第8話「境界線の掟」
「ミモザの古狼?」
差し出された依頼書の表題を読み上げ、僕とエンジュは揃って頭上に疑問符を浮かべた。
ミモザといえば、昨日、今日と僕たちが行っていたサルドレット近郊の森の名前だ。森としては比較的小さなものだけれど、林と言うには広大な古い土地。木々が多く根付き、奥へ行けば鬱蒼と繁茂する枝葉によって真昼でも薄暗い。薬草をはじめ、多くの恵みをもたらす生活の礎でもある。
「そ、ミモザの古狼。知らない?」
リュカさんの問いかけに、僕はぶんぶんと首を横に振る。
エンジュも聞いたことはないようで、眉間に深いしわを寄せていた。
そんな僕たちの反応を見て、リュカさんは「しかたないか」と小さく呟いてから詳しい説明を始める。
「ミモザの森が、この町ができあがるずっと前からあったのは知ってる?」
「ええ。それくらいなら」
僕は頷きながら、町の中央広場に置かれている石碑について思い出していた。
この町、サルドレットは開拓団によって拓かれた町だ。元はただの草原だった土地に入植してきたかつての人々が、鍬と斧で以て土地を均し、槌と鑿で家を建て、長い月日を費やして形作られた。
町の中央に置かれた立派な石碑には、その歴史を称える詩が刻まれている。
その詩の中で、ミモザの森は豊富な恵みを人々にもたらし、開拓の大きな助けになったことが書かれていたはずだ。
「実はね、ミモザの森には人間たちがやってくる以前から住んでいた魔獣がいるのよ」
「それがミモザの古狼なのか?」
「ご名答!」
ピンと細長い指を立てて、リュカさんが頷く。
けれどその答えは、にわかには信じられないものだった。
僕は驚き、思わず口を開く。
「で、でも、この町ができたのはもう百年以上は昔の話ですよ」
「そう。でもこれはお伽噺じゃない。古狼は百年を経た今も健在で、そのことは町の上層部と何よりギルドがよく知ってるのよ」
リュカさんが眼鏡の奥の眼を鋭くする。
ピリピリとした空気が、カウンターを中心に広がる。
「かつてこの地にやってきた開拓団が最も欲しがっていたのはなんだと思う?」
「……物資ですかね」
「そう。そしてそれが潤沢に用意されているのが――」
「森。……ミモザの森だな」
リュカさんが満足げに頷く。
とはいえ、これは子供でも答えられる問いかけだ。
「当然、開拓団は森へと足を踏み入れた。けれど、そこにはすでに主と言うべき存在がいた。それが、ミモザの古狼ね」
広くはないとはいえ、森は森。魑魅魍魎が跳梁跋扈する小さな異界だ。
そこで主として君臨しているということは、それなりの実力が伴わなければならない。力ない者が支配できるほど、野生の世界は甘くないだろう。
「当然、古狼は前触れもなく現れた不届き者の前へ姿を現した。けれど、幸いな事に彼は残酷ではなかったの」
「というと?」
「開拓団との対話に応じたのよ」
「ま、魔獣が人と言葉を交わしたのか!?」
エンジュが目を見開いて驚く。僕も動揺が隠せない。
いかに魔力を有した存在と言えど、獣にすぎない存在が人間の言葉が解せるという話は聞いたことがなかった。それじゃあ、まるで古狼は――。
「けれど事実として開拓団の身は守られ、サルドレットは今日まで大きく発展し続けてる。今が何よりの証明なのよ」
「それなら、信じるしかないが……それで、その話はどうやってこれに繋がるんだ」
エンジュが顔をしかめながら、カウンターの上に広げられた依頼書を指で突く。
「この町の始まりの日に、人々は古狼と一つの約定を結んだの。境界線の掟と呼ばれる、古い約束よ。それによって、古狼は森の深部に住まいを移し、人々は浅い場所での営みが許された」
「だから、森には危険な魔獣がいなかった?」
僕の言葉に、リュカさんが頷く。
「ミモザの森が駆け出し傭兵でも一人で活動できるほど安全なのは、その約定に依るものが大きいの。ギルドはそのことを把握していて、だからこそよく実感してる」
森は異界だ。本来、人の踏み入るべき場所ではない。その前提を無視してしまえば、そこに待ちかまえるのは到底太刀打ちできないほどの力と獰猛さを持った獣たちだ。それはあの森でも例外ではないはず。
けれど、現実としてそれは例外となって、駆け出しの経験の浅い傭兵たちは森へと立ち入り、五体満足で森の恵みを受け取って戻ってくる。それこそ、僕のような弱者でも、薬草採集くらいなら一人でできる。
「その話が事実なら、古狼は森のどこにいるんだ?」
「深淵よ。彼自身が引いた境界線の内側。そこで、人間にとって危険な魔獣たちを従えて暮らしている……はずよ」
最後に少し言葉を濁し、リュカさんは目をそらす。
「けれど、最近になって力のある魔獣たちが浅い領域にも現れ始めた。同時期から、狼に似た影も時折報告されるようになってきたの」
「約定が、破られてる?」
リュカさんが首を振る。
思い出すのは、昨日の事件。
エンジュが討伐した二頭の魔熊は、たしかに従来の森では場違いなほどに凶暴な魔獣だった。
「まだ断言はできない。だから、この依頼がギルドから出されたのよ」
依頼の内容に目を落とす。
それを読んだ僕は思わず目を見開き、リュカさんを見る。
「百年を生きる魔獣を探しだし、対話を求めるというのか!?」
エンジュが激しく声をあげる。
彼女の反応は、なんらおかしいものではなかった。普通に考えれば、命がいくらあっても足りない。とても報酬と対価が見合っているとは思えない。
この古びた依頼書がずっと放置されていたのにも納得がいく。
そこには、ミモザの古狼の捜索、そして可能ならば掟の再確認を行うという、突飛な内容が記されていた。
「これは、境界線の掟とやらを破ることになるんじゃないのか? その場合、古狼は私たちのことを見逃してくれるのか?」
「……」
命の危険すらある依頼だ。
百年を生きる魔獣ならば、その内部に蓄積された力は膨大なものになる。
とても、僕ら人間が対等に立てる境地にはないだろう。
そのことを、リュカさんもよくわかっているはずだった。
だからこそ彼女は、エンジュの追及を受けても口をつぐんでいた。
「……あの、リュカさん」
高ぶったままのエンジュに代わり、僕が手を挙げる。
「なにかしら?」
「リュカさんは、なんで僕たちにこの依頼を紹介してくれたんですか?」
まさか、死んでほしいと思っていたわけではないだろう。
さすがにそれは傷つくからやめてほしいし、彼女はそんな性格ではないはずだ。
「当然、リューク君たちならこの依頼を達成できると思ってるからよ」
「どこにそんな保証がある?」
むっすりと仏頂面でエンジュが問う。
彼女から視線を外し、リュカさんはまっすぐに僕を見る。
「えっ、僕?」
驚く僕に、彼女がしっかりと頷く。
「リューク君。君は古狼が恐ろしいと思う?」
「それは、まあ」
恐ろしくないと言えば嘘になる。
百年も生き、森の頂点に君臨し続けた魔獣の存在を前にして震えないわけがない。
――でも。
「でも、大丈夫だとも思います」
「リューク!?」
しっかりと目を見据えて、僕は言い切る。
エンジュが驚いた様子で振り向く。
「だって、百年の間ずっと約束を守り続けてくれた人なんですから」
人っていうのはおかしいかな。
でも、その誠実さは身に沁みて分かっているはずだ。僕が一年間毎日森に入り続けることができたのは、その古狼のおかげもあるはずだ。
「僕は、依頼を受けたいと思います」
「リューク!」
「僕はリュカさんを信じてます」
「リューク君……」
エンジュが僕の肩をつかむ。
彼女の目を見て、口を開く。
「僕は、古狼に会いたい。だから、お願い。一緒に、来てくれない?」
「……仕方ないな」
いろいろと言いたいことはあるはずなのに、エンジュは少しの沈黙の後でしっかりと頷いてくれた。
彼女は小さく鼻を鳴らした後、リュカさんの方へ体を向ける。
「私はリュークのパーティだからな! リーダーであるリュークの決定に従うだけだ」
「え、僕がリーダーだったの!?」
「お前から私を誘ったんだろう? だったら、リュークがリーダーだよ」
初耳だ。僕はてっきりエンジュがリーダーだとばかり……。
「だからリューク、私はお前について行くさ」
ちらりと僕を見て、エンジュが口元を上げる。
その頼もしい横顔を見て、ふっと肩の力が抜けた。
「リュカさん。僕たちにこの依頼を受けさせてください」
依頼書を彼女の方に直して言う。
しばらく惚けた様子だったリュカさんは、はっと正気を取り戻すと安心したような笑みを浮かべた。
「ありがとう。無事を祈ってるわ」
そういって、彼女が依頼書に受注済みの判を捺す。
これで正式に依頼は僕たちが引き受けることになった。
「特例により、当依頼には期限が決められていないわ。――落ち着いて、身の安全を最優先に考えて頂戴ね」
「分かりました。精一杯、がんばります」
「……引き受けたからには全力でやるさ。リュークの身は私が守る」
「それは男としてちょっと情けないと思うんだけど……」
きっぱりと胸を張って言うエンジュに、思わず力が抜ける。
本来なら僕のほうが言うべき台詞なんだろうけど、悲しいかな事実として彼女の言葉のほうが正しい。
――でも、もし僕の予想が正しいのなら、僕はこの依頼を達成できるはずだ。ぎゅっと拳を握り締め、気持ちを入れる。
「――じゃあ」
「それじゃあリューク、いくぞ」
「へ?」
僕が開きかけた口は、エンジュによって遮られる。
首を傾げて彼女を見ると、むんずと右手を掴まれる。
「そうと決まれば、腹ごしらえと準備からだ。早速いくぞ」
「へ? うわぁあああっ!?」
「いってらっしゃーい」
そうして、微笑ましいものを見るような表情のリュカさんに手を振られ、僕は大股で歩くエンジュに引きずられてギルドを出た。
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