第60話

 一方、夏川陣営。

 大橋健吾は喫茶店でほくそ笑んでいた。


(くくっ。さすがの小森も姉さんがに待っているとは思わねえだろう。これまで俺はあいつのことを草食系だとばかり思っていたが、正体は姉さんや高嶺、そして天使まで虜にする肉食系男子。だとすると、この異様に早い到着にカンが働くはずだ。夏川雫姉さんには恋人がいるとはいえ、小森との外出は満更まんざらでもないと。そうでなきゃ早着の説明がつかねえからな。なにせ俺へのプレゼント選びが楽しみだってんならわざわざ待ち合わせ場所で待っておく必要はない。周りの店なんかをぶらぶら寄っているはずだ。だからこそ小森はこう思うに違いない。『もしかしたら夏川も落とせるんじゃないか』と。言っておくが今日の俺は手を抜くつもりはねえぞ。言わなくても分かるだろ、みたいな妥協も無しだ。ってなわけで――)


『「――ちょうど今で三十分だ。小森はまだ来てねえか姉さん」』

 ワイヤレスイヤホンを装着した夏川雫の耳に弟の声が入ると、

「来るわけがないでしょう。まだ一時間前よ? いくらなんでも早過ぎるわ」


 不機嫌面で応答する夏川。

 彼女が気を悪くするのも無理はなかった。

 なにせ弟の命令は早着だけではないのだから。


 なんと彼女は小森翔太と出かける


 姉の声音に棘を感じ取った彼は宥めるように言う。

『「絶対成功させてやるからそんなに怒るなっての。それにまだ来てないならちょうどいい。合流後の第一声はちゃんと覚えてるな?」』


「ええ。翔太くんの「ごめん。待った?」に「楽しみだったから一時間半も前に来てしまったわ」でしょう? 翔太くんを待つこと自体はなんら苦ではないけれど、正直に『待った』と言っていいんでしょうね? 普通は「私もいま来たところ」じゃないかしら。一時間半前に着いているだなんて重たい女に思われてしまいそうだわ」


『「いや大丈夫だ。それに関しちゃ考えがあるって言っただろ。今回は小森との外出を楽しみにしていたことをアピールする必要がある。意図さえ伝われば後は驚くほど上手くいくはずだ」』


 イケると思い込みさえすれば積極的になるはずだからな、と心の中で付け加える大橋健吾。


「本当にそんなに上手くいくかしら――って、嘘⁉︎ どうしよう健吾!」

『「どうした⁉︎」』

「まだ一時間前なのに翔太くんが到着したわ! いまちょうどエスカレーターを上がって来た!」


(早えな、おい! 俺の読みじゃ早くても三十分先だったが……まあいい。どちらにせよ姉さんを先に待たせておくことは成功した。焦る必要は何もねえ。よし! それじゃ作戦開始だ!)


『「準備はいいか姉さん。ちゃんと指示したとおりに言えばそれでいいからな。頼むぞ」』

 小森翔太との距離が近い夏川雫は弟の指示に小さく頷く。


 やがて挨拶を交わす距離にまで近付くと、

「ごめん。もしかして待たせちゃったかな」

 大橋健吾の予測した通りに話しかけられる夏川雫。


 このとき姉弟きょうだいの心境は「来たああああぁぁぁぁっー!」である。

 夏川雫はすかさず台本の台詞を口にした。

「楽しみだったから一時間半も前に来てしまったわ」


(よっしゃあ! よく言ったぞ姉さん! 声しか聞き取れねえから小森の様子は確認できないが、きっと手ごたえを感じたはずだ!)


 では、その小森翔太はどうなっているのか。

 正解は――。


(ダメええええええええええええええええええっ‼︎ それ泉さんに聞かせちゃダメなやつ! 大橋健吾くんのプレゼント選びが楽しみで一時間前に待ってたって……もうガチじゃん! ベタ惚れじゃん! 攻略作戦開始一秒で通信を遮断したいんですけどおおおおおおおおおおっ⁉︎)


 夏川雫に背を向け悶え苦しんでいた。

 もちろんピンマイクが拾った音声は泉天使の耳にも入っており、


(ぎゃああああああああああああああああああっ‼︎ 夏川さんの健吾さんに対する想いが重い! 重た過ぎるよ! 待ち合わせ場所に一時間前から待っているってガチじゃないですか! ベタ惚れじゃないですか! 外見は冷徹美人のくせに、中身はバリバリの恋する乙女って……卑怯過ぎますよ! こんなの健吾さんが惚れ込むに決まっているじゃないですか!)


「あの……どうします泉さん。もう通信を中断しましょうか。なんかものすごく心配なんですけど――泉さんの精神が」


 小声で話しかける小森翔太。


『「いえ……大丈夫です。今のはせいぜい魂を一つ持っていかれたぐらいですから。このまま続けましょう。たとえ夏川さんが健吾さんにベタ惚れだとしても翔太さんの良さが後になって分かるようになるかもしれません。今日はその布石ということにしましょう」』


(いや、僕は別に自分のことをいい男なんて思っていないから夏川さんに対しても等身大の評価で十分なんだけど。それより泉さんの意識が保てるかどうかの方が心配で――)


「どうかしましたか小森くん」

「――あっ、いや別になんでもないです。なんでも!」

 夏川雫に話しかけられ、慌てた彼は変なテンションで返事をしてしまう。


 大橋健吾の失敗は実に単純明解である。

 小森翔太は誰とも恋愛関係にない、ただの草食系男子にも拘らず三股できる男だと思い込んでしまっている点だ。

 一体何がどうなればそのような勘違いができるのか。実に滑稽である。


『「仕方ありません。次の台詞に移りましょう。それでは打ち合わせどおり夏川さんの私服を褒めてあげてください」』

 泉天使の計画は小森翔太を待ち合わせ時間よりも早く向かわせ、女の子を待たせない紳士的対応をしつつ、私服を褒めさせようというもの。


 奇を狙わずシンプルに攻めようというわけだ。

 しかしこのとき小森翔太は泉天使の指示に戸惑いを隠せなかった。

 夏川雫(の私服)を褒めるのが恥ずかしい、などというピュアな思いからではない。


 小森翔太が思い描いていた夏川雫の私服が全然違っていたものだったからである。


(どっ、どうしよう……泉さんは夏川さんの私服を褒めろって言ってるけど――それを口にしちゃマズい気がする。だって彼女の私服ときたらまさかの――)

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