第69話
小森 翔太
ラブホテルに足を踏み入れてしまった理由については理解してもらえたと思う。
暖を取るためだったとはいえ軽率な行動だよね。言い訳はしない。悪いのは幼稚化した夏川さんの駄々を断りきれなかった僕の意思の弱さだ。父親になったとき娘に厳しくできる自信がないよ。
さて、そんなわけで全く落ち着かない僕は気が付けば部屋の大半を占めるダブルベッドに腰かけ貧乏ゆすりをしていた。
だって仕方ないじゃん! 五感で捉えた情報全てが僕の平常心を削り取っていくんだから!
まず何と言ってもシャワーだよね。絶えず耳に入るジャーという音がなぜか蠱惑的だ。
僕を惑わせる情報はそれだけじゃない。浴室から漏れてくる石鹸の甘い匂いもだ。これが鼻に幸せ過ぎる!
さらに部屋を見渡せば薄暗い照明にバカでかいダブルベッド。枕元に置かれたティッシュ。
そして何より――、
「――っ」
何気なしに浴室へと視線が吸いつけられてしまう僕。
そこには磨りガラス越しにボディラインがシルエットとして写り込んでいる。
まさに
磨りガラスから急いで目を引き剥がすものの、僕の心臓はバクバクと拍動が激しくなる。
目と鼻の先に高嶺の花である夏川さんが裸でシャワーを浴びているという現実に鼻息が荒くなる。
おっ、……落ち着け僕! 静まれ心臓!
夏川さんには大橋健吾くんという恋人がいるんだ……! ここで変な気を起こすわけには……!
「……はっくしゅん」
うう……寒い。
身体が冷えた僕は鼻をかむためティッシュへと手を伸ばす。
するとそこにとんでもないものが目に飛び込んでくる。
落ち着かない気分を紛らせるためにそれを手に取った瞬間――。
「待たせたわね小森くん。今度はあなたがシャワーを……」
なんとタイミング悪く夏川さんが浴室から出て来てしまう。
それも僕が
「あっ、いやこれは……!」
とっさに避妊具を後ろに隠し弁明しようとするものの、今度は視界に飛び込んできた夏川さんの姿に絶句してしまう。
そこにいたのは水も滴るいい女。バスタオル一枚に身を包んだ美少女がいた。
まだ乾ききっていない髪はさっきまでシャワーを浴びていたことを証明している。
「……とりあえず座ったらどうかしら?」
僕が絶賛テンパっているのにも拘らず、夏川さんはどこか落ち着いた様子。
シャワーで酔いが覚めたのか、いつものクールな性格に戻っていた。
……なんだ。焦っているのは僕だけか。
あまりに非現実だったから取り乱していたけれど、夏川さんが冷静なら大丈夫かな。
夏川さんはダブルベッドに腰掛け、僕に座るようベッドを叩く。
僭越ながら彼女の言う通りにしたわけだけれど。
……うっ。やばい。めちゃくちゃいい匂いがするんだけど!
全身から漂う石鹸の残り香にやっぱり困惑してしまう。
チラリと視線を夏川さんに向ければ、艶を帯びた黒髪を挟むように水分を拭き取っていた。
その動作は非モテの僕にとって刺激的で鼻血を吹き出してしまいそうだ。
「……今日は楽しかったわ。改めてお礼を言わせてもらうわ小森くん。ありがとう」
夏川さんはそう言って僕の肩に躰を預け――温かい体温が柔らかい感触と共に流れ込んでくる。
ええっ、ちょっ、ええっ⁉︎
あれ……もしかしてまだ酔いが覚めてなかった?
なんかもう場所といい、環境といい、雰囲気といい……
えっ、何これ⁉︎ まさかのハニートラップ⁉︎ もしかして試されているの僕⁉︎
「あの夏川さん……?」
「お礼と言ってはなんだけれど……その……いいわよ。小森くん――
⁉︎ あっ、ダメだ! やっぱり夏川さんの酔いはまだ覚めてなかった!
大橋くんというものがありながらこんな台詞が出るってことはまだ正常な判断ができていないってことだよね⁉︎
おっ、落ち着け! 今この場で一番しっかりしないといけないのは僕だ!
とにかくこの場から一秒でも早く退室すべきだと本能が告げてくるなか、
「……実は私、彼とは上手く行っていないの」
夏川さんは豊満な胸を僕の腕で歪ませながら呟いてくる。
あかん。これあかんやつや。
思わず関西人になってしまうほどには混乱してしまう僕であった。
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