第19話 常葉紗衣は幸せになります
恒例の夢の話だ。
「見て見て紗衣ちゃん。クッキー焼いたの」
満点の星空のウユニ塩湖にて、なぜか設置されているベンチに腰掛け、水樹ちゃんはにこにこと紙袋を掲げた。
いや、ていうか。
「夢の中だよね、ここ。夢って味とか分かるの?」
「うんとね。ここは夢であって夢ではないから、大丈夫。しっかり太るわよ」
「食べにくいわ!」
しかしお菓子ジャンキーとしては無視するわけにはいくまい。ぬぐい切れない罪悪感を抱えつつ、一枚失敬する。ふむ、チョコチップがごろごろ入っているためか、食感がざくざくとして、とても楽しい。口当たりもなめらかで、とても美味しい。
「美味しい! 水樹ちゃん、お菓子作るの上手なんだね」
「どんどん食べてね。紗衣ちゃん細いから、正直、もっと太ってくれると嬉しい」
「正直すぎない?」
かく言う水樹ちゃんも十分細いと思うけどなあ。しかし乙女心とは複雑なもの。分かるよその気持ち。
ありがたく二枚目のクッキーを頬張ったところで、うふ、と水樹ちゃんが笑った。
「紗衣ちゃんの彼氏、かっこいいね」
「んぐ!」
まったく予想していなかった咆哮から右ストレートを喰らった。せっかくのクッキーが気管に入った。げほげほ、苦しい。
水樹ちゃんはにやにやしていた。完全に恋バナを楽しんでいる顔だ。
「いいなあ。強くて、かっこよくて、頭もいいんでしょう? それに大人だし、甲斐性もあって――」
「ちょ、ちょっと、水樹さん? あの、一応聞くけど、誰のこと言ってるの?」
「現代の『竜狩り』は紗衣ちゃんにお熱かあ」
「ちがーう!」
あの「アッシュさん血迷い事件」を思い出し、死にたいほど恥ずかしくなった。穴があったら、そこに引っ越して永住権を得たい。
と、いうか、だ。
「水樹ちゃん見てたの? どこから? ていうか、いつから?」
「ずっと見てるわよ。紗衣ちゃんが『竜狩り』に会ってから、仲よくなって、結ばれるまでの一大スペクトル」
「結ばれてない! はっ、じゃ、じゃあ、まさか、さっきの」
「熱いキスだったわね。憧れちゃう」
「うわー!」
見られた。死にたい。本当にしんどい。水樹ちゃん、こんなににこにこしながら的確に私の急所を突いてくるなんて、そんな子だとは思わなかった。無邪気って怖い。
「でも、紗衣ちゃんの話したいことは、カレとのラブラブ熱烈キッスではないでしょ?」
「そうだよ! 聞きたいことがあるの。水樹ちゃんって何者なの? 水樹ちゃんも見てたんだよね。飢餓の竜が、その、同士討ちを始めたところ」
「ああ、あの。紗衣ちゃんの独壇場だったわね。大立ち回りかっこよかったわよ」
「それはありがとう……。だけど私が言いたいことはそこじゃなくて! なんで竜は、水樹ちゃんの名前を出すだけであんなんになっちゃうの?」
「それねえ」
水樹ちゃんは目を伏せ、横髪を指に巻き付け始めた。そして最終的に、枝毛を探し出す。
ちょっと焦った。
「水樹ちゃん! 真面目な話だからちゃんと聞いて!」
「私この世界に来てから髪質が悪くなっちゃったの。紗衣ちゃんはどう?」
「そりゃあ私も悪くなったよ! でもそうじゃない! 今大事なのはキューティクルじゃない!」
「うん。私の名前のことだよね」
さく、と水樹ちゃんがクッキーを齧る。
「それを喋ろうとすると、ちょっと話が長くなるけど、それでもいいかしら?」
「うん。どんとこい」
「なかなか起きない紗衣ちゃんにやきもきして、彼氏がまたチューしちゃうかも」
「それは、ない、かな。うん、ない」
「そっかあ。貞操を賭けてもいいって言うのね」
いや、さすがに貞操は賭けられないんだけど。うん? 異国の処女が処女じゃなくなったら、それはそれでヤバイのでは? って、何を言ってるんだ私は。
水樹ちゃんはクッキーの最後の欠片を口に放り込んだ。それを大事そうに咀嚼し、飲み込む。
「まず、これは知っているだろうけど、異国の処女は竜にとって天敵なの」
「うん。それは何となく分かってる」
「じゃあ、どうして天敵なのかは分かる?」
問われ、私は首を横に振った。巫女様がいろいろ推理をしてくれたものの、結局答えにはたどり着けなかったのだ。
無知の私を、水樹ちゃんはけっして笑わなかった。唇の輪郭を指でなぞり、じっくり言葉を探している。
「紗衣ちゃんも薄々分かっているかもしれないけど、異国の処女の血は、竜にとって毒なの」
「そうなんだ」
竜は異国の処女の血を浴びたくないから、呪を使ってくる。地下図書館にて、巫女様もその可能性を示唆していたが、水樹ちゃんに言われて、ようやく私の中でも納得がいった。
でも、と水樹ちゃんは続ける。
「それは、紗衣ちゃんが思っている以上に過酷なものよ。現に私も何回か死にかけたもの。ま、結局死んだんだけど」
「え! 水樹ちゃん死んだの⁉」
「ああ、ごめんね。それは後で話すね」水樹ちゃんは困ったように苦笑した。「それより今は異国の処女のこと。紗衣ちゃん、異国の処女の血がどれだけあれば、竜を撃退できると思う?」
「ううん、どうだろう。竜からしてみれば、私たちに血を流させたくないから、ちょっとでもよく効くのかな」
「一リットル」
とっておきの答えを披露するように、水樹ちゃんが口角を上げた。
「竜一体を撃退するのに、だいたい一リットル必要なんですって。だから私も竜退治の場に駆り出されて、当時の『竜狩り』に滅多切りにされたものよ。何せ彼らにしてみれば、私の血さえあれば楽に竜退治が出来るもの。本当、困っちゃうわ」
「そんな」
「信じられない、って顔ね?」
実際信じられない。私が頷くと、水樹ちゃんはおもむろに立ち上がり、私の眼前に躍り出た。
セーラーの裾に手をかける水樹ちゃん。私は馬鹿みたいに慌てた。
「どうしたの水樹ちゃん! 水樹ちゃんに露出の趣味はないはずだよ!」
「女の子同士だし、大丈夫よ。それ!」
水樹ちゃんは、それはそれは男らしく、セーラー服を脱ぎ捨てた。ひゃー、たとえ同性同士だとしても気恥ずかしい。水樹ちゃんすらっとしたスタイルだから、余計にこっちが恥ずかしい。ああ、でも、ついガン見してしまう――
驚いた。
「水樹ちゃん――それ、何?」
「ふふ、びっくりした?」
びっくり、なんていう言葉では済まされない。
水樹ちゃんの上半身には、無数の傷痕が刻まれていた。
どれもケロイド状になっていて、ろくに縫合されていないことがわかる。それに、けっして小さな傷ではない。歴戦の戦士であるアッシュさんですら、ここまで傷つくことはないはずだ。
私の反応に満足したようすの水樹ちゃんは、今度はスカートのホックへ手を伸ばした。
ぱさ、と落ちるスカート。
下着姿になった水樹ちゃんは、醜い傷痕をむしろ誇るように、その場でくるりとターンした。
傷は、身体の隅々にまでわたっていた。
胸やお腹だけではなく、太ももやふくらはぎ、足の甲にまで及ぶ。もちろん腕にも傷口はあって、特に二の腕は無残に切り刻まれた痕が残っていた。
「当時の『竜狩り』も、さすがに普段見える場所に傷をつけちゃダメ、っていうのは分かっていたのよ。でも切り刻むと服までビリビリになっちゃうでしょ? だから当時の『竜狩り』は戦地に赴くとき、私を全裸同然にして連れて行ったわ。私金属アレルギー持ちだから、首輪つけられるたびに、かぶれて困ってたの。それに、この辺寒いでしょ? だから、本当それだけで死ぬかと思ったものよ」
「そんな。そんなこと、できるわけないよ」
「今の『竜狩り』は紳士だし、紗衣ちゃんに首ったけだものね。本当、うらやましいわ」
でも、水樹ちゃんのときの『竜狩り』は違った、のだろうか。
そんなの嘘だ、と思いたいが、目の前の傷だらけの少女は、何度目をこすっても消えなかった。私とほとんど年齢も変わらない女の子が、裸同然で連れまわされ、挙句の果てには傷だらけにされるなんて、悪い夢に決まっている。頭っから否定したいのに、水樹ちゃんの肢体の傷が、本当のことなんだぞ、と私に脅迫してくる。
あまりに無垢な水樹ちゃんの顔が、かえって痛々しい。
こんなのひどすぎる。こんなんじゃ、水樹ちゃんが――
「可哀想、って思ってるでしょ」
むに、と水樹ちゃんの人差し指が、私の唇を押す。
「確かに私は不幸せだったわ。夢にまで見た異世界転生がこんな結果じゃたまんないって、自分から死のうと思ったこともたくさんある。やっと死ねたとき、そりゃあ死ぬときは苦しいったらありゃしなかったけど、私はむしろ、やったー! って思ったわ。まあ、それだけしんどかったのよ」
「だって、実際可哀想だよ。私にも同じ能力があるはずなのに、なんで水樹ちゃんばっかり」
「ダメ」
水樹ちゃんが真正面から私を見つめる。その目は矢のようであり、矢じりはしっかり私の身体を射抜いていた。
「前にも言ったかと思うんだけど、紗衣ちゃんは伝説になるの。どういう意味か分かる? 紗衣ちゃんはね、私の希望なの。私にはできなかったたくさんのこと、紗衣ちゃんにはぜんぶやってほしいの。元気のまま竜を駆逐して、美味しいものをたくさん食べて、お友達もたくさん作って、『竜狩り』といっぱいイチャイチャして、いつもニコニコしていてほしい。お願いだから自分を犠牲にしようとは思っちゃだめ。誰かに強要されたら私に言って。夢枕に立って祟ってやるから」
「でも、水樹ちゃんはそれでいいの? 私だけがのうのうと幸せになって、楽しそうにしていて、苦しくない?」
「なんで? 紗衣ちゃんはもう一人の私だもの。私の代わりに幸せになってもらわなくちゃ困るわ」
そう笑う水樹ちゃんは、どこまでも優しい目をしていた。
「もう、おはようの時間ね。紗衣ちゃん、またね」
「待って、水樹ちゃん! 私、まだ聞いてないことがたくさんあるよ!」
「うん。私もまだまだたくさん話したい。でも、時間はたくさんあるから、大丈夫。また会えるわ」
最後に、水樹ちゃんが私の手を取る。ぽかぽかと温かい手だ。
「復唱して。常葉紗衣は幸せになります」
「できないよ。水樹ちゃんを差し置いて、幸せなんて」
「お願い」
その声は、どこか泣きそうな感じがした。
本当は、復唱するべきではないのだろう。悲惨な人生を送らざるをえなかった水樹ちゃんに申し訳ないし、私だってそんなに無神経じゃない。
でも、水樹ちゃんの目を見ると、いっそう胸が締め付けられるのだ。
「……常葉紗衣は、幸せに、なります」
その瞬間、水樹ちゃんがどんな顔をしたのか、知らない。
身体を揺さぶられる感覚がして、私は長いまどろみから覚醒した。
うっすら目を開けると、さらさらした銀髪が目に入る。背景は無機質な天井。眼前には、文字通り目が覚めるような美貌。
「……アッシュさん?」
呼ぶと、アッシュさんは安心したように、小さく息を吐いて、どいた。続いて身を起こす私に、なぜか、タオルを渡した。
「ひどい顔をしているぞ。拭け」
「寝起きだから、顔がむくんでいるだけです」
「そうじゃない」
アッシュさんが何かを言いよどむ。何だろう、と思ったところで、アッシュさんが、おもむろに己の目じりを指さした。目?
私も己の顔を触って、ようやく気づいた。
目元が濡れている。
「ひどい夢を見たのか?」
言われても、断片的にしか思い出せないのがじれったい。でも、すごく悲しい夢だった。
うなずくと、アッシュさんは私の頭に手を置いた。そのぬくもりが身体に染み込んできて、冷えた私の身体をほんのり温めた。
ほとんど覚えていないのに、目覚めた今でも、涙が止まらない。
しばらく私は、子供のようにめそめそ泣いた。
アッシュさんは何も言わなかった。いつもみたいに、何を考えているのか分からない顔をしていて、でも、それでもそばにいてくれた。
くっそう、ありがたいなあ。
泣きながら、断片的に、思い出したことがある。
ようやく涙も引っこんで、私はひどい顔のまま、アッシュさんにそのことを話した。
あのアッシュさんも、驚きで言葉を失った。当惑するアッシュさんに、私は同じことをもう一度繰り返した。
「……本当なのか?」
再度聞き返すアッシュさんに、私は念押しでうなずいた。
正確に言えば、思い出したことはふたつ。
神山水樹という「もう一人の異国の処女」の存在。
そして。
――異国の人が持つ、血のこと。
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