h,偏在するあなた
あなたは何の用事もないのにホテルを予約する。自宅のすぐそばにある小さなビジネスホテル。
フロントで料金を前払いし、鍵を受け取って部屋に入った。8階。狭い部屋から自分の住む街が見えた。見慣れたはずの街並みは、8階の小さな窓から見下ろすと、普段とはすこしだけ違って見えた。
あなたはしばらく窓から外界を見ていた。空はよく晴れていた。風はない。世界は穏やかだった。
今日は小説を書かないことにしていた。ただどこか、普段とは違う場所に来て、普段とは違う景色が見たかった。それだけだ。
あなたは窓の外を見ていた。並木道があった。そこはあなたが駅に行くためによく歩く道だった。そこを一人の人物が歩いている。見慣れた背格好をしている。それはあなた自身だ。そのことに気づくが、あなたは驚かない。なんとなくそんなことが起こるような予感がしていたし、それはまるで、自分が好んで選びそうな小説のテーマそのものだったから。
「やあ、そこを歩くのは自分じゃないか」
あなたは、地上8階のホテルの一室から、小さな声で自分自身に語りかける。
「君はそんな猫背に歩いている。小説のことを考えているんだろう。その歩行の仕方は、思案する人物に特有のものだ。いつか小説が書けるといいね。何も物書きで糊口をしのぐことができなくてもいい。ただ自分が納得できるものを書き上げて、それを私室の抽斗にそっとしまっておけたら、それで君は満足なんだろう」
この独白が終わる頃、並木道を歩くあなたは角を折れて見えなくなった。ホテルの窓からそれを見届けた。そしてあなたは窓を締め、その日はずっとホテルの一室にいた。
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