第3話「追跡の土妖精」
山と積まれた食料が、見る見るうちに溶けていく。
急拵えの簡易結界の中で腰を下ろしたエンジュは、僕が《収納箱》に入れていた食料を提供すると、大喜びで食事を始めた。
とてもさっきまで空腹で気を失った様には見えない、一周回って感動するほどの健啖ぶりである。
胡座を組む僕の足の間にすっぽりと収まったシルフィも、唖然とした様子で彼女を見ていた。
「こきゅこきゅ……ぷはっ! 生き返った!」
水筒に入れた水を飲み干して、シルフィはきゅっと目を閉じて言う。
燃費が悪い分、食べたものをエネルギーにして回復する速度も尋常ではないのだろう。すでにその全身から活力を漲らせている。深紅の長い髪も末端まで艶やかで、白い肌もしっとりと潤っている。
どういう原理なのかは分からないけれど、鬼人族というのはコンディションが身体の各所にはっきりと現れるらしい。
「改めて、さっきはありがとうございました」
「礼には及ばん。そもそも、あの熊は私が追っていた獲物だからな」
口元を手の甲で拭いながら、エンジュが言う。
僕がコートのポケットからハンカチを取り出すと、彼女は「いい」と言って自分のものを出した。
「エンジュさんも傭兵なんですか?」
「呼び捨てでいい。……も、ってことはお前も傭兵なのか?」
膨らんだ下腹部をさすりつつ、エンジュが片眉を上げる。
そんな彼女の様子に少し傷ついたけれど、確かに僕の貧弱な体つきだと、とても傭兵には見えないだろう。どう頑張っても、無謀にも森へやってきた無知で愚かな人間でしかない。
「……一応傭兵なんです。パーティも組めないんですけどね」
自分の言葉に傷つきながらも、自己紹介していないことに気付く。
《収納箱》から、傭兵の身分証を取り出してみせる。
「僕はリューク。精霊術師です」
「なるほど。通りで杖を持ってるはずだ。ということは足にいる子は」
「風精霊のシルフィです」
僕の言葉に併せて、シルフィがぱたぱたと片手を振る。「よろしく」と言っているらしい。
精霊は淡い光が形作る人のシルエットのような外見ではあるが、身振り手振りを見てみれば案外愛嬌のある子達だ。
「精霊術師か……」
僕の職業を反芻して、エンジュが何かを悟ったようだ。
おそらくは、というか十中八九、精霊術師に対する世間のイメージだろう。
「まあ、そういうことです」
先回りして頷くと、エンジュは驚いた様子で肩を揺らす。
「いや、済まない。そういうわけでは」
「大丈夫です。僕ももう分かっていますから」
重苦しい沈黙が流れる。
それを打破するように、エンジュが口を開いた。
「そういえば、さっき食料を出した穴。あれはギフトか?」
「え? ああ、はい。《収納箱》って言います」
「そうか……。それはすごく便利だと思うのだが、それでもお前と組む奴はいないのか」
「やっぱり傭兵だと戦闘系統のギフトが重んじられますから」
「そうは言っても、荷物を持たなくて済むのは大きな利点になると思うんだがな……」
腕を組む、眉を顰めるエンジュの言葉に、僕は虚を突かれた。
そんなことを言ってくれる人は、今まで居なかった。僕のギフトが補助系だと知るや否や、踵を返してしまう人のことばかり頭に浮かんでは消える。
「私は鬼人族だからな。いつもは大きな背負い鞄に食料を詰め込んでいるんだが……」
「え、でも」
あたりを見渡しても、それらしい鞄は見あたらない。
僕よりも背丈の高い彼女の鞄だから、近くにあればすぐに見つかりそうなものだが――
「あの熊を追いかけるときにどうにも速度が出なくてな、捨ててしまったんだ」
「そうでしたか……」
それがあれば、戦いながらも多少はエネルギーを補給できたかもしれない。
であれば、見逃さずここで倒すこともできた可能性も捨てきれない。
「だからな、お前のギフトは私からすれば、とても羨ましい」
「そ、そうですか」
橙色の瞳が、羨望の色を浮かべて僕を見つめる。
女性に見つめられた経験のない僕は、慌てて視線を逸らしてしまった。
「――よし」
そう言って、エンジュが立ち上がる。
側の木に立て掛けた、巨大な戦槌を片手で持ち上げ、背中に背負う。
「私はあの熊を追うよ」
「え、もう行くんですか?」
「ああ。体力も回復できた。また倒れる前に、倒さないとな」
そう言って、彼女は自信を浮かべた顔で微笑む。
まるで綱渡りのような、分の悪い賭け事のような戦い方だ。火のような勢いで消し飛んでいく体力が尽きる前に、あの熊を倒さなければならないなんて。
脳裏にあの巨影が過ぎる。あれと対峙するエンジュが思い浮かぶ。
その言葉は、半ば無意識に飛び出していた。
「僕も、ついて行って良いですか?」
エンジュは目を見開いて僕の方を見た。
「も、もしエンジュが倒れたときは僕が運べますから。そ、それに精霊術師だから、えっと、り、臨機応変に……」
何でもできるが、何にもできない。ついさっき言われた言葉が頭にこびりつく。
「す、すみません。あの、忘れて――」
「助かる。お前が来てくれれば、百人力だな」
炎髪の彼女のぷっくりとした唇から放たれた言葉は、僕の予想を裏切った。
信じられないと顔を見れば、彼女は笑みを深める。――そこに嘘はなかった。
「あ、よ――。よろしくお願いします!」
「ああ。こちらこそ」
今一度、僕たちは固く手を交わす。
足下でシルフィがふよふよと喜び体を震わせていた。
「それじゃあ早速出発しよう。幸い、足跡が辿れる」
結界を片付け、僕たちは森の中を歩き始める。
超重量の熊が柔らかい腐葉土の上を歩けば、どうやってもしっかりと足跡が残る。
僕らは三本の足跡を辿り、奥へと進んだ。
「あの熊、逃げても逃げても先回りしてくるんですよ」
「知ってるさ。私も追いかけているとき、何度も姿を眩まされた」
そのせいで体力が尽きるまで追いかけてしまったんだが、とエンジュがはにかむ。
優れた身体能力を持つ鬼人でさえ追いつけないとなれば、そこには何か絡繰りがあるのではないかと疑ってしまう。
「転移魔法、ですかね」
「どうだろう。転移魔法は莫大な魔力を消費する。いかに強力な魔獣とはいえ、ああも連発できるか?」
「ちょっと考えづらいですね」
魔獣と獣の、最も明確な違い。それは、魔法を扱うかどうかだ。
魔獣の体内には魔石という器官が存在し、彼らはそれの働きによって魔法を行使する。最も分かりやすい例でいえば、ドラゴンの飛行能力だろう。彼らの翼は、その巨体を浮かせるには小さすぎるけれど、魔法によって揚力を発生させることができる為、大空を機敏に駆けることができる。
他にも火炎放射だったり、表皮の硬質化だったり、実に様々で厄介な魔法を使う魔獣が存在するのだ。
とはいえ、そんな魔獣の扱う魔法にも限度はある。転移魔法は空間を歪める高等技能であり、人間でも相当に高位の魔法使いにしかできない。しかもエンジュの言葉通り使用には尋常ではない魔力が必要で、ああもぽんぽんと発動できるような代物ではない。
「となると、私たちの知らない新たな魔法か?」
「……捨てきれないですね」
魔法は不安定な技術だ。日夜研究が進められ、一秒ごとに新たな発見がなされる。
僕らが知らない魔法を使う魔獣が現れても、何もおかしいことはない。
「あっ」
「どうかしました?」
隣を歩いていたエンジュが不意に声を上げて立ち止まる。
彼女は前方を指さし、顔をしかめていた。
その細い指の先へと視線を向け、僕もまた顔をしかめる。
「足跡が……」
森の中は日が射し込みにくい。
そのせいか、一帯が泥濘になっていて、僕たちが追っていた足跡は他の様々な動物たちの足跡にかき消されてしまっていた。
「これでは追えないな」
眉を落としてエンジュがぼやく。
確かに、この中からあの熊の足跡を辿るのは至難の業だろう。
しかしである。
「僕に任せてください」
僕は一歩前に出ると、杖を構える。
怪訝な顔を向けるエンジュに構わず、僕はキーワードを口にした。
「顕現せよ、ノーム」
声に呼応して、術式が展開される。
現れたのは、土色の人影。大地の精霊、ノームだ。小さなお爺さんのような外見で、それに違わず動きはゆっくりとしている。
「ノーム、ここから熊の足跡を辿ってくれないか。左前足を負傷してる熊だ」
僕の頼みを聞いて、ノームはうむと頷く。
そうしてじっくりと時間をかけて泥濘を見渡したあと、のったりと歩き始めた。
「――すごいな。精霊術は便利だ」
「あはは。ノームは地面を見るのが得意なんです」
驚くエンジュに、僕は思わず照れてしまう。
こんなにも誉めて貰えたのは初めてかもしれない。
とはいえ、本当にすごいのは僕ではなくて、力を貸してくれているノームだ。
大地の精霊であるノームは、土や岩を司る。その為、大地に刻まれた痕跡を辿ることも得意なのだ。
僕が本当に駆け出しの傭兵だったころ。まだこの森の地理も頭に入っていなかった時には、薬草の在り処をノームに聞いて探していた。
「動きが遅いのが、難点と言えば難点なんですけどね」
そう言って泥濘の中を歩くノームを見下ろす。
若い少女のような姿をしたシルフィとは異なり、ノームはお爺さんのようなシルエットをしている。それが関係あるのかは知らないけれど、彼の動きはとてもゆっくりとしたものだ。
「今は痕跡を追えるだけでも有り難いさ」
しかしエンジュはそれを笑顔で受け入れてくれた。
彼女はノームの後ろをゆっくりと歩く。
そうしているうちに泥濘を抜け、また乾燥した地面が現れる。そこには、またくっきりと三本足の痕跡が続いていた。
ノームが僕の方を見上げ、ゆっくりと指をふる。
ここから先では自分の先導は不要だと言っているようだ。
「ありがとう、ノーム」
そう言って報酬の魔力を与えると、ノームは満足そうに一度頷いて杖の魔宝石へと戻っていった。
「足跡が新しい。ここを通ったのはついさっきみたいだな」
膝を突いて観察していたエンジュが言う。
どちらともなく目配せして、緊張の糸が張り詰める。
できるだけ音を立てないように、ゆっくりとした動きで僕らは進む。
「待て、前方に開けた場所がある」
少し前を歩いていたエンジュが、腕を伸ばして僕を止める。
よく目を凝らしてみると、確かに木々の隙間から空けた空間が見えた。とはいえ随分遠くで、僕にはギリギリ見えるかもしれないという具合だ。
鬼人族は相当目も良いらしい。
「……気付かれてるな」
「ほんとに!?」
苦虫を噛み潰したかのようなエンジュの言葉。
驚く僕に、彼女は頷く。
「こっちを見てる。完全に見つかってる」
仕方がない、と彼女は背負った戦槌を降ろす。
僕の背丈を優に越える、巨大な鉄塊。その表面には無数の傷が刻まれているが、同時に隅々までよく手入れされてある。
数多くの修羅場をエンジュと共に切り抜けてきたのだろう。
「私が先行する。リュークは後で追いついてくれればいい」
「え、ちょっ」
言うが早いか、彼女は地面を勢いよく蹴って走り出す。
呆気にとられた僕は反応が遅れ、数秒後に慌てて彼女の背中を追った。
しかし流石は鬼人族、僕の貧弱な足では見る見るうちに距離を離される。
「うぉぉぉおおおおっ!」
鉄槌を振りかざし、彼女は広場へ躍り出る。
その中央で泰然と待ち構えていた熊が、決戦の雄叫びを上げた。
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