェシャさんが僕たちに気が付いて声をかけてくれる。


「朝ご飯はなににする? 今日は何でもおすすめだよー」


 何でもおすすめ、というのは彼女の常套句の一つだ。

 そしてその言葉に違わずこのお店の料理はどれもとてもおいしい。


「サンドセットをお願いします。あと、コーヒーも」

「む? じゃあ、私もそれで」


 いつもの注文をすると、エンジュもそれに倣う。

 チェシャさんは頷くと、早速カウンターの奥の厨房へと消えていった。


「朝から働き者なんだな」


 厨房の方へ顔を向けて、エンジュが言う。

 宿の一人娘として働く彼女は、僕が起きるずっと前に働き出す。昼に起き出す事も多い傭兵とは大違いの、勤勉な人だ。


「あそこに座ろう」


 壁際の二人掛けのテーブルを見つけて、そこに腰を落ち着ける。

 エンジュも肩に掛けていたリュックをイスの背もたれに掛けて、対面に座った。


「荷物、重たくない? 良かったら僕が持ってようか」


 ずっしりと重量感のある、撥水布のリュックだ。だから親切心からついそんな事を言ってしまった。

 しかしエンジュは、そんな僕にむっとした視線を返す。


「リューク」

「は、はい」

「女性の荷物は色々とあるんだ」

「はい……」


 短く告げられた言葉に、僕はしゅんと肩を縮める。

 確かに考えたらずだった。ずっと肌身離さず持ち歩いている荷物だ、大切なものがたくさん詰まっているだろう。


「ごめんね」

「分かればいいさ」


 僕が謝ると、エンジュはふっと表情を和らげて答える。

 そうこうしているうちに、チェシャさんがお盆に料理を載せてやってきた。


「おまたせー。サンドセットとコーヒーね!」


 白磁の器を彩るのは、新鮮な野菜とハム、卵の挟まれたシンプルなサンドウィッチ。マッシュポテトとボイルされたソーセージも添えられて、更には根菜のコンソメスープのカップが続き、朝からかなりのボリュームだ。


「ありがとうございます。頂きます」

「にゃぁ、ごゆっくりー」


 チェシャさんは尻尾は二三回振ると、軽い足取りで席を離れていく。

 僕らは一度顔を見合わせると、早速食事に取りかかった。

 軽くトーストされたパンはさっくりと香ばしく、挟まれた具材はとても新鮮で瑞々しい。

 僕は傭兵として仕事をする朝は、いつもこのセットで一日の体力を摂っていた。


「うん。おいしいな」


 初めてのエンジュも、このセットには満足のようだ。

 スープで濡らした唇を弧にして、調子よく食事を進めている。


「ふぅ」


 一緒に頼んだコーヒーを一口飲んで、僕はほっと息をつく。

 好みはアイスコーヒーなんだけれど、この宿には氷を作れる魔法使いがいないからホットだけだ。

 とはいえ、この苦みが目を覚ましてくれて、一日を始めようという気持ちにさせてくれることには代わりはない。


「う゛っ」

「どうしたの?」


 心地よい朝を満喫していると、不意にエンジュのうめき声が聞こえた。

 彼女の方を見てみれば、短い舌を出して眉間に皺を寄せている。

 その手には、僕と同じコーヒーカップがあった。


「……もしかしてコーヒー苦手?」

「苦手というか……、初めて飲んだ」


 ふるふると震える手でカップをテーブルに置き、エンジュが答える。

 外見に似合わず、子供舌なのだろうか? ていうか、なんでコーヒー頼んだんだろう……。紅茶もジュースもあるし、確かエンジュの故郷のお茶もあったと思うのだけれど。


「えっと、砂糖とかミルクとか入れるといいよ」


 僕はコーヒーと一緒に出された二つを指し示す。

 僕はブラック派だから使わないけれど、エンジュには必要だろう。

 彼女は早速封を切ってどちらも全部入れた後、ティースプーンでかき混ぜる。その後恐る恐る口をつけて……、また顔をくしゃりと歪めた。


「……僕の分も使う?」

「……ありがとう」


 結局、彼女は二人分の砂糖とミルクを全部使って、ようやくコーヒーを楽しむことができたらしかった。

 そうして朝の食事を終えた僕たちは、チェシャさんに見送られながら宿を出て工房へと足を向けた。

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