第11話「銀猫亭」

「うぅ……もう日が暮れかけてる……」


 町の通りが交差する小さな広場、その片隅に置かれた長椅子に腰を下ろし、エンジュがぐったりとした様子で言った。

 手帳を開いて買い物リストを確認していた僕が顔を上げる、彼女は恨みがましい目をこちらに向ける。


「大丈夫? ごめんね、思ったよりも遅くなっちゃって」

「まさかあの後六軒も回るとは思わなかったさ」

「丁度物資が切れかけてる時だったから。いつもはこんなに沢山歩かないよ」


 僕が手を振って弁明するも、彼女の疑いはまだ晴れない様子だった。

 どうしたものかと首を捻り、僕は周囲を見渡す。

 夕日が差し込むサルドレットの大通りには、多くの人がいる。夕餉の材料を求めて小さな子供を連れ歩く女性、鋭い目を光らせる警邏。

 中でもこの時間に一際目に付くのは、帰路に就く労働者たち。一日を労働に費やし、疲労を対価に懐を暖めた彼らの表情はどこか晴れやかだ。

 そしてまた、彼らを虎視眈々と狙う者も多くいる。通りの両脇に軒を連ね、食べ物を売る商人達。彼らの書き入れ時はまさに今、このとき。腹の虫が鳴き声を上げ、くったりと疲れた人々に、威勢の良い売り文句と鼻腔をくすぐる良い匂いを送り込む。

 そうなれば、道行く人々の財布の紐も緩もうというものだ。


「ほら、エンジュ」

「うん? わっ!?」


 座ったまま薄く目を閉じていたエンジュに声を掛ける。

 彼女は目の前に差し出されたものを見て驚き飛び上がった。


「そこで売ってたんだ。今日付き合ってくれたお礼に。……甘い物は嫌いだった?」


 木のカップに注がれているのは、氷を浮かべたレモネード。たっぷりのシロップとレモンの酸味が美味しい、定番の飲み物だ。

 サルドレットでも沢山のレモネード売りが店舗、露店を問わずにあるけれど、僕が買ってきたところのは、魔法使いが綺麗な透明の氷を作って浮かべてくれる。


「いや、好きだよ。ありがとう」


 エンジュがカップを受け取り、まじまじと僕を見た。

 カップの縁に口を付けていた僕は、気恥ずかしくなって首を傾げる。


「どうかした?」

「いや、少し驚いた。今回付いていくと言ったのは、私の我が儘だったからな」

「なんだ、そういうこと。パーティなんだから当然じゃなかったっけ?」


 僕が少しおどけて言うと、彼女はむっとしてレモネードに口を付ける。喉を鳴らして半分ほど飲むと、彼女は勢いよく息を吐く。


「美味いな」

「でしょ? たまに飲むんだ」


 エンジュの隣に座り、僕もカップに口を付ける。

 するりと喉の奥を通って、冷たい清涼感が身体の中を突き抜ける。レモンの匂いが爽やかに一日の疲れを洗い流す。

 僕は、街角に座ってこれを飲むのがとても好きだった。


「ぷはっ! ご馳走様」

「もう飲んだの!?」


 ぼうっと往来を眺めていると、隣でエンジュがカップを置いていた。

 少しずつ時間を掛けて飲むタイプだった僕は、彼女の速さに驚く。


「そんなに量はないだろう?」

「でも、一気に沢山飲むと酸味がきつくない?」

「別に?」


 理解できない、とエンジュは首を傾げる。

 昼食を食べたときも思ったけれど、彼女は食べるのがとても早いらしい。


「このレモネード、氷が入ってるから長い時間掛けて飲めるのが気に入ってるんだけどな」

「リュークはゆっくり飲むのが好きなのか?」

「うん。こうやって町の風景を眺めながらね」


 少しずつ明るさを減らしていく町並みは、それに反比例してどんどんと騒がしくなる。

 仕事が終わり、一日のシメに一杯引っかけようという男たちが肩を組んで歩いて行く。

 遊び疲れた子供の手を引いて、荷物を抱えた母親が家へと帰る。

 僅かな時間を見つけて逢瀬を楽しむ若い二人が、そっと隠れるように消えていく。

 名前も付かないような、けれどとても特別な時間の流れだ。


「よし、僕たちも宿に行こうか」


 残りを飲み干して、残った氷も飲み込んで、勢いよく立ち上がる。

 色々とお店を回って沢山買い物もしたけれど、それは全部収納箱に入っている。盗難の心配は無いし、身軽に歩けるのはとても便利だ。


「リュークはどこに泊まってるんだ?」


 荷物の詰まった鞄を肩に掛けながらエンジュが尋ねる。


「そういえば言ってなかったね。僕が泊まってるのは――」


 通りを歩くこと、十分弱。

 魔導灯に青白い光が灯り始め、紫紺の空に星が小さく瞬き出す。

 僕らは人々の間を縫って歩を進め、ギルドにほど近い通りへと入った。


「『銀猫亭』か」

「うん。酒場と宿屋がくっついてる、良くある宿屋さんだよ」


 建物の前に立ち、エンジュが看板に刻まれた店名を読み上げる。

『銀猫亭』は僕がこの町にやって来て間もない頃、ろくに稼ぎも無くて路頭に迷っていたときからお世話になっている宿だ。三階建ての立派な店構えで、一階は酒場になっている。

 丁度今の時間は、お客さんで賑わっているはずだ。


「さ、入ろう」


 エンジュを促し、開け放たれた扉を潜る。

 眩しいくらいの魔導灯の光が僕らを出迎え、ガヤガヤと騒がしい人の声が耳に飛び込む。

 料理の香りが僕らを包み、エンジュは小さく口を開いて驚いていた。

 広い一階にはいくつものテーブルが置かれていて、沢山のお客さんが三々五々それを囲んで夕食を楽しんでいる。

 僕はエンジュの手を引いて、奥にあるカウンターに向かった。


「いらっしゃい! って、リュー君じゃない」


 僕らに気が付いた女性が振り向き声を上げる。

 エンジュさんと同じくらいの歳の、細身のお姉さん。目を引くのは、柔らかいブラウンの髪の上に生えた、三角形の耳。それと、白いエプロンの下から飛び出す、縦縞の入った尻尾。


「チェシャさん。ただいまです」

「おかえりー。どしたの? ご飯食べてく?」


 チェシャさんはこの『銀猫亭』の一人娘。見た目通り、猫系の獣人族と人間族のハーフだ。彼女のお父さんが人間で、お母さんが獣人族。

 僕はきょとんとするチェシャさんに首を振ると、後ろに立っていたエンジュを紹介する。


「実は昨日、パーティを組んだんです。彼女が相手のエンジュ。それで、部屋を二人部屋に変えて貰いたくて」

「にゃぁ、昨日妙に嬉しそうだったのはそういうことだったのね。むふふー、リュー君も隅に置けないわねぇ」


 エンジュの姿を見たチェシャさんは、口元を挙げて僕の胸をつつく。

 そんなんじゃないと否定しても、彼女は分かってると言ってぽんぽんと肩を叩いてきた。


「若い男女が二人、同じ部屋で夜を共にする。何も起きない筈もないでしょ!」

「そんなんじゃないんですって!」

「そうそう。もしリュークが襲ってきても私なら投げ飛ばせる」

「むぅ、面白くないなあ。二人とも」


 僕がぶんぶんと首を振り、エンジュもさっきと同じように毅然と否定すると、チェシャさんは唇を尖らせる。

 露骨にがっかりとした様子に、僕は思わず乾いた笑いを浮かべた。


「それで、部屋を変更したいんですけど」

「いいよー。丁度今は空いてるし、好きなとこ選んでちょーだい」


 そう言って宿の見取り図が出される。

 僕らは少し相談した後、二階の角部屋を選んだ。


「にゃぁ、それじゃあこれが鍵ね」


 代金を払うと、銀でできた猫の飾りが付いた鍵が渡される。


「ありがとうございます。それじゃ」

「むふふ、お楽しんでー」

「違いますから!」


 耳をピコピコと動かすチェシャさんに見送られ、僕らは階段を上る。

 二階の廊下に出ると、途端に階下の喧噪は遠ざかる。防音の魔法を発生させる小さな魔方陣が、階段の途中に刻まれているのだ。


「えーっと」


 絨毯の敷かれた長い廊下を歩きながら、ドアプレートを確認する。

 角部屋だというのは分かっているのだけれど、これはもう性格だ。


「ここだね」

「ふむ」


 ドアを開けて中に入る。

 静かな部屋だ。短い廊下の先に、ベッドが二つ置かれた部屋がある。角部屋を選んだお陰で、壁の二面に大きな窓が一つずつ付いている。


「良い部屋じゃないか」

「部屋代も相場より少し上なんだけどね。昔は建物の裏の馬小屋に住んでたけど、そこもしっかりしてて雨風は完全に防げて良かった」

「……リュークも苦労してるんだな」


 何気なく言った言葉で、エンジュが不憫そうに僕を見る。

 自分としてはもうそこまで苦労していないから気にしていないのだけれど……。


「それじゃ、どうする? 僕は買った物を整理したらお風呂に入ろうと思ってるけど」

「ここは風呂もあるのか!」


 風呂、という単語にエンジュは露骨に目を輝かせる。

 間近まで寄ってきて、彼女は僕の手を掴んだ。


「う、うん。それもこの宿の売りなんだよ」

「いいな。なぜ私はここを見つけられなかったんだ。前の宿では水浴びしかできなかったからな!」


 既に落ち着きを無くし、わくわくと心躍らせている。

 たしか、彼女の故郷の方ではお風呂の文化が盛んなんだったっけ?


「えーっと、お風呂は建物の裏手だよ。馬小屋の隣」

「行ってくる!」

「ちょ、着替えとタオル持って行かないと!」


 途端に飛び出そうとする彼女の手首を掴み、引き留める。

 エンジュは手早く荷物を纏めると、今度こそ風のように駆け出して行ってしまった。


「お風呂、すごいな……」


 僕も好きだけど、あれほどじゃない。

 呆然と彼女を見送って、僕はベッドの上に今日買った物を並べ始めた。

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