第18話 竜の巣その後
今回の後日談だが。
「へぶし! ちきしょーい!」
「貴女はまた風邪を引いたのか」
もはやお馴染みとなった診療所の一室にて、逆に巫女様の方が頭痛そうな顔をされた。ベッドサイドではアッシュさんが、世にも可哀想な生き物を見るような目を向けてきている。
そう、私は風邪を引いた。
あれだけアッシュさんから手厚い補助をいただいて、今度こそ風邪など引くまい、と思っていた矢先にこれだ。しかも今回は熱まである。うう、頭がぼんやりする。
「なんで……アッシュさんは、無事なんですか……」
「言ったろう。俺はお前より」
「頑丈だから、っていう次元じゃないと思うんですけどー……」
あの天候の中、ボロになったシャツ一枚で動き回っていたというのに、なんでこの人はこんなに平気そうなんだろう。身体が頑丈とか、そういう次元ではなく、そもそも身体の組織が違うとしか考えられない。
ふと、アッシュさんがすまなさそうに目をそらした。
「俺が無茶をさせたんだな。すまない」
「……その気持ち、よく覚えておくとよい。貴殿が周りに被らせている気持ちが、それだ」
「お言葉ですが、俺とて己の限界を分かっているつもりです」
「そうかそうか。後で鏡に向かって同じことを言ってみよ」
「そういう意味ではありません。今回は――」
言いかけ、アッシュさんは珍しく言いよどんだ。おや、と巫女様も顔を上げる。
「それが、やつがれを呼び出した理由か」
なんと、なんでこんなところに巫女様がいるのか疑問だったのだが、まさかアッシュさんが呼んだのだとは思わなかった。アッシュさんは指を組み替えつつ、言葉を慎重に選んでいるようだった。
ややあって、切り出す。
「コウヤマミズキ、という名称をご存知でしょうか」
名称、という言葉に、巫女様の細い眉が跳ねあがる。
「やつがれは知らぬが、貴殿はどこでその名称を?」
アッシュさんは迷うように目を伏せ、ちらりと私を見た。まるで私を気遣っているようだ。何を今さら気遣うことがあろうか。私はアッシュさんを信頼して黙った。
それ以上に、私もコウヤマミズキを知らないわけだ。
聞き覚えは確かにある。それも遠い昔ではなく、むしろ、この世界に来てから聞いたんだと思う。この世界に名前もないし、人名を聞く機会など皆無なのに、私は確かにこの名前をどこかで聞いた。しかし、それがどこだったのか、はっきり思い出せない。ここまで、喉元まで出かかっているのに。
アッシュさんは小さなため息を漏らすと、腹を決めたように顔を上げた。
「彼女が、言っていたのです」
「異国の処女か」
「はい。彼女が、竜との戦闘中にトランス状態になりました。その際、口走ったものが、この名称です。まるで……」
再度アッシュさんが言葉を切る。そして一層声を低くして、こう言った。
「憑依、されているようでした」
「は⁉」
声を上げたのは私だ。
なんということだ。誤解はまだ解けていなかった? あんなに、さんざん、嫌というほど説明したというのに? それとも私の説明を、アッシュさんが歪曲して受け取ったのかな。確かに私はあのとき、トランス状態、というか、ちょっとハイになっていたけれど。
なるほど、と巫女様が何か納得したように唸った。納得してほしくない。巫女様ともあろう人が、トランスと憑依の違いが分からないはずがないのだ。お願い、それは違うとはっきり言って。
「霊魂や幽霊など眉唾だと思っていたが、こうもイレギュラーな問題が積み重なると、何があっても不思議ではないな。これ、貴女は何か覚えているか?」
「正気も正気、私は平常運転でした!」つい身体を起こして抗議する。「ていうか、アッシュさんの言っていることは嘘です! 霊魂も幽霊も眉唾! 巫女様だって分かるでしょ?」
「と、彼女は言うが」
「俺もそれらは眉唾だと思っています。しかし、確実に彼女は正気ではありませんでした。俺の方でも調査してみますが、巫女様のお耳にも入れておきたく」
「まあ、正気を失った者ほど、己は正気だと言うものだしな」
まずい、このままでは私がヤバイ人みたいになっている。ていうか霊魂なんてないって言っておきながら憑依は信じるなんて、それって矛盾じゃない?
「ともかく、貴女は養生することだ。慣れぬことばかりで疲れておるのだろう」
「ちょ、ちょっと、巫女様。もう帰っちゃうんですか? 嘘でしょ? 私、まだ誤解解いてないです」
「お前は寝ていろ」
くっそー、普段私が同じこと言っても聞き入れないくせに、こんなときばっかり大人みたいなこと言ってくれるじゃない。しかしアッシュさんに無理やり寝かしつけられ、私のささやかな抗議はねじ伏せられた。
世とはまさに無情なもので、ではな、と巫女様もお部屋を出てしまう。ああ、このままじゃ巫女様に無駄足をさせてしまう。私に憑依体質などないのに。
あれもこれも彼のせい。精いっぱいの目力でアッシュさんをにらむが、普段の竜との戦闘で鍛えられた彼にはまったく効かない。
あまつさえ、アッシュさんは私の額を撫でるではないか。冷やっこい手は確かに心地よいが、まるで子供扱いだ。ますます面白くない。
「アッシュさん、私のこと、幼児か何かだと思ってません?」
「別にそんなこと思ったことはない。さっさと寝て、さっさと治せ」
「もう! 子供扱いは金輪際止めてくださいよ! じゃないと、その、ひどいことしますよ!」
アッシュさんが呆れたように半目になる。実際にため息まで漏らしやがった。聞かん坊だな、と唇が動くのが分かる。あんたにだけは言われたくないやい。
と、内心でぷりぷり怒っていると、ふと、アッシュさんが身体をかがめてきた。
どんどん近づいていくアッシュさんの美貌。うわ、まつ毛長い。肌も綺麗。至近距離で見つめられると照れちゃう。心なしかいい匂いまでする。って、これじゃあ変態みたいじゃない。
何をする、とか、聞いてるの、とか、いろいろ言いたいことはあった。
言う前に、唇に柔らかいものが触れる。
目の前にはアッシュさんの、エメラルドグリーンの瞳。瞳孔だけが真っ黒で、吸い込まれそうだ。
ちゅ、と、リアリティのない音を立てて、アッシュさんの唇が離れる。そしてしまいには、ぺろりと唇を舐められた。
キスされた、と思い至る前に、アッシュさんが薄く笑った。
「これが大人扱いだ」
「――ッ!」
な、な、なんということだ。
こっちの世界に飛ばされた当初より混乱する。え、何、大人ってこんなことするの? これってこの世界で普通のことなの? 意外に唇って柔らかくてあったかいんだ。等々。さまざまな考えが脳内で交錯する。完全にパニクった私をよそに、アッシュさんはあっさり離れ、ベッドのへりに、私に背を向けて腰かける。これが大人の余裕か。まんまと焦ってしまって何だか悔しい。
がしゃーん! と陶器が落ちる音が空を裂く。
見れば、変な色の液体が入った皿が割れていた。そのすぐそばには巫女様だ。あ、お薬貰ってきてくれたんだ。巫女様は私より顔を真っ赤にして、ぷるぷる震えていた。
「ふ、二人とも、やつがれが知らぬ間に、もうそんな仲睦まじい関係に」
「あの、巫女様、誤解です! 私たちそんなんじゃ」
「いやいや、やつがれは何も見ていない! どうぞ、続きを。やつがれのことは気にせんでよいから」
「巫女様聞いて!」
「俺からもよろしいでしょうか」
おお、アッシュさん、いいぞその調子。私が内心で応援する中、まるで何事もなかったかのように、アッシュさんは平然と言った。
「恐れながら、男女の仲に口を挟むのは無粋というものです」
悲鳴を上げる巫女様。内心で断末魔を上げる私。
脱兎のごとく逃げた巫女様を見送り、アッシュさんが一言。
「やりすぎたな」
当たり前じゃ、馬鹿!
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