第9話 夏の思い出 かえで編

 そして、私たちの夏は始まった。音楽部の活動は土曜と日曜の午前中だ。


「はーい、今日の練習はここまでね」


 奏汰はそういって軽く手を叩き終了の合図を出す。私たちは返事をし、楽器のメンテナンスと片付けをする。

 そして、時計の針が十二時をさす頃には部室の鍵を職員室に返し、自販機で飲み物を買ってテラスで雑談をすることが日課になっていた。勉強などの愚痴をこぼすと皆が励ましてくれて頑張らなきゃという気持ちが湧いてきた。



 一日というものはあっという間に過ぎてしまうもので、気づけば八月の半ばに突入していた。窓を開ければ、眩しいくらいの日差しと青空が広がっているのがわかる。ふと、手帳を開く。明日は確か……。指で日を追っていくと、八月十六日のところで動きが止まる。そうだ、明日は朱音とプールに行く日だ。微かな高揚を胸に私はその日眠りについた。



 ***



 そして次の日。目覚まし時計のアラームで起きた私は眠たい目を擦りながら身支度を整えた。行ってきますという声と共に家を出て、自転車で街中を駆け抜ける。最寄りの駅までは案外早く着いた。


「早く来すぎちゃった」


 腕時計を見ながらそう呟く。軽く汗を拭いながら、日陰に入る。今日も中々暑いものだ。きっと今日は絶好のプール日和だろうな……、そんなことを思いながら朱音の到着を待っていた。


「かえでー!おはよう」


 それからおよそ十分後、約束の時間になると朱音が手を振りながら現れた。こんなに暑い中でも彼女は笑顔を忘れず今日も元気だ。その後私達は電車に揺られながら目的地へと向かった。


「わぁ……」


 私は目の前に広がる光景に思わず声を漏らした。プールが三つ程あり、ウォータースライダーなども付いている。人は思っていたよりも少なめで快適に泳げそうだ。

 早速、朱音に手を引かれこのプールの目玉でもある巨大スライダーに向かう。階段を登って上から景色を見下ろすと意外に高さがあって怖くなってしまう。朱音はクスクスと笑っていて余裕そうだ。

 スタート地点に座ると覚悟を決め、グイッと体を押し出した。

 その後のことはよく覚えていない。朱音曰く魂がどっかに暫く行っていたらしい。


 そしてお昼過ぎまでプールを堪能した私達は昼食休憩がてら備え付けのテラスに向かった。テラスはかなり混んでいて、どの席も満席に近かった。


「私、席取っとくから注文お願いしていい?」


 そう朱音は言うと焼きそばよろしくー!なんて言って席を探しに行った。私は列に並ぶとメニューを見ながら順番を待った。注文を済ませて料理を受け取ると、朱音の席を探した。端の方の席とったよーなんて、メッセージが入ってたからここから、遠いのかな。通行人に気をつけながら歩く。


「――ってさ何か理由があるの?」


 ふと聞き覚えのある声が聞こえた。私は辺りを咄嗟に見渡す。すると視界の端に奏汰と凛久が向かい合って座っているのが見えた。驚きを隠せなかった私はサッと移動をして、良くないとは思いながらも二人の死角に立ち、こっそりと聞き耳を立てた。


「いや、奏汰が歌を歌ってる理由って何かあるのかなって思ってさ」


「うん、あるよ。まだ誰にも話したことはないんだけどさ……。実は俺、妹がいてさ。その妹が歌を歌うことが大好きで、毎日何かしらの歌を歌ってたんだ。それで不思議なんだけどその歌を聞いていると何故か励まされるって言うか、元気になるって言うか、そんな感じだったんだ。__でも、五歳の時交通事故に巻き込まれて命を落としちゃってね。妹がお気に入りだった曲があの歌なんだ。だから、あの歌を俺が歌い継げば天国にいる妹も、この歌を聞いた皆も元気になるかなって思って歌ってるんだ」


 私はゴクリと唾を飲む。妹が亡くなっていた……?そんなこと知らなかった。

 太陽が痛いくらい私に刺さる。さっきまでの喧騒は一瞬で遠くなり、静寂が私を包み込む。

 奏汰の妹とは、小さい頃よく一緒に遊んでいた。明るくいつも笑顔を絶やさない素敵な子だった。そして、あの歌とは、私が奏汰と再会した時に、彼が歌っていた歌だ。夜空を見つめて何処か哀しく歌っていた彼の姿が脳裏に映し出される。彼はあの時、空の上にいる彼女に向けて、何を思って、何を考えながら歌っていたのだろうか――。

 考えれば考える程グルグルとした渦に飲み込まれてしまうようだった。私はフラフラとした足取りで、その場をあとにした。



「かえで、遅かったね――ってどうしたの!?」


 朱音は私の目元を指さして驚いた顔でそう言った。


「え……?」


 目元に手をやるといつの間にか涙が頬を伝っていた。ぽろぽろと溢れ出した涙は止まることを知らず、頬を伝って地面に吸い込まれた。そんな私の背中を優しく朱音はさすってくれた。


 昼食を終えた私達はプールを後にし、電車に揺られながら帰ってきた。どちらから話すこともなかったけれど朱音が隣にいるだけで不安が紛れる気がした。駅に到着すると別れを告げ、駐輪場に向かった。

 気持ちの整理がつかなかった私は自転車に乗ると彼と出会ったあの公園へと向かい、夕空を見上げた。今日も夕日は辺りの山を橙色に美しく染め上げている。私はそっと手をかざしてみる。隙間から差し込んだ光は紅色や金色にキラキラと輝いている。綺麗だな。ただただそう思った。私は、ふとあの歌の歌詞を思い出す。そしてそっと歌う。


「世界を彩ろう、キミと――」


『ボクで――』


 私はハッと振り返る。しかし、そこには誰もいない。辺りは静寂に包まれておりサワサワと木々が揺れる音がするだけだ。耳をすましてもその他に何も聞こえなかった。空耳だったのかもしれない。そう思い前に向き直る。


「かえで」


 彼の優しい声が辺りに響いた。全ての時間が、音が、止まったような気がした。私はゆっくりと振り返る。そこには奏汰がいた。

 私は今、彼に何て声をかけるべきなのだろうか……。ごめんね、大丈夫、それとも――?胸の葛藤は収まらなかった。ダメだよ、私。彼は私よりずっと、ずっと辛いことを一人で背負っていたのに。それを知った今私にできることは……。


「ごめんね、何も知らなくて――」


 そっと呟いた。枯れたはずの涙はまた溢れ出てきて、夕日に当たって金色に輝いては地面にぽろぽろと小さな水溜まりを作る。彼はそっと近寄ると優しく私の髪を撫でて、それからこう話し出した。


「あの日、かえでが俺の歌を褒めてくれた。誰かに歌を褒められたのってあれが初めてで嬉しかった。歌で誰かを感動させられたんだって凄く実感したんだ。それで、音楽部を作ろうって決心した。だから俺はかえでに感謝してる。謝ることなんてこれっぽっちもないんだよ」


 そう言い終えた彼の顔を夕日が映し出す。私はそっと彼に抱きつく。ふわり、と彼の前髪が舞う。


「じゃあ、一緒に……、ふたりで頑張ろうよ。私達の為にも、彼女のためにも」


 気づけば彼も私の背中に手を回して優しく抱きしめてくれた。ぽつり、と私の肩に何かが落ちた。私は、彼がそうしてくれた様に彼の髪を優しく撫でた。


「もう少し、このままが良い――」


 彼はそう呟いた。勿論、と私は言う。温かい。きっとこの場所は彼にとっても私にとっても世界で一番温かい場所だ……。

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