幻想動物園

あつしじゅん

第1話

 

 都内の公立中学校に通っていた齋藤優子は、獣医師を目指していた。そして、県内でも難関と言われる高校を次々に受験して尽く落ちた。結果として、最低辺の高校に入学する羽目になり、学校に行っても一日の大半を寝て過ごしていた。

 そして、まだ入学より三ヶ月も経っていない今日、退学届を地味な学校指定の鞄に入れ、最後のブレザー姿を街に披露しながら、思い入れのない母校への道をのらりくらりと歩いていた。自宅からすぐのシャッター商店街を抜け、緩やかな坂を登り、広い空き地を横に抜ける。

 通い慣れ始めた道、見慣れ始めた風景。だが、つい一週間程度前には空き地だったはず(一週間学校に行っていない)のその場所には、『幻想動物園』と木板に黒ペンキで殴り書かれた看板が付けられた簡素な門が建っていた。

 さらにその看板の下には汚い字で“アルバイト募集・年齢職業不問・時給千円・勤務時間は夕方から”と書かれていた。

 優子は幼少の頃、兄の優太とよく家の近くの小さな動物園へ行っていたことを思い出していた。兄は動物に詳しく、丁寧に優子に説明してくれた。動物を好きになったのは兄の影響だった。しかし、その兄は夭折してしまい家族は悲嘆に暮れた。それを思い出し悲しくなってきた優子に、粗野な声が突然降りかかってきた。

「何だお前? 何か用なのか?」

 カーキ色のつなぎを着た中肉中背の少年だった。短髪で色黒、いかにも毎日力仕事をしているといった風情だが、年齢は優子とそう変わらないように見える。昼飯なのか、手にはビニール袋満杯の牛丼のテイクアウトを提げていた。

「え、ああ、アルバイトの募集に心惹かれまして」

 とっさに口から出た返答は、自分でも意外なものだった。学校を辞めてアルバイトはするつもりだったが、力仕事系は予定に入っていなかったのだ。しかし、何故かそれが正しい選択だという気がしてならなかった。

 そんな優子に対して少年は、鋭い目をさらに鋭角に尖らせぶっきらぼうに言った。

「お前みたいのに何ができるんだ?」

 優子はムッとして反論した。

「ここには年齢職業不問って書いてあるじゃないですか! それって採用条件はないってことですよね!」

 その時、まくし立てる優子に押されて二の句を告げれない少年の後ろから声がした。

「お客さんかな?」

 その人は温和そうな表情をしていて、どこか懐かしさを感じさせる青年だった。

 少年と同じ色のつなぎを着て首を傾げている。

「あ、園長。こいつここでバイトしたいって……」

 明らかに今までと違う殊勝な態度の少年。まだ若そうに見える青年は、この動物園の園長ということらしい。

「そうですか、丁度よかった。人手不足で困っていたんですよ」

「よろしくお願いします。齋藤優子と申します。えっと、一応高校生です」

「どうも園長です。よろしくね」

 そこに食い気味に少年が自己紹介をする。

「俺は本田淳之介。ハッキリ言ってこの仕事は体力勝負だ、無理だと思ったらとっとと辞めろ。以上」

 とことん意地の悪い本田に対し、優子は心のなかで絶対辞めないと心に誓った。

「それじゃ、事務所で契約を済ませて、すぐ仕事に移ってもらうけどいいかな?」

 優子は、異様にトントン拍子に進んでいく話に逡巡しながらも首肯したのだった。


 

 門をくぐり抜け、舗装されていない砂利道を少し進むとプレハブが見えてきた。どうやらそこが事務所らしかった。

 中は会議室にあるような横長の机があり、パイプ椅子が四脚整列していた。他には古ぼけた食器棚のようなものがあるだけでガランとした印象だった。

 余程人手が足りないのか気に入られたのか、履歴書すら提出することなくすぐに契約書にサインをして仕事に移ることになった。しかし、よくよく考えてみると敷地には事務所があるだけだった。

 優子は、動物園は他の場所にあるのだろうと考えていたが、それを否定する言葉が園長の口から発せられた。

「それでは今から動物たちに会ってもらいますが、驚かないでくださいね。それと契約書にあったようにここの存在は他言無用です」

 そう怪しいセリフを言うと園長と本田は、慣れた手つきで机をどかした。よく見るとそこには床と同じ灰色をした引き戸があり、本田がいつも通りだと言わんばかりにテキパキ持っていた鍵で扉を開けた。そこには錆の浮き出た梯子があったが、暗すぎてどの程度深いかは測りかねた。

「まさか、地下に動物園があるんですか?」

「はい、早速びっくりされましたか? よく耳をそばだてて下さい」

 優子は言われた通り地下に耳を近づけ、よく聞こえるようにと耳に手を添えてみた。すると確かに猛獣の唸り声のようなもの、キーキーと何かがなく声、バサバサと何かが羽ばたく音が確かに聞こえてきた。

「ビビったんなら今すぐ帰っていいいぞ?」

 本田がニヤケながら優子を挑発した。一瞬その誘惑に負けそうになったが、優子は決然と返答した。

「どんな動物に会えるか楽しみです」

「よかった。では行きましょう」

 優子の返答が気に入ったのか柔和な表情で答えた園長が、テレビのリモコンのようなものを取り出して下に向かってスイッチを押した。すると地下の暗黒空間に光が瞬く間に広がった。

 恐る恐る梯子を下りて行くと、東京ドーム何個分あるんだという広大な空間が広がっていた。 そこは、地下なのに空と太陽があり、中心にはどこから流れ込んでいるかわからない巨大瀑布が轟々と音を立てており、その周辺には巨木が立ち並ぶ森が広がっていた。その森からは、川が幾本も流れ出て大地を潤し、水際には動物らしき影が看取できた。そして、どういう理屈か、大地は虹色に輝いているのだった。

 さらに目を凝らしてみると、空中には見たことのない生物たちが木々と共に浮いており、地上にも巨大な生物がいる……とてもこの世のものとは思えない光景があった。

 優子が浮世離れした光景に圧倒されていると、園長が説明してくれた。

「中心にある巨大な滝は生命の滝、その周りの森は始原の森と言います。動物たちはこの広いフィールドに点在しています。浮いているように見える動物たちは、空を飛ぶ動物達なんですが、浮遊型透明ケージに入っています。浮いているわけではないんです」

「は、はぁ……う!」

 最初はあまりの光景に呆気に取られていた優子だったが、園長の説明の途中から我に返った。その途端自分がとんでもなく高い場所にいることを意識してしまった。何十メートルあるのかわからない高さに自分の意志とは関係なく膝が笑いだした。

「おい、早く行ってくれるか? 後がつかえてるんだわ」

 例のごとく本田が上から意地悪く優子につっかかる。

「わ、わかってるわよ」

 怒りの力でドンドン下る優子だったが、勢い余って梯子を踏み外し落下した。終わった……と思ったが、落下はすぐに止まった。

「大丈夫ですか?」

 落ち着いた女性の声。振り向くとそこには、純白に輝くローブを身に纏った色白金髪の綺麗な女性がいた。驚いたことに、その背中には美しい白い翼が生えており、羽ばたかずして空中に留まっていた。いわば天使のような容姿だが、頭上に輪っかはなかった。

「すいませんアンジェさん、こいつ鈍臭いんですよ」

 本田は、馬鹿にした表情で女性に答える。

「たまたま私が来ている時で良かったわね。私は獣医師兼管理者のアンジェよ、よろしくね」

 そしてアンジェは、優子を下ろすとその場から消えた。その現象に口をパクパクしていると、本田が地上に下り立ちながら口を開いた。

「驚くのはまだまだこれからだぞ」

「だ、だって消えた……」

 色々合点のいかない優子だったが、普通の世界ではないことは理解した。

「では、あの小屋で作業着に着替えて来てください。僕はここで待ってますので」

 園長が指し示した方向には、年季の入った木造二階建ての小屋があった。

「ついて来い」

 そう言った本田に着いて行くと、小屋が近づくにつれ奇妙な臭いがしてきた。

「何か臭くないですか?」

「ああ、これは“ムクア”っていう餌の臭いだ。ここの動物は基本的にみんな同じ餌を食べる」

 小屋は、蔦が絡みつき苔が生えていてかなり古そうだった。しかし、作り自体はしっかりしているように見えた。

 本田がポケットから鍵を取り出し木製の扉を開けた。するとモアっとした空気とともに肥料のような悪臭が優子の鼻孔をついた。どうやら一階はまるごと餌置き場となっているようで、親指大で黒色の固形物質が部屋の両脇を固めていた。

「二階にロッカーがある。その中につなぎが入っている、着替えてこい」

 優子は投げ渡されたロッカーの鍵を手に、息を止めながら二階に駆け上がった。部屋は雑然としていて、二人の私物らしきものが散乱していた。それらをどかして充てがわれたロッカーから灰色のつなぎを取り出し、そそくさと着替えて逃げるように外に飛び出した。すると本田が、リアカーのついた自転車を押しているのが目に入った。

 リアカーには、水色のバケツと医療キットと書かれたジュラルミンケース。そして、白い浮き輪と水色の浮き輪が積んであった。

「おせーよ」

 本田はそう言って優子にハンドルを持つように指示した。

「餌はシャベルで積んで、バケツで動物のところまで運べ」

「は、はい」

 優子は返答して言われたとおり餌を積むと、クサ重い自転車を漕いで園長のもとに向かった。

「ご苦労さまです。では顔見せを兼ねて餌やりや掃除など基本の作業を説明していきます」

「はい、よろしくお願いします」

 やがて一つ目の檻が見えてきた。檻と言っても透明なので、動物の説明が書いてある看板以外は虹色の大地に動物がいるだけに見える。だが、その動物はただの動物ではない。

「こちら赤鬼のオガさんです」

「よろしくな嬢ちゃん!」

 そう陽気に答えたのは、体長三メートル程はあろうかという赤鬼だった。ちゃんと金棒を持ち、虎の皮を身に纏っている。

「え、え、あ、よろしくお願いします」

 優子は、あまりにありえない事態に遭遇すると冷静になるらしく、テキパキとバケツに餌を詰め込み始めた。

「いや、ちょっと待て」

 本田が優子の作業を手で制すと、透明の檻に金色のカードをかざした。すると檻は、一瞬にして完全に消え去った。そして、ずっと手に持っていた牛丼をオガさんに手渡した。

「せやせや、これよこれ」

 ホクホク顔でオガさんは、虎柄パンツからリモコンのようなものを取り出し、ボタンをいくつか押した。すると大きな椅子とテーブルが突然下から湧き出るように現れた。オガさんは悠然とそこに腰掛けると、パッケージをうれしそうに開けておいしそうに牛丼を食べ始めた。

「このようにオガさんの食事は、我々がリクエストを聞いて買ってきます。それと、見ての通りお世話は要りません。それどころか我々の作業を手伝ってくれることもあります」

「あの、それって動物ではないんでは?」

 優子の当然の問に、

「そうですね、正確には動物兼従業員です」

 園長が平然と答える。

「はあ、そうですか」

 常識の感覚が麻痺し始めた優子は、呆然と返答した。

「オラ、時間押し気味だから急ぐぞ」

 優子が、急ぐ本田と園長を追って次に着いた檻の看板には「シマウマ孔雀」という文字が書かれていた。文字通りシマウマの背に孔雀の羽が生えている生き物だったが、羽は開いていなかった。さらには……。

「新人か……貧相な顔だな、出自がしれている。必要以外に我輩に近づくな。それと我輩を呼ぶときはマク様と呼べ」

 馬面がしゃべっていることもさることながら、非常に憎たらしい高飛車な口調で腹の立つ内容をまくし立てた。。

「まあまあ、そうおっしゃらずに仲良くしてやって下さい……」

 園長が宥めるとようやく不承不承ながら檻の掃除や餌やりを許可してくれた。本田も苦手らしく終始渋い顔をしていた。

 しかし、さらに本田が苦手としていた、いや恐れていたのがその次に登場したライリンなる動物だった。

 名前から推測できるように、胴がキリンで顔が雄ライオンといった何ともアンバランスな動物だった。

「何でそんなに怖がっているんですか?」

 優子はこれまでの仕返しとばかりに本田に意地悪く聞いた。

「こ、怖がってねー!」

 そう言いながらも本田はライリンに近付こうとしない。

「なら近づいて世話をしてくださいよ」

 さらに仕返しをしょうと優子が本田の腕を引っ張ると、青い顔をしながら蚊の鳴くような声で呟いた。

「俺はかじられたんだ……動物園で働いていた、まだ生き……」

 そう言いかけた所で、園長が話に割って入った。

「本田くんはこの子が苦手なのでいつも私が世話をしているんです。今日は優子さんに頼みます」

 優子は怪訝に思いながらも、園長の指示に従った。 

 その後も、危うく石にされかけたメデューサ、上半身ゴリラ下半身魚の半魚ゴリラ、大きなわらび餅にしか見えないスライムの群れ、象ぐらい大きい大雀、ここに居たのかネッシー、本当に居たのかチュパカブラ、ゲームで会った以来のドラゴン、普通の動物園には居ない方の麒麟、確か妖怪図鑑に載っていた気がする鵺などなど、陸海空のとっても楽しいお友達が、これでもかと出て来た。優子は自分は寝ているのか下手をすると死んだのかと思い頭がクラクラした。

 特に高所恐怖症の優子にとって、空の動物の世話は苦痛を極めた。なぜなら、白色をした浮遊浮き輪という空中に浮く浮き輪を体に装着して空の動物が待つ場所まで飛んで行かなければならなかったからだ。しかし逆に、水色の潜水浮き輪は、水中に長く滞在でき、ちょっとしたダイバー気分を味わえる楽しいものだった。だが、そんな山あり谷ありの動物紹介も最後となった。

「遂に最後の動物です。彼は特別にここで一時的に預かっている子です」

 その場所は他の動物達と違って、大きな滝の真下の巨木が立ち並ぶ森にいた。特に柵があるわけでもなく、ただ草の上にその子はゴロンと横になっていた。

 真っ白な馬だった。しかし、ただの馬ではない。いわゆるペガサスというやつで、背中から白く大きな翼が生えている。つぶらな黒い瞳をしている可愛らしい仔馬だった。

「あれ、この子怪我してるんですか?」

 ペガサスは、園長と本田に支えられながら何とか立ち上がった。どうやら右後ろ脚と、左の翼を怪我しているらしく包帯が巻かれている。

「はい、現在リハビリ中です。それが終わったら元の世界に返さなければなりません」

「ここで育てるのではないのですか?」

「ペガサスは、条約で捕獲してはならない動物に定められています。例外は、今回のように怪我を治すために一時的に預かる時だけです。ということで、きちんと自分で歩いて飛べるようになるまでお願いします。では、そろそろ時間ですのでお客様達をお迎えに上がりましょう」

 言われてみれば当然だが、ここは動物園なので見に来る人がいるのだ。しかも来園者たちは、ここの動物たちもかくやといった異形の者達だった。

 急に何もない空間が裂けて彼らは出現した。最初に現れたのは影の集団で、人の影が具現化した者達とのことだった。次に現れたのはゾンビとスケルトンの兄弟で、その次に来たのはグレイタイプと呼ばれる目が大きくて頭でっかちな宇宙人だった。優子は、もうどうにでもしてくれといった心持ちで、園長や本田に習いながら接客にあたった。

 彼らは一通り動物を見て回ると、来るとき同様空間の裂け目から帰っていった。

「どうだった? 感想は?」

 ライリンの恐怖から復活した本田が疲れた表情で優子に聞く。

「感想も何も……今更なんですけどここは一体どこなんですか?」

 普通の人間なら抱く至極まっとうな疑問を本田にぶつける。

「詳しくは言えないが、俺達はまだ“さなぎ”みたいなもんなんだよ。ここは、待機所なんだ」

「さなぎ? 待機所? ますます分からないです」

 そう言いながらも、優子も最早どうでもよくなっていた。あまりに常識から外れすぎていたからだ。

 優子は、それよりも気になっていたことを本田に聞く。

「そういえば、園長の名前はなんですか? ただ園長としか言っていなかったですけど」

 本田は、少し困った表情で口を開く。

「えっと、うーん。とにかくお前には名乗れないんだよ。それがここでのルールだ」

「答えになってないですよ」

 そこへ、知ってか知らずか本人が優子に話しかけてくる。

「続けられそうですか?」

 常ににこやかな園長が優子に優しく問う。本田の曖昧な答えが気になったが、退園は嫌なので園長に名前を聞くことはせず、即返答する。

「もちろん続けます」

 優子は、次の日から本格的に働くことになった。だが、この動物園は人間時間で夜から開園、準備も夕方からなので、学校に行ってから来なさいと園長から言われ、学校は辞めそびれてしまったのだった。


 

 優子は、採用された明くる日から一生懸命に働いた。悪臭を放つ餌を我慢して、シマウマ孔雀のマク様に毒づかれ、ペガサスのリュウセイのリハビリに手を焼き、赤鬼のオガさんに励まされながら日々働いた。一応園長との約束を守り学校にも行っていた……ほぼ寝ているが。

 しかし、仕事にも慣れはじめたある日、事件は起こった。その日は本田も園長も遅れて来る予定になっていた。つまり、優子一人で作業を開始しなければならなかった。だが、そんな日に限って遅刻をしてしまったのだ。

 そして、その結果……。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 優子の前には、干からびて透明なビニール袋のようになったスライム達が、カサカサと風に揺れていた。滝から水を運んできて掛けても彼らが元に戻ることはなかった。

 優子はスライムたちに一頻り謝った後、呆然とその場に立ち尽くしていた。そこに本田が声を掛けてきた。

「おいお前、何油売ってるんだ!」

「ごめんなさい……」

「謝っている暇があったら……」

 そこまで言って本田は、スライムの有り様に気づいた。優子は判然としない頭で怒られることを予期した。だが、本田は冷静に告げた。

「早く埋葬してやろう」

 怒られたほうが万倍ましだと思った優子は静かに声を漏らした。

「なんで怒らないんですか?」

「お前を怒ってもスライムたちは帰ってこない。それにお前だけが悪いわけじゃない、俺も事前に注意を促すべきだった、すまん」

 優子は、真剣な眼差しで謝る本田を不思議そうに見つめた後、一緒にスライムたちの墓を水のたくさんある滝の側に造った。その日のことは、それ以降覚えていない。



 あの日以来、優子は早く出勤するようになっていた。もう二度とみんなが悲しい思いをしないように……。そして、その努力が功を奏する日が来る。

 その日も優子はいち早く出勤し動物たちの世話をしていた。その際いつもより明らかに元気がない動物を発見した。

「マク様、今日元気がないようですけど大丈夫ですか?」

「君ごときが僕の心配をするのか? 偉くなったものだな……邪魔だ消えるがいい」

 言動こそいつも通りだったが、声は弱々しく覇気がない。歩く姿もヨタヨタしているように見える。

「でも、やっぱりおかしい……」

 優子がそう言いかけた所でマク様はバタンと横倒しに倒れ痙攣し始めた。優子はとっさに習っていた心肺蘇生法を試みた後、かかりつけの獣医師アンジェを呼び、なんとか事なきを得た。

 悪夢再びかと肝を冷やしたが、その日から少しだけマク様の態度が軟化したことは、優子にとって収穫だった。



 生物に接するということは、否応なく間近で死を直視しなければならないということである。だが逆に、生命の誕生という輝かしい瞬間にも立ち会えるということでもある。

 優子はその日、壮絶な出産の補助をすることになった。

「もっと引っ張れ!」

 本田が優子に発破をかける。当の優子はこめかみに血管を浮かべ、足の筋組織が切れんばかりに自転車のペダルを漕ぐ。

「うぉぉおおおおお!」

 自転車の荷台には綱引きで使う綱が二本括りつけられ、その先には体が半ば出かかっているグリーンドラゴンの赤子の足に結ばれている。他にも二本ロープが付けられており、それぞれ本田と園長が引っ張っていた。

「ギャアァァァァアアアア」

 母親のローラさんが苦しそうに叫んだ。出産が始まってから、かれこれ四時間が経過していた。あまり長引くと母子共に命の危険がある。急がなければならなかった。

「もう一息です! 死ぬ気で引っ張って下さい!」

「「了解!」」

 優子と本田の返答が重なった時、全員がズルリとした感覚を感じた。同時に「ギャース」と鳴き声がした。遂に赤ちゃんが誕生したのだ。まだ、赤い羊膜に包まれているが、緑の体躯がその上からでも視認できた。

「やりましたね!」

 優子は勢い余ってドラゴンの糞の山に突っ込んでいた。だが、そんなことより新しい命が誕生したことが嬉しくてたまらず、ローラさんに舐められている赤ん坊の近くに駆け寄った。

「くっさ! お前、くっさ!」

 本田が笑いながら、左手で鼻をつまみながら右手でしっしと追っ払うジェスチャーをした。

「いやー、とにかく良かった。一安心です……あ!」

 安堵した表情をしていた園長だったが、一転して表情を曇らせた。

「どうしたんですか? あ!」

 そう言った優子も気づいてしまった。それを見ていた本田も気づいた。準備が終わっていないのに既に開園時間が過ぎていることに……。

 結局、来園者に謝る所から接客は始まった。だが、幸いにも来たお客さんは常連さんばかりだったので、一緒に世話をしながら見学をするという趣向にして許してもらったのだった。



 出会いとは偶然の産物だが、別れとはそれに付随する必然の条理である。

 遂に優子とペガサスのリュウセイの別れの時が来た。彼のリハビリが終わってしまったのだ。

 今やリュウセイのリハビリは、優子の生活の一部になっていた。そして、絆も深まっていた。

 だが現在、リュセイを返すため、ペガサスの住まう、地球とは別世界の金色に光る森に優子、本田、園長、アンジェが来ていた。アンジェがいるのは、そもそもこの依頼をしたのがアンジェであり、この世界に来るためにアンジェの力が必要だったからだ。

 リュウセイは一歩進んでは優子たちの方を振り返り、潤った黒瞳で名残惜しさを伝えてきた。みんな駆け寄って連れ戻し、再び日常を取り戻したい気持ちでいっぱいだった。だがそれは許されない。

「さよなら、なんだよ……」

 リュウセイは何度か振り返った後、意を決して森へ走り、大きな翼で天高く飛翔した。

「また、会えるわよ……いつか」

 アンジェの励ましにみんな頷き、リュウセイのいない日常に戻った。

 その裏で、優子は密かにある決心を固めていた。



 仕事が終り、プレハブに集まった二人の前で優子は言った。

「私、辞めます」

 優子の申し出に本田の目が点になった。園長は予期していたらしく小さく頷いただけだった。

「な、なんでだよ……」

 本田が動揺しながら優子に視線を合わせず問う。

「私、一旦は諦めた獣医を再び目指すことに決めたの。そのために時間が必要なの」

 優子はこの動物園で直に動物と接したことにより、動物の命を救うという意義を痛切に感じ、再び獣医師を目指すという目標を持つようになっていた。

 それを聞いた本田は、暫く沈黙した後「絶対受かれ」と言い残し、再び地下へ消えた。

「僕から言えることも本田君と同じです。絶対受かって下さい」

 そして園長も再び動物園に降りていった。

 それから一ヶ月後、動物たちを交えたお別れ会が行われた。マク様は、初めて羽を開いて見せてくれ、それを見たオガさんがプロポーズだと囃し立てて大喧嘩になった。本田は勇気を出して初めてライリンのたてがみに触って見せ、アンジェはリュウセイの羽を一枚持ってきてくれて彼の健在を知らせてくれた。他にも常連のお客さんが多数駆けつけてくれて、それはそれは賑やかなお別れ会だった。

 それから優子は、ほとんどの時間を受験勉強に費やした。動物園に顔を出すこともあったが、極たまにだった。



 優子は念願叶い獣医学部に合格した。そして、合格発表を見た直後、返す刀で動物園へ向かった。合格の報告をするため。そして、本当のことを聞くために。

 だが、そこには何もなかった。昨日まであった看板もプレハブも無くなっていた。学校・予備校へ行くために毎日通っていたのだ、見間違えということはない。近所の人に聞いても、そもそもずっと空き地だったとの返答しかなかった。

 その後優子は、再び彼らと会うことはなく、長い時間を過ごした。獣医になり、結婚出産し、孫にも恵まれ幸せな人生を終えた。



 気づくと優子は、違う姿に変わり、懐かしい森の中に懐かしい作業着姿で立っていた。そこはとても思い出深い場所だった。

「あなたは……。そうか、おかえりなさい」

 そこには微笑んでいる園長がいた。

「ただいま」

 そこへ、久しぶりの顔が、騒々しい声とともに飛び込んできた。

「園長! あ、お前は……とにかく準備を手伝え。アンジェさんが、リュウセイ連れてくる時間になっちまうぞ!」

 口は悪いが、表情はニヤけている本田の檄に優子が頷く。

「そうなんです、今日は特別にリュウセイがここへ帰って来るんです。早く仕事を終わらせてみんなで迎えに行きましょう」

 園長が変わらぬ柔和な表情で優子に語りかける。

「はい!」 

 優子は元気に答えて、いつもの作業に移った。                                                       (終)         

             

              


 

 

   



 


 

 




 


 


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幻想動物園 あつしじゅん @b22106065

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