第21話 私は怖いよ
「アッシュさん。どこまで行くんですかー?」
うう、外は土砂降りだ。地下道から出た私たち、正確に言えばアッシュさん続いて私は、さっそく雨の洗礼を受けることになった。うわ、外寒い。見れば吐息も真っ白だ。この数日でめっきり冬めいてきたものだ。
「ねー、アッシュさーん。寒いですし、部屋に戻りましょうよ。風邪引いちゃいますよぉ。――んぶっ」
唐突に立ち止まられると、こちらとしても対処のしようがない。無様にアッシュさんの背中に激突し、すっ転びそうになった。
雨音にまぎれて、アッシュさんが何かつぶやくのが分かった。
ほとんど聞き取れなかったが、聞き返すのもはばかられて、私は根気よく、彼がもう一度何か言うのを待った。
どれだけ経ったのか分からない。
ぐしゃ、とアッシュさんが乱暴に髪をかき上げる。拍子にしずくが飛ぶ。
ようやく、振り向いてくれた。
くそう、そんな、捨てられた犬みたいな目をしやがって。
「本当のところを、教えてほしい」
「本当の、って、どのことですか?」
「本当に、手っ取り早いと思っているのか」
言って、アッシュさんは再度目をそらし、そのままうつむいてしまった。
どう答えるのが正解なのか、私には分からない。
もし私が巫女様の何分の一かくらい頭が良くて、神山水樹くらい度胸が据わっていたのなら、もっと立派な返事が出来たかもしれない。でも私はあくまでへっぽこで、オツムも足らなくて、臆病な女の子にすぎないのだ。
この頬をつたう水滴が、果たして雨なのかどうか。ぬぐったところで分からなかった。
「そりゃあ、血を流すのは怖いです。めっちゃ怖くて、考えるだけで足もガクガクして、尻尾巻いて逃げちゃいたいです。私痛がりだし、こんな、足捻っただけでピーピー泣くような人間ですよ。竜だって怖いし、正直キモイし、立ち向かうのはすっごく怖いです。アッシュさんはあんなキモイ生き物とずっと戦ってるんだなあって思うと、尊敬を通り越して崇拝しそうです」
一息で言い切って、一旦、言葉を切る。
ああもう。雨が邪魔くさい。寒いし、視界はけぶるし、目は染みるし、いいことなんか何一つない。
「でも、私だって力になりたいんですよ。非常時の兵糧係とか、そんなお荷物みたいな立ち位置じゃなくて、もっと、こう、戦う……のは無理だとしても、お手伝いしたいじゃないですか。ただでさえアッシュさん、私のせいでバッドステータスついてるんですよ。申し訳なくて涙が出ちゃいますね。そんな罪悪感にさいなまれるくらいなら、血の一つや二つ、流した方がましってもんですよ」
身体が震える。くそう、寒さのせいに違いない。
言葉がつかえるのも、風邪がぶり返しているせいだ。
「だから、私の答えは変わりません。手っ取り早いのは手っ取り早い。私にだって、その覚悟はあります。人を呪わば穴二つ、って、相手は竜ですけど」
ふと、温かいものに包まれる。
アッシュさんは、どうやら、人を抱きしめるのが下手くそのようだった。変に腕に力がこもっていて肩が痛いし、私の鼻がアッシュさんの肩に潰されて苦しい。なによりロケーションがいけない。衆人環視の前じゃないか。
でも、このタイミングはずるい。
今までぎりぎりのところで踏ん張っていた涙が、猛烈な洪水のようにあふれだす。こんな顔、親にも見せなかったのに。私は子供のように声を上げて泣いた。
本当は私だって怖い。
神山水樹のような、死ぬほどの自己犠牲はごめんだし、もっとハッピーな異世界生活を送っていたい。
あんな風に啖呵を切っておきながら、いざ誰かにゴーサインが出されたら、きっと私は逃げ出すだろう。
もしかしたら、私はずっと怖かったのかもしれない。
だって、竜はでかいしキモイし、何より強いのだ。変な呪いを使ってくるし、火を吐くし。いくら手負いとはいえ、アッシュさんが満身創痍でなんとか倒せるレベルなのだ。そんなの普通に怖いじゃない。
何より、誰かがボロボロになっていくところを見るのは、思っているより辛いのだ。
ささくれがめくれた程度の血でも見るのが怖いのに、アッシュさんがいつも負うレベルの怪我なんか、普通なら失神してしまいそうだ。それに他人が苦しそうにしているのも耐えられない。それが私の過失のせいだとすると、なおさらだ。
それに、ここには、かつての知り合いがいない。
脳裏に、日本にいた人々の顔がよぎる。彼方ちゃんを筆頭に、いつもお菓子をせがんでいたクラスメート、厳しかった担任の庄野先生、いつも入り浸っていた駄菓子屋の店主のしずゑさん。口うるさいお母さんに気弱なお父さん、だいぶうざったいお兄ちゃん。
考えないようにしていたことが、脳の奥底から、どんどんあふれだす。
心底、怖かったのだ。
この世界にはあまりにも、知らないことが多すぎる。
アッシュさんはただ黙って、抱きしめていてくれていた。時折、ぽん、ぽん、と後頭部を叩く手さえ心地よい。
たぶんこの世界に、私の味方はほとんどいない。
でも少なくとも、この人は味方でいてくれるのだ。
「なーかした、なーかした。『竜狩り』が泣かした」
ひっくい女の子の声に、私は我に返った。
身体を離そうとするが、アッシュさんは腕の力を弱らせようとはしない。結局密着したまま、声のした方を向いた。
「……巫女様」
アッシュさんもひっくい声でつぶやく。まだ二人の冷戦は開戦中なのか、心なしか、二人の間に妙な緊張感がある気がする。
巫女様は半目のまま、眉間にシワを寄せてアッシュさんを見上げた。
「せっかくやつがれ自ら追いかけてきてやったというのに、貴殿はその間に淑女を泣かせておったのか。『竜狩り』の名折れだぞ」
「それは失礼いたしました。よもや巫女様おん自ら追いかけてくださるとは思っておりませんでしたので」
「本当、貴殿の口は減らぬなあ」
「お褒めにあずかり光栄です」
「ち、違うんです巫女様。アッシュさんは私を慰めてくれただけで」
「ほう! 一体ナニを慰めておったのか」
う、意外と耳年増だな、巫女様。
巫女様は「やれやれ」と盛大にため息をつくと、今度は私を見上げた。
「やつがれも、貴女の誤解を解こうと思ってな」
「誤解ですか? 何の?」
「やつがれも、人命を蔑ろにしてまで、竜をせん滅しようとは思わなんだ」
ぷい、と巫女様が顔をそむける。その頬は熟れたリンゴのように赤い。
「ただでさえ竜退治に向かうたびにボロクソになって帰ってくる男がおるというのに、貴女まで無茶をされたらかなわん。それこそ胃穿孔になるわ」
「巫女様……」
「まあ、戦わずして竜が殺せるのなら、それに越したことはないとは思っておる。貴女の血の件は、良い活用法が見つかるまでは保留だな。何より竜一体ごときで死にかけられては、この男と同レベルになるぞ」
「さて、巫女様はどの人物を指していらっしゃるのか」
「貴殿じゃ、ボケカス」
巫女様が子供のようにむくれて吐き捨てる。その様子が年相応に可愛らしくて、ようやく私は、いつものように笑えた。
アッシュさんも、もう大丈夫と思ってくれたようで、ようやく身体を離してくれた。案外私という人間は丈夫なもので、一人でも難なく立っていられた。
「貴女、機嫌を直したのは良いが、いささか笑いすぎではないか? さすがのやつがれも気分が悪い」
「ごめんなさい。だって、なんか、夫婦漫才みたい」
「誰が夫婦だ」
すこん、とアッシュさんの軽めの手刀が頭に刺さる。どうやらアッシュさんもちょっとむくれているようだ。彼もようやく本調子になってくれたようで、私は安心して笑っていられる。
ほんの少し、雨脚が弱まった気がする。
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