第3話 オナマエとは何ぞや
この人、見かけによらず大分小食なようで、ドーナツを五つ食べただけで満足したようだ。もっと食べてもいいよと言っても固辞された。うーん、そこまで言うならいいか。また小腹が空いたときにプレゼントしよう。
「街まで三日かかるが、お前はどうする?」
元気になった男性に聞かれ、私は一つ返事でついて行くことにした。というか、一人にされたら私が野垂れ死ぬ。またあの化け物に遭遇したら怖いしね。
小雨の降る中、男性はコンパス(のように見えるけど、私の知るコンパスとは形が違う)を確認しながらスタスタと進む。時折私を振り返り、きちんとついて来られているか確認してくれるあたり、同世代の男子より百倍優しい。
話題はもっぱら「オナマエ」のことだった。
「まさかお兄さん、お名前がないんですか?」
「少なくとも俺は聞いたことがない」
「じゃあ、みんなから何て呼ばれているんですか?」
「お前、あんた、君、あなた……」
「それ二人称だから!」
まあ、こんな感じだ。
私もかつてないほど困っているが、男性も同じくらい困っているような顔をしている。端正な眉間に浅いしわを作り、緑色の目を伏せた。
「お前には、その、オナマエというのがあるのか?」
「もちろん! 常葉紗衣って言います。みんなから、紗衣ちゃん、菓子売りの常葉、誘拐犯常葉氏、紗衣おばあちゃんってあだ名で呼ばれてるんですよ」
「アダナは、オナマエとは違うのか?」
おっと、余計ややこしくなってしまった。
しかし、名前を知らない人に、名前とは何かを説明することがこんなに難しいとは思わなかった。少なくとも日本、はおろか地球上に名前がない人はいないはずだ。名前がつけられていなかったら、それは立派な虐待だからね。
男性は小さく唸ると、自信なさげに言った。
「界隈では、俺は『竜狩り』と呼ばれている」
「そう! それがあだ名ですよ! で、本名は?」
「ホンミョー?」
「ごめんなさい、失言でした。で、お名前は、ないんですか?」
「ない、と、思う。俺は聞いたことがない」
さて困った。この世界、私が思っている以上に、日本と文化が違うようだ。ふふん、こうなったら、私が名付け親になるしかないな。この私、ネーミングセンスには自信があるのだ。なにせいとこの赤ん坊に名前を授けた女だ。その子、「李亜夢」ちゃんって言うんだけどね。
「じゃあ、私が勝手につけますね。いいですか? 本当にいいですか?」
「構わない。好きなように呼べばいい」
「『竜狩り』っていうあだ名なんですよね。うーん、そうだなあ。じゃあ、『竜』さん?」
「俺は竜じゃない」
なんだと。さっき「好きなように呼べ」とか言ってたのに、早速ケチつけたな。
「ダメかあ。うーん、竜、竜……ドラゴン? ドラちゃ……」
いかん。国民的青狸を連想させてしまう。何よりこんな美形を「ドラちゃん」なんて呼びたくない。絶対笑っちゃう。
「ドラ、ドラー、ドーラ……」
しまった。今度は天空の城の空賊のトップになってしまった。あの独特なフォルムを連想してしまい、即却下。
じゃあ、ドラゴンから離れてみよう。ドラゴンといえば、ドラクエ? モンハン? ダメだ。あまりに知識の引き出しが少なすぎる。アイルーとか可愛いかなとも思ったけど、呼ぶたびに、あの愛くるしい姿を思い出しそうだ。にやにやしちゃう。他。ドラゴンアッシュ――は、バンドだ。でも名曲揃いだよね。ん? アッシュ……? なんだかかっこよさげな響きだな。うん、意味はよく分からないけど、ドラゴンアッシュ御中に敬意を示し、お名前をお借りしよう。
「じゃあ、アッシュさんでいいですか?」
「構わない」
「じゃあお兄さん、今日からアッシュっていう名前ね!」
私がどや顔を決めた、そのときである。
びりっ! と、右の手の甲に鋭い痛みが走った。
それは男性も同じだったようで、一瞬手首を跳ねさせ、不審げに手の甲に目を落としている。
なんだろう。私の目の錯覚でなければ、手の甲が一瞬、光ったような。
「な、な、なんじゃこりゃー!」
私が絶叫するのも無理はない。
手の甲に、焼印が記されていたのだ。
それは筑前煮のこんにゃくのようにも見えるし、鎖の一部のようにも見える。うん、たぶんこれ、鎖だ。こんにゃくなわけないか。見れば男性、改めアッシュさんの手の甲にも、同じ焼印がある。アッシュさんの方には鎖の他に稲穂の焼印もあるが、そんなこと今はどうでもいい。
「あ、あの、アッシュさん。これ何ですか?」
「俺も知らん。こんなの、聞いたことがない」
ひゃー、余計に怖い。こすっても消えないし。私もしかして、余計なことをしてしまったのだろうか。
しかしお互い何も知らないのだから、これ以上話が広がるわけもなく、変だねー、という結論で、この話はおしまいになった。
しばらく進むと、草原を抜けて、森の中になる。
樹齢何百年もありそうな立派な木々が所狭しと立ち並ぶ。地面には根が張り歩きにくいが、草原を延々歩いていたときより、景色が良くて面白い。なにより、葉っぱがいい感じに雨を防いでくれて、あまり濡れずに済むのがいい。
アッシュさんは、近くの樹に実っていた、しもぶくれのリンゴみたいな果物をもぐと、ぽいぽいと革袋の中に入れた。
「何ですか、これ。美味しいんですか?」
「ポックルだ。知らないのか?」
「ぽっくる? うーん、聞いたことないです」
私が首を捻っていると、アッシュさんが一つ手渡してくれた。小さな見た目に反して、ずっしりと重たい。
「食ってみろ」
「いただきます」
リンゴさえ丸かじりをした経験のない私だが、ここで臆するわけにもいくまい。このポックルなる果物がせめて美味しくありますように。えい、丸かじり! もぐもぐ。
おお、美味い!
味はリンゴよりオレンジに近いが、ブドウのような甘みもある。食感は梨だ。蜜もたっぷり詰まっていてジューシー。甘党にはたまらないね!
「美味いか?」
「はい! 超美味しいです」
「なら良かった」
さくり、とアッシュさんもひとつ齧る。対する私はあっという間に完食してしまった。はー、美味しかった。
このポックルなる果物の他に、アッシュさんはさまざまな果物を採取した。キイチゴみたいな実だったり、ザクロとブドウを足して二で割ったみたいなものだったり。中には、これ本当に食べられるの? というグロい見た目のものもあった。
アッシュさんが採取するものは果物に限らない。ずんぐりむっくりな動物を狩って捌いたり(グロすぎて直視できなかったから詳細は不明)、清流から飲み水を汲んだりもした。そうしてしばらく歩き、日が傾いたところで、今日の旅はおしまい。簡単なシェードを張り、焚き木を点けて、今日のところは野宿となった。
動物のぶつ切り肉を夕食に、そして果物というデザートまでついて、お腹いっぱいになった私はさっそく眠たくなった。ありがたいことに茣蓙と毛布を借りて、寝る準備は万端。では、おやすみなさい。
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