セフィロ

 セフィロタレイア・ケイナベル――通称セフィロは、孤独な研究者であった。


 教会のトップである教皇エレウテルスの二女として生まれた彼女は、幼少より魔術に非凡な才能を見せ、魔力経絡の測定では最高級のSランクを叩き出した。

 測定器の針が途中で振り切れたため、正確には「計測不能」である。

 才走る彼女は協調性を欠く傾向にあり、教皇の後継としての座は、すでに枢機卿の地位にある腹違いの姉に譲っていた。


 だがセフィロにとってそんなことはどうでも良いことだった。

 組織内で役職を持つことなど、研究者の彼女には雑務を増やす足かせでしかなかったからだ。


「雑務ゥゥゥゥゥウウウ!!」


 セフィロはモップを手に教室を走り回っていた。

 彼女の不手際によって引き起こされた爆発。火災を防ぐためにアリギエーレ司教はスプリンクラーを作動させた。

 水浸しとなった教室の掃除を、セフィロは命じられたのだった。


「びゅーーーーーーーーーーーーーーん!!」


 モップを滑らせ、セフィロは部屋の端から端までダッシュした。

 吸い取りきれなかった水分が進路に沿って波飛沫を上げる。

 掃除など自分の仕事ではないとセフィロは思っていたが、滑走しながら水を追い込んでいく作業は、心なしか楽しいようにも感じられた。

 しかし部屋の端に到達し、壁に当たった水が顔に跳ね返ってきたところで、その楽しさは消え失せた。


「んキァアアアアアアッ!!!!」


 猿の鳴き声のような奇声を発し、セフィロはモップを投げ捨てた。

 顔にかかった水をローブの裾で拭い、髪の毛をワシャワシャと掻きむしる。


「おわり!そうじおわりッ!!」


 ヒステリックに叫び、セフィロは掃除を終えた。

 無論なにも終わってなどいない。

 床はビシャビシャのままだったし、爆風で薙ぎ倒された机や椅子が散乱していた。


 だが終わりなのだ。

 セフィロは掃除をしておけと命じられた。教室を元の状態に復元しろとは言われていない。

「床を拭く」という掃除に類する行動をしたのだから、彼女の中で間違いなく掃除は終了したのだった。


「あとは無能がやればいい」


 そう言って、セフィロは書物の詰まったショルダーバッグを引きずりながら部屋を出た。

 浸水したバッグの中で本たちが悲鳴を上げていたが、資料の保存状態などセフィロは関心がなかった。

 どうせ一度読んだら紙くず同然になるのだから。





 昼食をとるため、セフィロは食堂へ向かった。

 教会の直営であるマーヤ修道院は回される予算も多く、食堂は豪勢なビュッフェ形式となっている。

 入口でトレーを手に取ると、調理場の女性が「今日のおすすめ」について語ってきたが、セフィロは無視した。

 手近なパンを掴み、ろくに確認もせず主菜と副菜を同じ器に盛り付けて踵を返す。

 座る場所を探して食堂内を見渡し、セフィロは「んー」と唸った。


 掃除をしていたせいで席取りには出遅れてしまった。

 気の合う者同士のグループが乱立し、座席を埋めている。

 セフィロには気の合う人間というものが存在しない。当然グループにも属していない。席を取っておいてくれる心優しい友人など居るはずもなかった。


 もっともセフィロはそんなものを必要としない。

 彼女はいつでもどこでも、自分が座りたいと思った場所に座れるのだ。


 トレーを手に食堂内を進んでいくと、男子と女子の固まりが隣接して座っている卓があった。彼らは隣に座る友人と談笑しながら、なるべく反対側を視界に入れないよう気を使っている。


 並んで座っていても別グループの間には見えない境界線がある。

 これはかなりわかりやすい境界線だった。

 ちょうど日当たりも良い場所だ。ここにしよう、とセフィロは思った。


 セフィロは彼らの境界線(本来座席ではない場所だが一人分の間隔が空いている)に入り込むと、自分のトレーを叩きつけるようにしてテーブルに置いた。


 境界線をはさみ、男女のグループ全員が凍りつく。

 セフィロは無言のまま、猛禽類を思わせる金色のギョロッとした瞳で虚空を見つめている。


 一人の少年が「なんだよ」と威嚇する声を上げたが、別の少年が「関わるな」と言って制した。少女の一人は聞えよがしに「オエッ」っと声を出す。


 数秒の後、卓についていた全員がトレーを持って立ち上がり、セフィロのそばから離れていった。


「さっさとどけばいいのに。無能は判断を下すのに時間をかけすぎる」


 ぼやきながら、セフィロは腰を下ろした。

 常に驚いたように見開かれた不気味な目と、エキセントリックな言動。

 他者を見下して憚らない態度。

 研究に没頭するあまり着替えや入浴を疎かにする不潔さ。

 セフィロが嫌われ者となるのは道理であった。


 だが無能な人間からの評価など、セフィロの知ったことではない。

 こうして長テーブル一個まるまる占有できるのだから、むしろ嫌われている方が都合がいいと思っていた。

 セフィロはパンを齧りながら、テーブルに何冊もの本を広げて同時に読み下していく。


「おっきい魔法の式は書けそうだけど起動に必要な魔力が足りないかなぁ~……」


 彼女の目下の研究テーマは「大きい魔法」。

 とにかく本能の赴くまま、より強力な魔法を作り出すことがセフィロの目標。

 しかし人一人で扱える魔力量には限界がある。

 街の住人全員の魔力を集めることができれば、あるいはセフィロの式を起動することも可能かもしれないが。


「せいめいの…き……」


 セフィロは書物に描かれた挿絵を指でなぞった。

 複数の円と線が絡み合って表されるそれは、「生命の樹」と呼ばれている樹状の魔術式であった。

 なんでも思うままにできる万能の式、と謳われている代物だが、起動に成功した事例は記録になく、魔術師たちの間では古代人が描いた落書きという見方が大勢を占めていた。


「これ使えたらイケるかなぁ~?」


「なにがですか?」


 本を見ながらのセフィロの独り言に、思いがけず応える者があった。

 セフィロは生命の樹の挿絵を見つめたまま固まり、なにも言っていないふりを決め込んだ。


「失礼。私に話しかけませんでした?」


「………………」


 声の主が食い下がってくる。いったい何のマネだ。新手のいじめだろうか。

 独り言を聞かれただけで気まずいのに、わざわざ返事をしろというのか。

 無能相手に使うカロリーなどセフィロは持ち合わせないというのに。


「ふむ。このテーブルは空いているようなので、座らせてもらいます」


「は!?」


 思わず声が出た。

 反射的に顔を上げたセフィロの前にいたのは、黒髪ロングの小柄な少女だった。

 切り揃えられた前髪の下に、紫紺色の大きな瞳が鎮座している。

 首に外部からの来訪者であることを示すカードをぶら下げているので、セフィロのことを知らないのだろう。


 面倒なのが来た。

 セフィロが嫌われ者であることを教えてあげる必要がある。


「セフィロに近付くと菌が伝染うつるよ」


「風邪ですか?」


「有名だよセフィロ菌。セフィロに触られた人は誰かにタッチしてバリア~!ってするんだ」


 セフィロは胸の前で腕を交差させ、バリアごっこをしてみせた。


「ああ、そういう遊びがあるんですか」


 少女はなんの情動もなく、料理を載せたトレーをテーブルに置き、セフィロの向かいに腰を下ろした。

 セフィロは腕を交差させたまま硬直していた。

「セフィロ」という名前を何度も出したのだ。外部の人間とはいえ教会に関わる人間ならピンと来てもいいはず。


 教皇が情婦との間にもうけた不義の子。

 規格外の才を持つ魔術師にして稀代の問題児。

 まともな感覚の持ち主なら関わることを避けてくれるはずだった。

 だがこの少女には通じないらしい。


「…お前誰だ?教会の人間じゃないな」


「シキブです。ちょっとした検診があってお呼ばれしました」


 素っ気なく答えると、シキブはトレーに載せたシチューを口に運び始めた。

 もちゃもちゃと肉を咀嚼しながら、冷めた目で虚空を見つめている。

 駄目だ。わかっていない。

 もっと直接的に説明をしなければ。


「セフィロ…は……教皇の……娘、です……」


「ああ……そういえばなんか聞いたことありますね」


「頭がよすぎて…体がくさい、ので……きらわれて…います……」


「ふーん……」


 シキブはパンを齧った。

 ぼそっと「米がほしいな……」とつぶやく。

 セフィロのことよりも目の前の食事のほうが彼女にとっては重要らしかった。

 ここまでのやり取りで、セフィロは過去に感じたことのない感情に襲われていた。


 これまでセフィロと関わった者たちは良くも悪くも何らかの反応を見せた。

 才能を利用するため取り入ろうとするか、嫌悪感をあらわにするか。

 だがこのシキブという少女からは何も感じられない。

 シキブはセフィロに「興味を示さなかった」のである。


 教皇の娘であり、魔術の天才である自分を畏れもしない。

 嫌われ者の自分を嘲るでも憐れむでもない。

 まったくなんの関心も持っていないのだ。

 それはセフィロにとって、新鮮な屈辱感となった。


 セフィロは自分以外の人間をすべて取るに足らない存在と思って生きてきた。

 その自分が他人からモブ扱いされる日が来るなど、考えたこともなかったのだ。


 この少女の興味を自分に惹き付けたい。認識されたい。

 セフィロが他人に対して抱く初めての欲求であった。

 波立つ感情に戸惑いながら、セフィロは向かいに座って食事を続ける少女の顔を改めて視界に収める。


 美しいと呼ぶにはやや幼い顔立ち。

 愛らしいと言うにはどこか不気味な雰囲気。

 光の加減で色を変えるプリズムが如く、彼女の正体は判然としなかった。


 他人の顔のパーツをここまでつぶさに観察したことはない。

 無能の顔を覚えたところで脳味噌の無駄遣いになる。

 そう思って空けておいた記憶域が、あっという間にシキブの情報で埋め尽くされていった。


(なかよくなりたいなかよくなりたいなかよくなりたい……!)


 どうすればいいのか。

 誰かと仲良くしたことのないセフィロには難題であった。

 仲の良い人たちというのは普段どんなことをしているものなのだろう。

 とにかく何でもいいからシキブとの距離を縮めたかった。


 ふと、すこし離れた席にいる少女たちのやり取りが目に入った。

 互いの料理を一口ずつ分け合っている。

 とても仲睦まじい雰囲気。あれだ。


 セフィロがシキブに目線を戻すと、彼女がちょうどシチューを口に運ぶところだった。


「一口ちょうだいっ!!」


 テーブルに身を乗り出し、セフィロはシキブの持つスプーンにかぶりついた。


「むぐむぐ!ぢゅる…!ごきゅ!」


 スプーンを口に含んだまま具を噛み砕き、汁が一滴も残らないよう入念に舐め取り、口を離す。

 ろくに歯を磨かないセフィロの口から粘度の高い唾液が糸を引いた。


 シキブはすこし呆気にとられた様子で、ヨダレの滴るスプーンを見つめている。

 だが程なく、何事もなかったようにそれをシチューに浸した。

 肉と、汁と、セフィロの唾液を載せた金属の匙が、艶を放つ少女の唇へと運ばれていく。


 その様子をセフィロは血走った目で凝視した。

 応じるように、シキブもセフィロの目を見つめる。


 奴隷だった経験のあるシキブにとって、食器を使い回す程度のことは不潔のうちに入らないのだった。

 予期せぬ動きを見せる相手を警戒し、視線を外さぬようにするのは戦いに身を置く者としてのさが

 それだけのことだったが、セフィロにはなにかの儀式のように感じられた。


 そうしてゆっくりとシキブの咀嚼が終わり、「ごくんっ」と嚥下する音がセフィロの耳に淫猥な響きとなって届いた。

 仲良くなる儀式が終わったのだ、とセフィロは思った。

 この少女は自分の汚物を受け入れた。不潔さを馬鹿にされてきたセフィロにとって、この上ない「承認」であった。


 友達ができた。

 はじめての、自分と対等な存在が。


「せせせせせせセフィロのお部屋に遊びに来ますかッッッ!!!!?」


「あ?部屋?」


「セフィロは自分の研究をしているんだ!無能どもとは違う研究だよっ!君にも見せてあげるよ!!」


「んー……まぁいいですけど。暇なので」


「んきゃあああああああ……ッッッ!」


 セフィロは湯気が上がりそうなほど紅潮した顔ではしゃぎ声を上げた。

 そこに邪気はなく、友達ができたことを喜ぶ年相応の少女が居るだけだった。


 孤独な研究者が、他者から承認される幸福を知った日。

 同時に、世界が破滅へと向かう先触れとなった日である――。

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