2236D
「はぁっ」
夜明け。
靴をつっかけて、除雪もされていない道を走り出した。
眠ることはできなかった。あの子のいない夜なんて初めてだったから。
朝の雪道は当然すっ転んで進めず、酷く気を動転させながら朝一番のバスに乗り込んで、君を捜しに出た。バスの車窓から半分睨むように、並行する線路に汽車を探る。
「あっ」
どこまで来ただろうか、線路が不自然に歪んでいるのに気がついた。つぎの停留所ですぐにバスを降りて、線路へ下りる。
眼下は海。ここは、防波堤の上に敷かれた線路だ。
「護岸が…!」
消波ブロックはまるごと流されていた。
コンクリートの破片が飛び散ったり、盛土が流されていたり。荒波打ち付けるボロボロの線路の上を、導かれるままに駆け出した。
朝の濃霧に包まれて凄く視界は悪かったけれど、ふと板張りのホームが見えた。手探りで階段を捜さがしてホームへ上がると『
その先に、うっすら大きな影を見た。
それは、脱線した単行列車だった。
「!?」
ただ脱線しただけじゃない。その車体の半分が海側に傾いている。
そのすぐ後ろの線路は海没していた。この状態で波が車体に打ち付ければ、あっという間に海へ転落だろう。大急ぎで駆け寄れば――次の瞬間、僕は見てしまう。
「…あ……。」
車内の奥の方で、ひとり倒れている少女。
身体は生気を失ったかのように灰白色に濁り、流れる血が琉璃るり色の髪をすっかり赤く染めてしまっている。
「たいへんだっ!」
通報して、それからどうしただろうか。
そのあとの記憶は断片的だ。
駆けつけた消防団。
難航する救出作業。
海側に傾いてゆく列車。
作業列車の到着。
引き揚げ、それから――
帰路、
木造駅舎の硝子戸をガラッを開けてみれば、そこには、腹や脚を包帯でぐるぐる巻きにした少女がちょこんと座っていた。
「あはは…ごめんね、心配かけて」
開口一番、そう力なく笑った彼女を、僕は抱きしめた。
もう中学校に上がるというのに、子供みたいに涙を流した。
そんな僕を包んで、静かに頭を撫でてくれる少女は――3年前のちょうどこの日。ここで初めて出会った少女きみの姿と重なって。
「大丈夫、だいじょうぶ。ボクはここにいるよ。
きみを置いて、どこかになんて行かないんだから――」
あの夜とは違って、僕だけは、すっかり大きくなってしまったけど。
…◆…🚃…◆…
2015年の1月のあの事故のあと、感謝状をもらったり、地元の新聞の隅端に載ったりしたけれども、全く嬉しくなかった。
あの日以来、
崩落箇所の傷は深く、復旧には膨大な費用が想定された。
厳しい気候に希薄な人口。鉄道維持にはあまりにも不利すぎる北海道において、人々の足を守り、支えるのに割かれる赤字は年間800億円――1日に2億円以上の損失――JR北海道というたった一民間企業が背負うには、重すぎる荷だ。
人口流出。過疎化。とうに、こんな辺境の盲腸線へ割くお金などあるはずもない。
復旧の目処すら立たず、
運休の長期化で駅舎は封鎖され、僕は役場が用意してくれた町営寮へ引き取られた。
かつてふたりで暖をとった石炭ストーブは撤去されて、かつて毎朝除雪して乗客の人々を迎えた正面玄関には鍵が掛けられた。
被災した汽車は、線路が無事であるこのあたりで試運転をしたものの、ひと月経たずすぐ故障してしまった。ここから車で運び出して修理するコストと釣り合わなかったか、汽車は――宿る少女と共に「
怪我は治されず、走ることも出来ず。
ふたりを裂いたあの日から、少女は色褪せていった。
鮮やかだった
僕らの世界を彩るあの汽車が動かなくなっても、時は無情に過ぎていく。
けれども。
けれども僕は、毎朝通った。
町営住宅から駅までは凄く遠い。それでも僕は中学校に行く折、必ず寄った。
「毎日ここまで、疲れないのかい?」
「確かに疲れるっちゃ疲れるけど、君がここにいる限り僕は通い続けるよ」
「わざわざそこまでして足を運ばなくていいのに…」
「そうじゃないと、君がひとりになっちゃうから。」
「ボクだってそのくらい慣れて――」
「手放したくないんだ。」
僕は少女の両肩に手を置いてそう伝えた。
「……ありがとう」
目を逸らしながらそう呟いた君の顔は、ちょっとだけ赤かった。
プラットホームはヒビ割れて雑草が茂り、線路なんかはもう一面深い緑色だったけれど、それでも跨線橋に大きく記された『JR浦河駅』の文字は、はっきりと読むことができる。まだ生きているよ、ここにいるよ、と健気に叫んでいる。
日高本線はあくまで「不通」なのだ。汽車が来ないだけで、駅も線路もちゃんとこうして生きている。そう――汽車だけが、戻らない。
莫大な修復費用の負担を巡って沿線7町村とJR北海道のあいだで議論が紛糾する中、応急処置すら受けられずほったらかしにされた"被災区間"という傷口は、年月とともに広がっていく。
2016年に北海道を直撃した一連の異常気象は、
そのうちに、人々は不便で遅い代行バスをも使わなくなった。
汽車のある常景は月日を経るごとに忘れ去られていった。
まるで、そうなることが確定していたかのように。
線路は錆びた。
駅舎は寂れた。
留置線の端に放置された汽車は、動かない。
『忘れられた鉄路』――その名に相応しい、そんな有様だった。
―――――――――
「取り戻そうよ、僕らの足を」
募金をしようとした。
必要復旧費86億円。目標は遥かに遠いけれど、道民一人が1000円出せば60億円になる。その第一歩くらいにはなってやろうと思った。
「いやそう言ってもねぇ…もう2年経つのよ?いまさら汽車が走ったって、」
「いるんだって、精霊が」
「中学生にもなって、アンタまだそんなこと信じてるわけ…」
友人が呆れるように肩をすくめた。
「そろそろそういうのから卒業しないと……親に見捨てられるわよ?」
僕の生い立ちを知るのはあの少女だけだ。だからその友人は、悪気どころか何気もなく軽く口に出しただけだったのだろうと思う。
けどそれは――僕の心の傷を、底から抉る一言だった。
「………ッ」
「あ、次の授業ってなんだったかしら」
話題は進むが、その後はずっと一日中うわのそらだった。
完全に立ち直ったと思っていたトラウマだったけど、全然そんなんじゃなかった。
「不通」以来、心情が不安定だったのもあるかもしれない。
PTSDについてちょっとだけ調べた。
幻覚、幻聴、そんな症状を見るうちに――「精霊」なんて実在するのか?
そんな疑念が沸いて来ざるを得なかった。
耐え難いトラウマ。
喪失感、孤独感、自己否定。
それらを埋め合わせるために「縋り付いて」いたのか?
自分で産み出した幻覚に?
そうじゃない、そうじゃないと必死に自分に言い聞かせた。
けれど、繁く通っていたあの駅からは足が遠のいていった。
日を経るごとに、脳内が冷えて静かになっていく。
自分だけにしか見えない存在って、妄想や幻覚の類と何が違うんだ?
癒えない傷から無理やり目を背けるために、そんなのを創り出してしまったのか?
つまるところ僕は、この町に初めて来たあの夜から一切成長していない?
年頃の少女を妄想して、それに縋り付くどころか――あわやあんな感情まで抱く?
「なにそれ…、なんだよそれ…。」
そんな疑念はズブズブと沼のように僕を呑み込んでいく。思春期に入ったからかもしれないけれど、そんな自分がひどく惨めに思えてきたのだ。
恐怖とか、自嘲とか、怒りとか、情けなさとか。
いろんな感情が混ざり合って、もうどうしていいのかわからなくなった。
訳が分からななくなったんだ。
だから、その大元を絶とうと思った。
そしたらもう苦しまなくて済むと、衝動的にそう感じた。
ここまでこんがらがった頭で論理的に考えることなんてできなかった。
僕はもう「哀れな捨て子」なんかじゃない。
棄てられることを恐れて、自分で生み出した幻覚に縋るしかない弱々しい子供じゃないんだ、いい加減大人になるんだと。成長するんだと。
僕を縛り付ける幼き遺物は、完全に除去しなきゃいけないんだと。
それはもう半ば自分に言い聞かせるようにして、中学2年の冬に決意する。
過去の自分と永久に決別するために。
もう一度、かつてを象徴するあの場所へ足を踏み入れた。
駅は代行バスの待合所になっていたが、相変わらず小綺麗に保たれていた。
あの少女の面影が鼻唄交じりに木箒を回す姿がすぐに脳裏に浮かぶけれども、頭を振ってすぐに消し去る。
かつて僕が寝起きしていた仮眠所にて、気の抜けたように少女は座っていた。
ほどなく僕の姿を認めると、ぱぁっと彼女は顔を咲かせた。
「わぁ…!久しぶりだね。最近来なかったからどうしたのかと思ったよ。」
久しいその声に、溢れ出てくる、憧憬のような――されど、幻覚。
そうして、己の弱さへ向かい合う。
「ここに来るのはこれで最後にする」
空気が凍った。
一拍どころか、三、四拍くらい置いて、少女は口を開く。
「え、え…?」
「もう妄想は終わりだ。」
「なん、て…??」
拳を握って震わせる。もう、止まるものか。
「自分で創り上げた幻覚、それも女の子のかたちをしたそれに母性を求めて縋って、挙句の果てに仄かな――情まで抱く…。僕には、恥ってものがないのか…っ!」
目の前の少女がしょせん幻想であるからこそ、余計自分を責め立てる。
「どうして…?どうしてそういうこと言うんだい…?」
怯えるように僕にそう尋ねる少女の表情が、耐え難いほど悲痛であるこそ、ますます僕は自分が嫌いになる。
「やめてくれ…。もう、そういうのからは卒業しなきゃいけないんだ。
いつまで、いつまで幻を見てるんだ…!!」
「待ってよ、ボクは――」
「二度とその声を聞きたくない!」
頭を抱えながら顔を背けて、僕は制するように掌を突き出した。
幻聴も、自分の声も。それらはどこまでもあの惜日の残光に重なって、呼吸すらままならないほどに苦しかった。惨めだった。
奥歯を噛み締めて、ゆっくりと踵を返す。
「や…!嫌だよ、ひとりにしないでっ!」
「クソっ、いい加減振り払えよ…!視界にありもしないもの見るなっ」
「ねぇ、ボクを置いていかないで――…!」
耐えられなくなって、大きく息を吸った。
古いけれどもたくさんの記憶が詰まった木造駅舎に、怒号が響く。
「失せろッ!!」
ぷつッ、となにかが切れたような音がした。
振り返ったけれども、そこには――もう少女の姿はなかった。
この瞬間を境に、幻覚は見えなくなった。
見えなくなったんだ。
僕は駅から歩み出した。これが第一歩だ、と。
胸にぽっかりと空いた虚無感と喪失感は、妙に清々しくて。
少し大人になったようで。
ひとつ弱い自分を克服できたようで。
視界に写った世界は、どこまでも灰色だった。
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