第六十七話 失礼……しますわっ!

 一段と乗り心地が悪くなったトラックの荷室内。

 カーブの多い山道を走っているのか、時々遠心力で左右に体を引き付けられそうになる。


「名付けて切通し作戦です。急坂やカーブ、そして網目状に広がる鎌倉の路地を利用して敵から逃げて差し上げましょう」


 メアリーさんのテンションは高まるばかりだった。この人走り屋なのかな……?

 高級セダンの対抗馬としては余りにも劣っているが、なんとなく逃げ切れる気がしそう。というか、吹き飛ばされないように踏ん張ることに精一杯でまともに考える余裕が無いだけだったりするのだが。


 脈打つ鼓動が速くなった。こんな経験はもちろん初めてで、間違ってトラックがひっくり返ったりしないかとか、追っ手が増えてきて逃げきれなくなるとか、様々な不安が脳裏をよぎる。


「痛っ!」


 向かいの壁にしがみつく志賀郷が小さな悲鳴を上げた。大きく揺れた拍子に体をぶつけたみたいだ。


「大丈夫か!?」

「ええ。おでこが少し当たっただけですので……。狭山くんもお気を付けください」


 こんな危険な状況でも俺の心配をしてくれる志賀郷の気持ちはありがたいけれど、志賀郷さえ無事なら俺はどんな怪我をしても構わない。


 どうにかして志賀郷の助けにならないかと手を伸ばそうとするも体は思うように動かなかった。正面から重力に体当たりされて息苦しい。


「うぐっ……!」


 ドリフトでもしてるのか急激な圧力が襲いかかる。俺は背後の壁に全身を押し付けられて、そのまま潰されそうになった。


 一方、反対側にいる志賀郷は壁に押し潰される訳 では無かった。遠心力の関係で力はこちらに引き寄せられるように働く。つまり――


「ひゃぁぁ!」


 その場に留まろうとする志賀郷だが、彼女の弱い力では耐えられない。しがみついていた手が離れ、俺の正面へ一気に転がり込んできた。


 ぼふっ。


 引き寄せられる重力と共に志賀郷がやってきて、そのまま押し倒される勢いで接触した。感覚的には空から降ってきた美少女とぶつかった、という表現が近い気がする。


 完全に不可抗力なのだが、俺は志賀郷に抱き締められている形となった。ただの事故だと分かっているのに、彼女の体温や甘い匂い、柔らかな感触が直に伝わってきて目眩を起こしそうになる。心臓の鼓動も輪をかけて激しくなった。


「ひぃぃぃ」


 志賀郷は顔を俺の胸板に押し付けたまま、小さな呻き声を上げていた。その表情は見えないし互いに体も動かせずにいるのだが、緊張と不安に苛まれているのは間違い無いだろう。俺は志賀郷を守るべきだ。よこしまな感情を抱いている暇は無い。俺は遠心力に抗いながら両腕を伸ばして震える彼女の背中をなんとか包み込んだ。


「狭山くん……!?」

「嫌かもしれないけど我慢してくれ。怪我させたくないから」

「嫌じゃないです……!」


 返事はすぐに返ってきた。拒絶はされないだろうと予想していたが、言葉で「嫌じゃない」と言われると安心するし嬉しさも込み上げてくる。



『咲月ちゃんはさーくんが大好きだよ絶対』


 ふと、四谷が話していた言葉を思い出した。志賀郷は今、何を思っているのだろうか。俺と同じようにドキドキしたり嬉しいと思ってくれているのだろうか……。


 ――って考えてる場合じゃないよな。



「あのレクサスが二度とバックモニターに映ることはねぇぜ! ……ってそれ盛大なフラグやないかーい!」


 俺が何も口を出さなくなってからも、スピーカーからはメアリーさんの陽気な声が聞こえてきた。乗り心地は最悪だが作戦は順調のようである。


 暴走運転はしばらく続き、トラックの荷室は左から右へ、上から下へと洗濯機のようにぐるぐるとかき混ぜられた。

 それでも俺は志賀郷の身体を離さないよう必死に支えていた。



 ◆



 追っ手を振り切って落ち着いた頃には、既に俺の体力はほとんど削られていた。お互いに無傷だったのが不幸中の幸いである。


 メアリーさんから「もう大丈夫です」との報告を受けて車内の揺れも収まると、すぐさま俺は志賀郷を包む腕を解いた。


 本音を言えばもっと長い時間志賀郷に触れていたかった。だが、そもそも偶発的に起きた事故なので故意に抱き締めたらただの変質者になってしまう。

 それに、俺の心臓がこれ以上持ちそうにないので、精神衛生上距離を置くのが最適解だろう。


 しかしながら、志賀郷は依然として俺の目の前にちょこんと正座を崩した状態で座っていた。突き出ている互いの膝が擦れ合っている位の近さだ。


 決して拒絶してる訳では無い。寧ろ離れたくないと思っている――と解釈するのは都合が良すぎるだろうか。ただ、先程から志賀郷はずっとこちらを見つめ続けているのだ。

 疲れ切って放心しているようにも見受けられるが、何か物欲しそうな目でじっと見つめている。まさか――もっと抱き締めて欲しかったなんて思ってないよな? うん、流石に都合が良すぎるか。


「手……」

「えっ!?」


 志賀郷はその一音だけを口から零れたかのように呟いた。驚く俺に反応は示さず、視線は顔から手のひらに移動している。変わらず、強請ねだるような目で。


 え、手を繋ぎたいの……? いやいや違うかもしれないだろ。例えば汚れている事に気付いてそれを指摘してくれたのかもしれないし……。


 しかし、自分の手を見ても何かを言われるような異変は無かった。じゃあ本当に志賀郷は俺と――ってまだ決めつけるのは早い。


「……あっ! ごめんなさい、何でもないです……」


 ところが、志賀郷の反応は俺の予想を裏付ける材料となった。我に返ったのか、急に目を泳がせて顔をうつむけてしまったのだ。


 縮こまった彼女の身体はどことなく寂しそう。俺はこのまま抱き締めたい衝動に駆られたが何とか踏みとどまった。


 だけど……。手なら繋げられるかもしれない。志賀郷が望むのであれば、俺が断る理由は一つも無いのだから。


「ほい……。空いてるから、良かったら……」


 それでも志賀郷の本音は分からない。チキンな俺は逃げ道も確保する情けない言葉で片手を前に向けて差し出した。


「……っ!」


 ゆっくりと顔を上げた志賀郷は驚いた表情をしていた。視線は再びこちらに向けられたが……その目は少し潤んでいて、懐中電灯の淡い光に反射してきらきらと光っている。


「失礼、しますわ……」


 志賀郷の声は小さかったが、それでも確実に俺の耳に届いた。そして重ねられる手のひら。とても暖かい。


 さて、どうしたものか……。俺の脳内は既にパンク状態になっていた。自分から手を差し伸べた癖に、いざ触れられると緊張やら嬉しさやら驚きで思考が埋め尽くされてしまう。手汗かいてないだろうか、なんて心配も込み上げてきた。


 我ながら情けないと思うが、今の状況を考えれば無理もない。だって今は、のだから。


 手を繋いだことは過去にもあった。夏休みに俺の実家に帰省した時だ。恋人のフリをする為に志賀郷が提案してきたけれど、あの時は仕方無く繋いだに過ぎない。もちろん緊張したが、俺が抱いたのは「可愛い女子と手を繋いだよどうしよう」というありふれた高校生男子の心情だけだった。


 しかし今回は違う。好きな人の手に触れている。更にその好きな人も俺が好きかもしれないのだ。動揺しない訳が無い。


「…………」


 俺は志賀郷を直視できず、反対側に目を背けていた。きっと志賀郷も同じようなことをしているのだろう。


 薄暗い荷室に響くのは走るトラックのエンジン音のみ。会話もしなければ目を合わせることも無い。それでも繋いだ手は離れない。離したくない。



「好きです」


 しばらくするとそんな言葉が聞こえた。エンジン音にかき消される位の小さな声だったが確かに聞こえた。

 だけど、俺は聞こえないフリをした。きっと志賀郷の独り言だし、なにより今の幸せな時間をギリギリまで味わっていたかったのだ。余計な反応で心地良い空気を壊したくない。



 メアリーさんから「到着しました」と案内されるまで俺達は手を握り続けていた。それまでは良かったものの、トラックを降りてから途端に気まずくなるのは言うまでも無い。

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