第二話「脆く美しいこの世界で」
愛する人が理解者であり、自分を想ってくれる。そんな奇跡の前では、他の如何なる不幸すらも肯定されてしまうだろう。人生の最高の肯定形式。虹によって雨が肯定されるが如く、僕は自分の過去を肯定した。この未来に辿り着けたのなら、それは正解だったのだと。過去の自分がどんなに嘆き、悲しみ、希死念慮に押しつぶされそうになっていたとしても。今が僕の全てであり、世界とは今の連続体なのだ。
だからこそ、僕はこの美しい世界に酷く怯えている。至上の幸せを知ってしまったら、それを失った未来はどんなに不幸だろうか。その未来に辿り着くとは限らないし、そうさせない努力はするつもりだ。それでも、彼女が事故死したり、急病で亡くなったりする運命があるのだとしたら、僕個人ではどうにもできない。しかし、僕はラプラスの悪魔とは違う。未来は予測できない。だからこそ、その事実に甘えて今この瞬間の幸福を肯定し、享受しよう。それが僕の選択なのだから。
そう、これは選択だ。僕が彼女への想いを秘めたまま自殺するという選択をしなかった以上、失うことの恐怖と立ち向かい幸せを手にするという選択をしたということなのだ。人生は選択でできている。多くの馬鹿な畜群どもは、選択を放棄したりその重さを理解せずに周りに合わせたりして、『普通』を保とうとする。それで掴める幸せは家畜のものだ。僕は違う。臆病を自覚したからこそ臆病な人間を克服することができるのだ。本当に臆病な人間に、恐怖や不安はない。安住の地を抜け出すことがないからだ。臆病を自覚できるのは、安住の地から抜け出し、超人への橋に足を掛け、不安と恐怖に晒された者だけなのだ。人間を軽蔑し、超人へと向かう実存、それだけなのだ。ニーチェと見解は違うかもしれないが、僕はそう確信している。
背徳感の抜けたキスには、ただ愛と理解だけを感じた。欲望や自己満足とは程遠い幸福感が僕の心を溶かしていく。絶対に乗れないと思っていた満員電車に、僕は乗れた。彼女がついていてくれたから。それでも、やっぱりどうしようもなく怖かった。パニックを起こしかけ、過呼吸になった。周りの音、擦れる裾、気配、人、満員電車だという事実、それら全てが僕を殺しにきた。あの恐怖、強迫、不安、怒りを言葉で表し、経験のない人に伝えるのは難しい。それでも、彼女が僕の手を握ってくれていた。過呼吸症候群である彼女が、僕を理解して、僕に勇気をくれた。分かってくれる人が手を握って声をかけてくれるだけで、それだけでも、少しマシになった。
電車が目的地の駅に着く。人の流れから、僕は必死で逃げ出してホームの椅子に座り込んだ。頭を抱えて、なぜ僕はこんなこともできないんだとか、普通の人なら普通に乗れるのにとか、そういうことを考えて、もう心が折れかけていた。呼吸は自然と荒くなり、動悸がして、吐き気と強い頭痛にも襲われた。死にたいと思った。そのとき、彼女は水を持って僕の前にしゃがみ、「大丈夫、大丈夫だよ」と、そう言ってくれた。水を飲んで、彼女の顔を見ると、なぜか深い安心感に包まれた。ここにいていいんだと、そう言ってもらえた気がした。自分が壊れてしまいそうな孤独感の中に、彼女は入ってきて、手をとってくれた。それがなにより嬉しくて、僕は幸せだった。
それでも、自分の精神状態を上手くコントロールできないことで、自分に対して怒りを感じていたし、なによりさっきまでの恐怖と不安が心に刺さって抜けなかった。こんな僕では、誰にも受け入れてもらえないんじゃないかと、そう思いかけた。でも、僕には彼女がいてくれた。幼子をあやすように、僕を慰めてくれた。泣いてもいいんだ、弱くてもいいんだと、生まれて初めて思った。
憂鬱じゃない朝日、微笑ましい会話の声、素晴らしい人生、そんなものはフィクションの中のことだと思っていた。……というのは嘘だ。誤魔化しに過ぎない。僕の人生では有り得ないことだったから、そういう風に認識していたというだけ。実際は、フィクションじゃなくそういった日常を送っている人のほうが多数派であることくらい、僕だって承知していた。それが悲しくて、苦しかった。
目覚めて、身体が普通に動く。死ぬような思いをしてベッドから出るなんてことにはならない。ドアノブに嫌悪感を抱かない。吊り革くらいなら掴めるようになった。身体中を這うような不快感に襲われて、周りの人を全て殺したくなる衝動に駆られることもなくなった。弟の声に殺意を抱かない。家族が素晴らしく思える。親に感謝できる。感情を隠さなくていい。
絶対に有り得ないはずだったそれら全てが、今は僕の目の前にある。幸せと呼べる確かなものが、ここにある。そう確信できた。学校にも行けると、そう思った。
しかし、実際に行動に移してみると登校は予想よりずっと難しいことが分かった。昇降口まで行って、上靴に履き替える。そのとき、両脚に脱力感が襲い、息が苦しくなり、激しい頭痛が起こった。身体の全部が学校を拒否しているみたいに、動かなくなった。僕はなんとかそれを押さえ込んで、なんでもない表情で、久しぶりに教室の扉を開いた。現代社会の授業中だった。視線が僕に集まる。なんであんな奴が来てるんだとか、来なきゃ良かったのにとか、そんな含意があるようにしか思えなかった。きっと僕はここに受け入れられていない。そう思った。幸せになったつもりだったけど、普通に生きることはもうできないんじゃないかと感じた。それでもいいとすら思えたのは、彼女のお陰だろう。
彼女だけが心の支えだ。僕は完全に彼女に依存している。きっと彼女に振られてしまったら、僕は自ら命を絶つだろう。それも、容易に。そう確信していることが幸せでもあり、不安でもあった。幸せには不安が付き纏う。一番大きな不安は、僕が彼女になにもできないことにあった。彼女に支えられてばかりで、僕はなんの力にもなれていない。それが凄く悲しかった。
彼女が悲しんでいるとき、そばにいてあげたいと思った。彼女の涙を拭ってあげたいと思った。彼女の苦しみを分けて欲しいと思った。彼女とともにありたいと思った。そう思えたことが幸せだった。そう思ったことが悲しみだった。僕は酷く無力で、本当に彼女を幸せにできるのか、自信がなかった。強くなりたいと願うようになった。彼女と出会ってから、僕の世界が回り始めた。
父さんは、行きたくないなら今の高校を辞めてもいいと言ってくれた。「俺はどんなことがあってもお前の味方だ」って、そう言って抱き締めてくれた。今までの無理解を謝ってくれた。それがこの上なく嬉しくて、涙が止まらなかった。精神科のカウンセラーも信用できないわけではないが、より信用している小児科の主治医(中学時代からのかかりつけだ。)に勧められ、僕はスクールカウンセラーと面談をすることになった。
面談室のドアを開けると、少しおばさんといった感じの女性が座っていた。促されて椅子に座ると、カウンセリングが始まった。
「なんにも聞いてないんだけど、どんな感じ?」
少し笑いながらカウンセラーは言った。僕も釣られて笑う。
「起立性調節障害と過敏性腸症候群で総合病院の小児科に、強迫性障害で精神科のクリニックに掛かっています。あ、小児科には中三から通院しています」
メモを取りながら更に質問を重ねられる。
「起立性の方はいつから?」
「ええと、一昨年の夏くらいから発症して去年の秋、今ぐらいの時期ですね、に悪化しました。倒れるようになったのはその頃からですが、今ほど酷くはなかったです」
「倒れるっていうのは、意識なくなる感じ?」
身振りを交えながら、というより体を左右に揺らしながら、彼女はそう訊いた。
「いえ、意識消失はありません。脱力で倒れるって感じですね」
「あー、じゃあ頭から倒れたりはしないけど、ガクッてことか」
分かってもらえたのが嬉しくて、僕の声が弾む。
「そうですそうです!」
そうして僕について、それから僕の持病について説明していく。家の中では今日は観念が和らぐことや、人によって触れられるかが変わるということ、それら全部を話した。人間が嫌いだということ、彼女が心の支えだということ。
「彼女さんは分かってくれてるの?」
「はい、親とかよりもずっと多くを話してます。彼女も色々と問題を抱えているので、分かってもらえてると思います」
彼女なら、分かってくれると信じてる。人間に嫌疑しか浮かばなくなった僕の世界で唯一信じられたから、僕はあの人を愛している。
「うーん、それは今は良いけど」
「共依存に陥る可能性がある」僕は自分でそう言い切った。
「よく分かってんじゃん」
公認心理師を志している僕は、その程度の軽い知識なら持ち合わせている。
カウンセラーに僕自身と僕の考え方について話すことは苦ではなかった。むしろ楽しんでいた。話して分かってもらうという喜びが、コミュニケーションの本質なのだとしたら、高知能者のコミュニケーショントラブルというのが発生するのも仕方がないのかな。そんな残酷な摂理、神がいるのなら壊されてしまうだろう。だから、神は死んでいる。
「僕は人間が嫌いなんです」
カウンセラーはメモから顔を上げて「え?」と声を漏らした。
「もっと言うなら、馬鹿な人間が。学力とか、そんなことじゃなく、僕は単純で複雑な脳の力について話しています。学力じゃ、頭の良さなんて測れませんよ。
僕、小三のとき、まじで凄い人に会ったんです。めちゃくちゃ頭が良い人。学力のことじゃなく。いえ、学力においても素晴らしい人だったのですがね」
「その人っていうのは、同級生?」
確認のためにそう彼女は訊いたが、実際のところ同級生かどうかはあまり関係がない。重要なのは、僕が彼に出会ってしまったということ。僕は「はい」と頷いて話しを続けた。
「僕は彼の知性に美しさを感じました。完全性を知性が象っていた。でも、多くの人は彼の学力にしか目を向けず、彼の特異性については気持ち悪いとか、頭おかしいとか、そういった言葉を掛けました。僕が嫌いなのは、そんな、醜い人間です」
「なるほど。学力だけが知性じゃないってことが分からない人に、嫌悪感を抱いたんだね」
僕は強く頷いた。簡潔に言うとそういうことだ。この人は僕の言説を理解している。そんな安心感がうまれた。僕の根本に寄り添えるほどでは、つまり僕の恋人と同程度の理解ではなかったとは思うが。
そうしてカウンセラーとの面談を終えると、僕は気分の良いまま母親の運転する車に乗車した。これから弟の三者面談があると聞き、僕は中学校まで一緒に行くという決断を――愚かにも、下した。面談を終えた母親は僕に向かってこう言った。
「先生の起立性調節障害なんだって。話聞いたら全部が
は? 全部が僕と一緒?
「先生も満員電車乗らないって」
乗らない。満員電車が苦手な人なんて星の数ほどいる。HSPの人間なら大体は満員電車を嫌うし、それは病的なものではない。それを、僕(強迫性障害を持つ人)の母親が理解していなかった。なぜ、そこを「同じ」だなんて言ってしまえるのか。僕を悲しみと呆れと怒りが包み込んだ。溢れ出してしまいそうだった。あとで彼女に電話して愚痴を聞いてもらおうと、そのときは思った。
家に帰り、僕は真っ先にシャワーを浴びようとした。どうしようもないこの感情を洗い流すために。そうじゃなくても、僕は帰宅後シャワーを浴びなければ狂気に犯される。しかし、我が家はボディソープを切らしていた。僕はその場で手首を掻っ切って死んでしまおうかと思ったが、ひとつだけ打開する方法を思いついた。シャンプーだけを済ませて家を出て、煙草を吸う。
僕は同時に二人の人物に連絡を取った。一人は、彼女。今から会えないかと。もう一人は僕の悪友で、高校生の僕に喫煙の機会を作ってくれる同級生。我ながら完璧なプランニングだった。僕は先に悪友のほうに会って煙草を一本吸い――以前とは違いしっかりと肺にあの毒ガスを吸い込んだ――ついでに煙草を三本貰って彼女のもとに向かった。煙草は前に一度吸ったときよりもずっと心地よく、ニコチン依存症の実在性に説得力をもつものだった。僕はきっとそうなっていく。
僕が彼女のもとについたとき、彼女はその公園を歩いていた。遠くから彼女を見つけたときのあの幸福感は、未だ嘗て感じたことのないものだった。煙草臭い口から汚い愚痴を吐き出した。彼女は僕を受け止めてくれた。それだけが、至上の救いだった。僕らの関係も、少しだけ前に進んだ。
彼女に「じゃあね」と言って一人家に向かう途中、急に悲しみと苦しみがぶり返してきて、僕はコンビ二でライターを買った。煙草は全てなくなった。
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