第10話 紗衣の夢十夜

 こんな夢を見た。

 上は満天の星空、下はウユニ塩湖のように透き通った湖。私はその水の上に立っていた。

 ここはどこだろう。もしかして本当に二度目の転生をしてしまったのだろうか。それにしては何もなさすぎる。あたり一面星くずだらけで、あとは人影があるだけだ。

 ――人影?

 そこで、湖の上にもう一人、誰かが立っていることに気付いた。その人がゆったりした歩調で近づいてくる。私と同じくらいの歳の頃の、髪の長い、セーラー服の少女だ。頬はあどけなくふっくらしているが、口元はきりっと大人っぽい。はっとするほどの美少女ではないが、目が離せない存在感だ。

 少女は私から二メートルほどの距離のところで立ち止まった。風もないのに、彼女のプリーツスカートがはためいている。

「初めまして、異国の処女さん」

「あ、あなたは?」

 私の問いには応えず、少女は微笑したまま首を横に振った。そして口に人差し指をかざす。黙って、というジェスチャーだ。

「もう一人の私さん。あなたは伝説になるの」

「伝説……」

「私がなしえなかった伝説。この国の歴史に、あなたの名が永遠に残ることになる」

 歌うように彼女は言う。聞けば聞くほど、その声は私に似ていた。

「名前のない国に名前が残るの。それは必然であり、私の望みでもある。あなたは名前がお好き?」

 初めて少女が問いかけてきた。しかし、簡単に答えられる問題ではない。私は首をかしげるしかできない。

「私は名前が大好きよ。名前を呼ばれると幸せな気分になる。私の存在が許されるような気がするの。あなたも同じのはず。だってあなたは、私と同じ、名前のある国からやってきたのだから」

 再び、少女が私の目を見る。

 その瞳は、ぞっとするほど黒かった。

「寂しいでしょう? 名前を呼ばれないことは」

「そんなこと」

「だから、名前を残すの。みんながあなたの名前を憶えている、そんな伝説に」

 一拍の沈黙。少女は星空を見上げた。

「それが、私の望み」


 まあ、目覚めたら、すべて忘れてしまったのだけれど。

 たっぷり寝たような気もするし、あまり寝られなかったような気もする。ただ、あまり目覚めはよくなかった。悪い夢を見たような気はしないが、良い夢でもなかったような気もする。

 アッシュさんは椅子に腰かけ、壁によっかかって、まだ眠っていた。彼の寝顔はどこかあどけなく、いつもより可愛らしく見えて、つい笑みが漏れる。カーテンの隙間から、黄色い朝日が差し込んでくる。部屋の中は、しんと冷たかった。もしかしたら、まだ早い時間帯なのかもしれない。ということは、私はまた、あまり寝られなかったのだ。

 まだ寝ていたかったが、すっかり目が覚めてしまった。お手洗いに行こうとベッドを降りると、アッシュさんが薄く目を開けた。

「早いな」

「ごめんなさい。起こしちゃいました?」

「構わない。俺もちょうど起きたところだ」

 言って、彼は立ち上がった。身体が強張っているのか、軽く伸びをしている。それが、彼の言葉を嘘くさくさせていた。

「アッシュさんも本調子じゃないなら、遠慮なくベッドで寝てください。いっぱい休んで、次に備えてください」

「そういうわけにはいかないだろう。お前から離れたら死ぬんだ」

 そうだった。

 二人そろって部屋を抜け出し、並んで廊下を歩く。朝の診療所は静かだった。まだ職員が出社していないからかもしれないし、もしかしたら、私たち以外に患者がいないのかもしれない。

 私が用を終えると、彼は律儀に待っていてくれていた。外の方へ軽く顎をしゃくらせる。

「顔でも洗いに行こう。ひどい顔をしているぞ」

「うう。寝起きは顔がむくむんですよ」

 ふ、とアッシュさんはおかしそうに笑った。彼も心を許してくれたのか、笑顔を見せることが多くなった気がする。それは喜ばしいことだが、今回ばかりはあまり面白くない。

 それに私ばかりからかわれるのは癪なので、私も反撃に転じることにした。

「アッシュさんはお鬚、生えないんですね」

「ヒゲ? 聞いたことはないが、おそらく、生えたことがないな」

 それは日本男子がうらやむ話だ。うちのお父さんにも言って聞かせてやりたい。

「俺も一つ、聞きたいことがあるんだ」

「何です?」

「お前は、もとの国に帰りたいとは思わないのか?」

 思わず足を止めた。アッシュさんも合わせて立ち止まる。そして息を吐き、気まずげに目をそらした。

「すまない。無粋な質問だったな」

「そりゃあ、帰りたいですよ。向こうには友達もたくさんいるし、大好きなお菓子もたくさん売ってるし。お父さんもお母さんも、ちょっとうざいお兄ちゃんもいて、それを思うとホームシックになりそうです。でも」

 今度は私が目をそらす番だった。腰にはよれによれたプリーツスカート。急にそのシワが気になって、簡単に手で伸ばした。

「アッシュさんを放って帰るわけにもいかないですから。私のせいで死んじゃうなんて、あまりに夢見が悪すぎますし」

「それはどうも」

「茶化さないでください。私、本気で心配してるんですよ。私から離れたらお互い死んじゃうし、アッシュさん、放っておいたら餓死しちゃいますから」

 いい終わるのが早いか否か、ぽん、と頭に大きな手が乗った。アッシュさんだ。アッシュさんはぽんぽんと私の頭を軽く叩いた。

 手が離れて、ようやくその意味に気付く。

「もー! 子供扱いしないでください! 私は立派なレディですよ!」

「悪かった。つい」

「ついって何ですか! 言っておきますけど、次はないですよ!」

 くく、とアッシュさんは再度笑った。からかわれていると思うと悔しいが、正直言えば、あまり悪い気がしないのも事実。しかしそれを認めればやっぱり癪に障るので、絶対に口には出してやらない。

「頼りにしてるぞ」

「もちろんです! 泥船に乗ったつもりでいてください!」

「それじゃあ沈むだろ」

 やかましいわい。こちとら普通の女子高生だぞ。大船なんか造船する技術なんかないのだ。

 さて井戸とやらを拝もうか、と外に出たときだ。

「お待ちしていました」

 そこには、いつか会ったばかりのローブロリっ子がいた。確か巫女様のお使いだったっけ。ということは、巫女様がお呼びなのかな?

「なあに、ロリっ子ちゃん」

「私に名前をつけないでください! 『名称の呪』をまた結ぶ気ですか!」

「死にたいのか、お前は!」

「名前じゃないし! ただの……属性? だから!」

 二人とも、そんなに怒らなくてもいいじゃん。まあ、ほとんど初対面の女の子を「ロリっ子ちゃん」と呼ぶ私も大概どうかしていると思うけれど。でも、ほら、この世界に来てからというもの、あまり女の子に接する機会がなかったから、ちょっと浮かれていたのかもしれない。まあ、ジャパニーズ・ジョークということで大目に見てね、怖い顔しないでね。

 ぷんぷんと憤慨が収まらない様子のロリっ子ちゃんだが、自分の役目はしっかり覚えていたようだ。

「お二人とも、巫女様がお呼びです」

「ロリっ子ちゃん。あの、私顔洗ったり歯を磨いたりしたいなー、なんて」

「巫女様がお呼びです」

 絶対に譲らない様子のロリっ子ちゃん。ていうか、ロリっ子ちゃんがこんなに怒ってるの、私が変なあだ名をつけちゃったせいか。

 しかしロリっ子ちゃんは、小さく、こう付け足した。

「……少しなら、お待ちします」

 なんとこの子、ロリにしてツンデレだったのだ。

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