終発 奇跡の汽車
JR日高本線
…◆…🚃…◆…
汽車が走る。6年ぶりにレールが軋む。
諦められた線路を、忘れられた路線を、西へ戻っていく。
ふたりの記憶を拾い集めて、繋ぎ合わせるように。
このときだけは、「不通」という名で棄てられてからも今日まで6年生き延びてくれた、この2本の鉄の路に感謝を捧げた。
浦河を出てしばらく、
「ここは盛土が所々で流出してるからね。」
「それって走れるの…?」
「線路の上は走れるけど、慎重に徐行しないといけないのさ」
「『
「春に
「「ぼくたちみたいだね。」」
…◆…🚃…◆…
は る た ち
___春_立___
←東静内|日高東別
…◆…🚃…◆…
日高本線の沿線で、唯一の有人駅である
転轍機を鳴らして構内に進入する。2面3線、留置線も多い。
浦河駅よりもひとまわり広くて、日高地方で一番大きい駅だ。
聞こえるはずもない汽車の音を、レールが軋むのを聞いたのか。
僕らの
彼はしばらくホームを追走するも、端まで行くと足を止めて、テールライトを残して西へ走り去る汽車を呆然と見送る。
「あははっ、さっきの顔見たかい?すっごく驚いてた!」
「だろうなぁ。だって『不通』のまま忘れ去られる運命のはずだった、日高本線が…こうして走ってるんだよ?それも深夜に」
そうこうしないうちに、次の
この頃になると噂を聞きつけたか、駅に入ろうとカーブする線路の脇に、遠くからこちらを伺う影がぽつぽつと、2,3人が見えた。
「あはは…、最期の晴れ舞台だね。」
君は嬉しそうに、けれどもどこか哀しげにぽつり。
やるせないけれど、これが現実で。
そんな重い運命を背負わねばならないのが、こんなに無垢な少女だなんて。
「そんなこと、ないよ」
そんなことないだろ、って。
少女に。世界に。
「僕だけは、ずっと」
「うん、知ってるよ」
ずっと、知ってるさ。そう君は付け足して、自然に、僕の背へと凭れた。
背中越しに手をつないで、白い吐息はふたつ。
まだ少し雪を被った判官館の海崖の下を、一両単行の汽車は潜り抜けると、その先に紫の絶海が広がっていた。
「ひゃぁあ…!見て、見てよ!ルピナスが…!!」
「ほんとだ…。開花の時期って確か4月から6月だから、ちょっと早咲きだ」
漆黒の太平洋と線路を挟んで、ルピナスが咲き乱れていた。
銀色の
ふと、後ろからサイレンの音が聞こえた。
後ろを振り返ってみれば、並走する国道に道警の文字を記したパトカーが走っている。僕らと同じ速度で、こちらを牽制するように。
『そこの汽車、止まりなさい!!』
「ねぇっ、今の聞いたかい!?」
「聞いた聞いた。一台だけみたいだし、さっきの静内の駅員さんに通報されて出てきたんだろ」
「そーじゃなくって!普通は『そこのクルマ、止まりなさい!』とかじゃないか。それが"汽車"なんて、前代未聞じゃないかい?!」
少女は大はしゃぎで捲し立てる。しばらく僕らは笑いあった。
「……で、どうするんだい?止まるかい?」
「んなわけないだろ?フルスロットルだ」
「うふふっ♪ りょーかいっ!」
少女が念じると、汽車のエンジンが唸りを上げて回転する。
車窓が加速する。
けれど心配はいらない。汽車はふたりを国道から離して、護岸の線路へと連れ出した。
波打つ太平洋。眼下の黒くて荒いこの波は日高本線の醍醐味であったけれども、同時に彼女にとっての致命傷となってしまった。絶景名だたる日高本線を絶望の淵に追いやったのは、その絶景だったというわけである――皮肉な話だ。
「さ、次は
運命のその地。
そこに近づくにつれて、段々と汽車の速度が下がっていく。
もう所々岸壁のコンクリートにはヒビが入っていて、軌道の脆さを知らしめる。それを知ってか知らずか、僕らに暫しのゆるやかな沈黙が流れた。
「……この先に、踏切があるんだ。」
静かに、少女は切り出した。
「さっきは撒けたけど、この速度じゃ次は厳しいと思う。なにせ応援も来るだろうからね。」
パトカーの話だ――表面上は。
だって僕は、大狩部の駅の先に踏切がないことを知っているから。ないのは踏切だけじゃない。今や、その先の
「今のうちだよ」
少女は、易しい、優しい、嘘をついたんだ。
「追いつかれる前の今のうちなら、バレずに済む」
「……何が?」
「車内からきみが出てきたら間違いなく警察沙汰さ。それじゃ……きみを育ててくれた人たちを悲しませてしまうよね。」
思ったどおりの答えが返ってきて、言葉に詰まる。
「だから、降りるなら今だよ。」
桜は咲かない。
代わりにルピナスの花だけが、どこまでも咲き渡っていた。
その深い紫苑色は、汽車の音とともに、逃げるふたりをこの海岸線の果てへと誘うようで。この季節とともに、この線路とともに、遥か西の彼方へと。
銀河の下に奇跡の列車は走る。
3月31日。
今日がいつまでも今日じゃないことくらい、とっくに気づいていた。
明けない夜はない。朝が来てしまう。
望んでもいない次の季節が来てしまうんだ。
君と一緒ならどこへでも行けるのに。
僕を置いていかないで。
どうか、どうか。
「ありがとう、ずっとそこにいてくれて。」
もういっそ、僕ごと全部連れてってくれって言いたかったけれど、最後の最後まで君を困らせることはしたくなかったから。
ほんとうに在り難い、幻想のような君へ感謝の言葉をひとつ。
背を放して、ぱっと君は振り返った。
「えへっ、こっちこそ♪」
君が正面から手を繋ぎ直して、ふたりの額をくっつける。
揺れる白いワンピース。香るライラックの匂い。
ほしあかりにきらめく髪は、あの日の紺琉璃を蘇らせて。
柔らかな淡桃色の唇で君は言葉を紡ぐ。
「ありがとう、ボクと出会ってくれて。」
かつてあんなことを吐き捨てた挙げ句、それを幻想と断じて記憶を封じてしまった僕に、こんな事を言う権利なんて甚だ無いけれど。
明るくて元気あふれるのに、実はすごく繊細で、寂しがり屋。それでもああやって笑ってくれる健気な君が、眩しくて――愛おしくてたまらない。
時刻は未明を刻んだ。汽車の後方、日高山脈の稜線が
その瞬間。汽車はゆっくりと、朝風にそよぐように、天井から光の粒になって消え始めた。
ああ、当日が来てしまったんだ。
「ほら、降りないと。」
君は僕へそう
「ボクはともかく、きみの命日は…今日じゃないんだから。」
網棚が光片になって吹かれ、窓がゆっくりと風化していって。
それから朝の光にあてられた君は、段々と薄れていく。
「……きみは、降りないと。」
そう言いながら頭を撫でてくれる。
けれども僕は俯いたまま、動くことができなかった。
「僕が、知らないわけないじゃないか。」
君が消えていくその線路が、
その先は、路盤ごと太平洋に没していることくらい。
あの時気を失っていた君は、知らなくて当然だけど、この先で大怪我を負っていた君をさいしょに見つけたのは僕なんだから。
「君が、僕をここで降ろす理由。そして、君が一人でこの先へ向かう理由。」
きっと君は――、受け入れたんだね。
「僕はぜんぶ、わかっているんだよ?」
けれど、僕はそうじゃないから。
今日と
訪れたこの朝を拒むように。沈みゆく星空を、去りゆく日々を追いかける。
そこに君と乗り込んでしまった僕が、降りられるわけもないんだ。
「……もう、しかたないなぁ。」
君は少し困った顔をする。かつて君と一緒に吹かれた朝風に融けるように、その髪の先っぽから光の粒になっていく。
結局、最期まで迷惑掛けちゃったな。
「ここに非常ブレーキがあるから、ちゃんと使うんだよ?」
上半分が光に散っても、鉄輪が完全に消えるまで汽車はいちおう走り続けるから。
そう呟くと――君はひときわ輝いた。
「時間だね。」
切なげに微笑う君に、僕は言葉を失ってしまう。
眼前の光景に息を呑んだ。
そこにいたのは、
髪は往年の瑠璃色を取り戻し、くすんでいた肌は純白に透き通り。
頬をほのかな
それは―――どこまでも鮮やかな、
迫る
絞るように、
境界線の先へ消えていくそれに反射して、僕の視界にあの色が戻る。
あぁ、世界が日高色に染まる。
無慈悲で残酷な現実が見せるその光景は、悔しいほどに、どこまでも儚くて美しかった。
「見えなくなっても、ボクはきみのすぐ側にいるよ。居続けるよ。
いつまでも、どこまでも。」
「うん――わかってるさ。」
さらさらと光に融けていく君と手を取って。
僕らは
ピィィィィ――ッ!
汽笛が響く。
もう車輪と床だけになってしまった汽車の、最後の足掻きだ。
東の
日高山脈の稜線から昇る朝日を拒むように。
あたらしい春の季節を、迎えないで済むように。
走れ、走れ、
「待っててね。」
けれどブレーキは使わなかった。
ついに――僕は汽車を止めなかった。
ごめんね。
君だけがいない世界なんて、僕にはもう想像できないんだ。
「すぐ、追いつくから。」
4月1日へ最後まで足掻いたふたりを、3月は連れ去る。
108年間この地を駆け続けた或るローカル線と共に。
ありがとう、僕と出会ってくれて。
ありがとう、僕を選んでくれて。
これできっと。
ずっと。共に。
運命の4月1日。
あの日、僕は君と―――
終らない日高色の夢に落ちた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
2021年4月1日 日高本線
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