g.貸部屋

 静かな住宅街のなかに古い洋裁店を見かけた。古めかしいが汚くはなく、看板や飾り窓には独特の趣があって、その佇まいはなかなか絵になっていた。


 入口扉に下げられた「洋服サイズ直し承ります」という札の隅に、手書きでこう付け足されている。「貸部屋有り……」




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 貸部屋有り、半日500円

 詳細は店主まで。

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 半日500円の貸部屋とは何なのか。入口扉を押してなかに入ると、色とりどりの端布や裁縫道具が賑やかにあなたを出迎えた。店の奥に据えられた足踏み式ミシンがカタカタと音を立てており、それを動かしているのは20代半ばの若い女性である。


「あの、ちょっとお聞きしますが……」


 ミシン台のすぐそばまで歩み寄ると、ようやくあなたの姿を認めて顔を上げ、彼女はすこし驚いたような顔をした。裁縫に夢中で来訪者に気づかなかったのだろう。かけていた丸眼鏡を外してミシン台の上に置き、彼女は口を開いた。


「いらっしゃいませ。仕立て直しですか?」


「いえ違います……表の看板を見たのですが、貸部屋というのは一体なんですか?」


「それなら2階ですよ」


 と言って、ミシン台の横にある狭い階段を指差し、上がっていく。あなたはそのあとを追った。狭くて、窓も無い殺風景な部屋に案内された。部屋というより屋根裏だった。家具は椅子が一脚あるばかり。裸電球が寂しく灯っている。


「この部屋は、どういう部屋なのですか?」

 

「何もしない部屋です」


「どういうことだろう?」


「一度試してみてはいかがでしょうか。500円です」


「そう言うなら、試しに……」

 

 言われるがまま彼女に500円硬貨を渡した。


「では、ごゆっくりお過ごしください」

 

 

 彼女は退室し、ガチャリと外で鍵のかかる音がした。

 

 押しても引いても扉は開かなかった。10分が経ち、30分が経っても、何も変化はなかった。あなたは仕方なく椅子に腰かけた。幸いにもトイレはあり、洗面所の水も出るので、生理的な心配をする必要はないようだ。しかし、これはどういうことなのか。それがさっぱりわからないのだった。


 あなたは椅子に座ってぼんやりとした。そうして、とりとめのないことを考えた。そのほかにすることがないからだ。ちなみに携帯電話は圏外になっていた。


 時間の経過をひどく長く感じた。――いつまでこうしていればいいんだろう。とんでもないことになったと思った。ところが、日々の雑事が次々と頭に浮かんでいるうちは1分を長く感じていたが、だんだんと考えていることが抽象的に、形而上学的に、哲学的になってくると、そうではなくなってきた。部屋のなかに蟠る静寂をとても心地好く感じた。気がつくと、いつの間にか半日が過ぎていたらしい。扉が開き、洋裁店の女性が僕に声をかけた。


「紅茶を淹れましたから、どうぞ」

 

  

 あなたは下階で紅茶をごちそうになり、店を出た。店を出るとき、また来てもいいかと聞くと、女性はいつでもと答えた。

 

 そうして、時折その洋裁店を訪れるようになって、例の貸部屋を利用するようになった。この部屋の効用は一言では表せないけれど、とても好ましいことであるのは間違いなかった。500円の価値はあると思う。あなたは月に一度くらい、何もしないためにその部屋を利用している。


 

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