第六十話 ありがとう……ございました

 咄嗟に思ったのは「馬鹿じゃねぇの」という怒りだった。彼氏の目の前で彼女の手にキスする下衆男がいてたまるか。


 それからの行動は速かった。

 俺は条件反射のように腕を伸ばして志賀郷の手首を掴む。そして変態鈴木から遠ざけ、尚且つこちらに引き寄せるように力を込める。すると体勢を崩した志賀郷はよろけながら俺の胸板にダイブしてしまった。感情的になっていたせいか、かなり強引だったかもしれない。お陰で俺はまるで志賀郷を抱き締めているかのような行為をしてしまった。


 しかし、今はそんな些細な事を気にする場合じゃない。


「なにやってんだよ、お前」

「なに……ってそりゃ挨拶に決まってるじゃないか。西欧ではこれくらい常識なのだよ」

「ここは日本だし志賀郷も日本人だろ。勝手にセクハラを正当化するな」

「……勝手に人の物を奪った奴に言われたくないね」


 ニヤニヤと余裕を見せる鈴木に敵対心剥き出しの視線を送りつける。

 今の俺は自分でも驚く程に怒りに満ちていた。湧き上がる感情は溶岩のように禍々しい。

 何故こんなにも苛立つのだろう。志賀郷は友人……? もしくは隣人ではあるが、決して恋人ではない。だから仮に志賀郷が鈴木とイチャイチャしてようが俺には関係ないはず。


 それとも、彼の下衆な行動に腹を立てているのか。これは間違っていないが、別の原因がある事も薄々と感じていた。


 にわかに信じがたいけれど……。もしかしたら俺は志賀郷を手放したくない。鈴木のような男と付き合ってほしくないと思っているのかもしれない。言わば独占欲ってヤツだ。自分らしくない、馬鹿げた考えだと思うが、思考回路をすっ飛ばして続く後の言葉がそれに現実味を帯びさせる。


「志賀郷は渡さない」


 いや何言ってるんだよ俺は。いくら恋人のフリをしているとはいえ流石に調子に乗り過ぎではないか? これには志賀郷も「彼氏面しないでくださるかしら」とドン引きする案件だろう。少し頭を冷やさないと。


「ほほう、それは興味深い。君はどんな力を使って僕を妨害してくれるのかな?」


 前髪をかき上げて、まるでボスキャラのようなセリフを放つ鈴木は相も変わらず余裕そうだ。きっと志賀郷を手元に引き寄せる秘策があるのだろう。俺にできるのは彼女の物理的な壁になることくらいだけど、守ると決めたら守り抜く。どんなに絶望的な戦力差だとしても、一度乗った船を自ら降りるのはプライドが許さない。なにより、志賀郷の悲しむ顔をこの目で見たくない。


「わざわざ敵に戦い方を教える奴がいるかよ」

「はは、確かにその通りだ。親切に手の内を見せるのは白旗を上げた愚かな者か、絶対に勝てる自信のある強者のどちらかだろうからね」


 鈴木は声を出して高らかに笑い、俺に背を向けて立ち去ろうとする。


「帰るのか」

「ああ。用はもう済んだし、ひとまずこれで失礼するよ。長居は時間の無駄だ」


 言いながら彼はエレベーターの前まで向かい、扉が開くのを待つ。張り詰めた空気の中しばらく沈黙。


「今日はありがとうミス咲月。また会おう」

「…………」

「狭山君もまた会える時を楽しみにしてるよ」

「社交辞令はいいからさっさと帰ってくれ」


 百二十パーセント嘘だと分かる彼の笑顔を睨んだところで小洒落た電子音が鳴った。同時に扉が開く。


「もし君が望むのなら、戦い方を教えてあげても良いよ。僕は強いからね」


 エレベーターに乗り込んだ鈴木が口角を吊り上げたまま捨て台詞を残していった。そして言い返す間もなく扉が閉まる。


「あの野郎……」


 言うだけ言って逃げやがったな。次会ったら一発お見舞いしてやりたいものだ。(俺にそんな度胸は備わってないが)


 さて……。ようやく一段落ついた訳だが、何か重大な事実を放置しているような気がした。そういえば志賀郷は…………あ。


 某無敵のスターの効果が切れたように我に返る。そして猛烈な恥じらいが湧き水の如く溢れ出した。



 俺、さっきからずっと志賀郷を抱き締めてるじゃねぇか!?



 馬鹿なのは俺だ。暴走した感情に身を任せて、守り切ると決めた志賀郷に赤っ恥をかかせてしまっては本末転倒ではないか。自分でも疑う程に俺は俺らしくない事をしているな……。


 視線を下げると志賀郷の美しい金髪が広がっていた。魅惑的な甘い香りが鼻腔を刺激し、密着することで感じる体温の暖かさ、そしてドレス姿の美少女に触れているという非日常過ぎる状況が正常な思考をプツプツと切れさせていく――なんて呑気に感想を述べる暇など無くて。


「わ、わあああああ悪かった!!」


 情けない声を上げながらすぐさま一歩退く。穴があったら入りたい……。だけど志賀郷の方がもっと恥ずかしいと思っているだろう。現に彼女は長い前髪で顔を覆ったままその場に立ち尽くしている。


「怒って……るか?」


 ぶんぶん、と首を横に振る志賀郷。とりあえず最悪な事態は免れたようだ……。


「ナタリーさんが下で待ってるらしいから、先に行ってていいぞ。俺は後で向かうから」


 とてもじゃないが今すぐ同じエレベーターに乗れる空気ではない。志賀郷もうん、と頷いてくれたので安心した。


 それから志賀郷は鈴木と同様に扉が開くのを待って乗り込んでいく。その間、会話は無かったが去り際に――


「ありがとう……ございました」

「ああ……」


 苦し紛れに出たような、非常にか細く不安定な声で志賀郷が俺に感謝の意を伝えてくれた。普通なら「調子に乗るな変態っ!」くらい言われてもおかしくないはずだが、志賀郷は本当に良い奴だ。彼女の優しさに甘んじずに俺も努力しなくては。



 志賀郷の姿が見えなくなると、途端に脱力感が襲いかかってきた。緊張の糸が切れて思わず溜め息が漏れる。


 疲れた……。思えば、着慣れないタキシードを身に纏って、貧乏人には一生縁が無いはずの高級タワーホテル最上階のレストランで美少女お嬢様の彼氏役をしつつ、見合い相手である変態お坊ちゃまの牽制までしていたのだ。疲れない訳が無い。


 志賀郷には少なからず迷惑を掛けてしまったが、十分健闘した方ではないだろうか。家に帰ったらすぐに着替えて銭湯で一風呂浴びてコーヒー牛乳を飲もう。庶民の日常が恋しく感じる。



 若干気を取り戻した所で、俺はもう少し時間を潰そうとトイレに立ち寄ってからエレベーターに乗り込む。今だけは家賃三万円のボロアパートに帰るのが待ち遠しいと思った。




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※次話は11月13日(土)投稿予定です。

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